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三成の実像1955 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」27
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月3日条には次のような記載があります。  「義演が豊臣秀頼の御祈祷をおこなう。伏見城より落ちた者(落武者)を搦めて出すように(大坂の)奉行より申して来た。もし在々にいるのかどうか、寺領分に堅く仰せ触れた」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  ... ...続きを見る

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2017/06/30 10:31
三成の実像1954 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」26
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「中臣祐範記」には次のように記されています。  「昨日の一日に伏見城が落城した。伊賀の城を(留守居の家臣が)増田長盛に渡した。(伊賀の城の城主である)筒井定次は(上杉討伐のため)関東へ出陣していた。よ... ...続きを見る

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2017/06/29 18:05
石田三成の実像1953  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」3 地震で被害、改修
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」の続きです。  天正13年に起こった天正大地震の際、佐和山城も被害を受けたことについて、佐和山城が壊滅したとの記述が一次史料にあることにも触れられていました。地震の被害の後、佐和山城本丸を中心とした山上曲輪群の改修が開始されたという説明もありました。この改修について、実施したのは城主の堀尾吉晴ですが、その設計図を書いたのは田中吉政ではなかったかという、注目すべき推定が下高氏... ...続きを見る

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2017/06/28 10:16
石田三成の実像1952  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」2 八幡山城型
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、天正13年に築城された秀次の本城の八幡山城と支城である佐和山城と岡山水口城の構造の類似性に言及されてきました。このことは、以前の講演会でも指摘されていましたが、八幡山城は山の上に曲輪群があり、山麓の曲輪群と城道でつながっており、山の周りは、堀、土塁で囲まれ、北側には琵琶湖が広がっています。堀・土塁の南側に城下町があり、街道が通っています。水口岡山城は山の中なので琵琶湖... ...続きを見る

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2017/06/27 10:04
石田三成の実像1951 下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」1 天正13年城郭体制
 昨日は拙ブログの接続状況が悪く、更新ができませんでした。  さて、鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、レジュメに掲載されていた資料は、彦根城の開国記念館で開催中の「佐和山御普請・彦根御城廻御修復」で展示されていたもの、及びその図録に掲載されているものが使われていました。  22日には昼過ぎに彦根に入り、食事(駅前で「三成カツ丼」を食べました)してホテルに荷物を置いてから、幕末の井伊直弼が藩主になるま... ...続きを見る

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2017/06/26 10:18
三成の実像1950 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」25
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されています。  「左大史孝亮記」には、次のように記されています。  「伏見(城)本丸が落居(落城)し、大将の鳥居元忠一人が(伏見城の)本丸において切腹した。家々は滅亡し、手負い・死人等は数知れず(限りなく多い)。洛中の遊民は見物... ...続きを見る

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2017/06/24 10:43
三成の実像1949 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」24
 彦根に一泊し、鳥居本公民館での、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」に参加してきました。下高氏には昨年12月、連続講座「近江の城郭」の一環として佐和山城跡・城下町跡を案内していただきました。今回の講座の内容はその時のものと重なる部分もありますが、新たな知見もいろいろと得られました。内容については、拙ブログ記事で改めて紹介したいと思います。    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学... ...続きを見る

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2017/06/23 21:35
三成の実像1948 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」23
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「言経卿記」には、「伏見城が落城した。寄手勢3000人程が負傷した。(伏見城は)すべて焼けた。(こうしたことは)言語道断であり、説明できない、ということである」と記されています。  この記載についての、白峰氏の... ...続きを見る

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2017/06/22 10:41
三成の実像1947 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」22
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されています。  「舜旧記」には、「伏見城が落ちる。籠城した鳥居元忠が自害した。そのほかの軍兵も討死した。城はすべて焼けた」と記されています。  「城はすべて焼けた」という点が注目されます。この記載が事実とすれば、城が全焼したことになります... ...続きを見る

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2017/06/21 09:59
三成の実像1946 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」21
 15日に「星野リゾート ロテルド比叡」に一泊し、翌日、延暦寺の東塔エリア、西堂エリアを回り、ケーブルで坂本に出て、町中を少し散策してきましたが、その記事は写真入りでフェイスブックの方で順次紹介しています。興味のある方はご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/20 10:22
三成の実像1945 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」20
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月29日条には、「大坂へ制札を取りに遣わした」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「昨日の騒動で小早川秀秋の制札(本稿の7月25日の項を参照)が役に立たなかったため。大坂(7月晦日条を見ると、三奉行の制札があることがわかる)... ...続きを見る

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2017/06/19 10:23
三成の実像1944 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」19
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「義演准后日記」の7月27日条には、「伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める、ということである」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「『伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める』ということは... ...続きを見る

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2017/06/18 09:49
美術探訪11 石田三成の実像1943 「海北友松展」13 最晩年期の押絵 三成に縁ある僧の賛
 「海北友松展」の「第九章 墨技を楽しむー最晩年期の押絵制作ー」には、押絵のうち賛が施されたものが展示されていましたが、押絵とは図録には「屏風の一扇ごとに絵を押す(貼る)ところから、このように呼ばれるもの」と記されています。  その中でも興味を惹かれたのは、「人物・花鳥図押絵貼屏風」で、十二図のうち半分が大徳寺の僧が賛を施しています。6人のうち沢庵宗彭、江月宗玩は三成と関わり合いが深かった人物です。沢庵も江月も、慶長4年、奉行を引退した三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建立した時、佐和... ...続きを見る

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2017/06/17 10:22
三成の実像1942 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」18
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月26日条には次のような記述があります。  まず「舜旧記」には「毛利(輝元)の内義より湯立(豊国社)」と記されていますが、このことは前述したように、7月18日条にも記されています。  「北野社家日記」には、「毛利輝元より毎月の祈念料9寛文が来る(北野天満宮)」と記されていますが、こ... ...続きを見る

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2017/06/16 17:57
石田三成の実像1941「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」2 
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、前述したように、 「舜旧記」には、秀吉の月命日である7月18日に毛利輝元の妻が豊国社に参詣していると記されているものの、北政所は豊国社に参詣しておらず、北政所はどちらかに荷担していると思われないように参詣を取りやめたのではないかと推測されていました。しかし、7月23日に宇喜多秀家が、8月2日に毛利輝元が豊国社に参詣した時には、北政所も参詣や祈祷をしており、北政所が奉行衆・毛利方の豊臣公儀... ...続きを見る

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2017/06/15 10:37
石田三成の実像1940「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」1 おねは中立?
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、北政所は中立的な立場に立っており、秀吉政権のわが子同然の家臣同士の戦い(福島正則も加藤清正も石田三成も若い時から可愛がっていました)に心を痛めていたという捉え方がされていました。これは、従来、北政所が家康寄り、東軍寄りだったという見方がされており(司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」【新潮文庫】でもそういう描き方でした)、そういう見方からすれば、一歩踏み出した描き方がされており、その点は評価でき... ...続きを見る

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2017/06/14 10:21
三成の実像1940 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」17
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、小早川秀秋のことについて、「北野社家日記」の7月23日条、24日条、「義演准后日記」の7月25日条に記されています。  「北野社家日記」の7月23日条は以前にも紹介しましたが、24日条も、「北政所が小早川秀秋の祈念のために御千度のことを命じ、200疋を下されたので申し付ける(北野天満宮... ...続きを見る

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2017/06/13 10:09
三成の実像1939 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」16
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月24日条には、伏見城攻めのことだけでなく、大津城のことも記載されており、興味深い内容です。  すなわち、「大津城は宇喜多秀家に渡す、ということである。ただし、(この話については)真実かどうか知らない。毛利(輝元)が瀬田橋に城を用意した、ということである。伏見城は堅... ...続きを見る

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2017/06/12 10:11
石田三成の実像1938 中野等氏「石田三成伝」47 忍城攻め後 
8日に、京都コンサートホールでのギタリスト松尾俊介氏の演奏会を聴きに行き、充実した贅沢な時間を味わいましたが、フェイスブックでこのことについて少し触れています。    https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/11 11:29
三成の実像1937 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」15
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「時慶記」の7月23日条には、西洞院時慶が大坂城で石田正澄等の軍勢が多かったという記載がありました。ここに三成の名がないということは、三成が大坂城に来ていなかった傍証の1つになるのではないでしょうか。三成が挙兵後、大坂城に初めて入ったのは、伏見城の督戦に来た後の7月30日... ...続きを見る

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2017/06/10 10:57
三成の実像1936 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」14
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の7月23日条には、引き続いて、伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「今夜、伏見で大鉄炮(『大てつはう』)がことのほか鳴る」と記されています。  この記載について、白峰氏の解説には、「鉄炮の音と大鉄炮の音の違いを聞き分けることができたということか?」と... ...続きを見る

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2017/06/09 10:20
三成の実像1935 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」13
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の7月23日条に宇喜多秀家が「豊国社へ参詣した」という記載があります。  宇喜多秀家はすでに同日記の7月5日条にも「豊国社に参詣した」と記されていますが、この記載について、白峰氏は次のように解説されています。  「7月5日の時点で宇喜多秀家は上方にいたことになる」  「こ... ...続きを見る

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2017/06/08 16:36
石田三成の実像1934 中野等氏「石田三成伝」46 北条攻め10 忍城攻め3 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めについて、「忍の攻城戦は、秀吉軍の圧倒的な物量作戦・組織力を見せつけるためのデモンストレーションであったと見るべきであろう」と記されています。  こういう見解も、中井俊一郎氏によってすでに唱えられており、その点も中野氏の同書で、一言言及があってしかるべきではないでしょうか。中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、次のように指摘されています。  忍城の水攻めについて、「多額のコストと労力を必要とするものであ」り、秀吉が水攻めに... ...続きを見る

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2017/06/07 10:18
石田三成の実像1933 中野等氏「石田三成伝」45 北条攻め9 忍城攻め2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めは三成の発案ではなく、秀吉の指示によるものだったという見解が示されていますが、それについて中井俊一郎氏の先行研究があるにもかかわらず、そのことについての言及がないことを拙ブログ記事で前述しました。中野氏の同書の参考文献として、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)も挙げられているのですから、中井氏の先行研究があることには触れるべきだと思います。中野氏の同書で他の学者の先行研究についてはたびたび言及されているのですから、なおさら... ...続きを見る

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2017/06/06 10:08
石田三成の実像1932 中野等氏「石田三成伝」44 北条攻め8 忍城攻め1 
 昨日、甲子園に阪神・日本ハムの交流戦観戦に行ってきましたが、その記事はフェイスブックで写真入りで掲載しています。   https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/05 10:13
石田三成の実像1931 中野等氏「石田三成伝」43 北条攻め7 館林城攻め
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動について具体的に述べられいますが、最初は秀吉に近侍していたものの、5月下旬に秀吉に命じられて、館林城ついで、忍城攻めに向かいます。  三成は館林城を開城させますが、10数年前、オンライン三成会の人々と共に館林城跡を訪ねたことがあります。今は土橋門が再現されているだけですが、かつて三成が攻めたところだと思うと感慨深いものがありました。むろん、この時には忍城跡や三成が本陣が置いた丸墓山古墳なども訪ねました。  三成の館林... ...続きを見る

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2017/06/04 11:01
三成の実像1930 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」12
昨日、本能寺で行われた「信長公忌」の最後の方に参拝してきましたが、その報告はフェイスブックで少ししています。本能寺の変によって、秀吉同様、三成の人生も大きく変わったと云えます。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/03 11:26
美術探訪10 「海北友松展」12 画龍の名手・朴大根書状 龍図が朝鮮側に
 「海北友松展」の「画龍の名手・友松ー海を渡った名声ー」では、北野天満宮・霊洞院・勧修寺などの「雲龍図」が展示されていましたが、それぞれ微妙に違いがあるものの、いずれもすさまじい気迫に満ちています。  また海北家に伝わる、慶長13年2月に記された「朴大根(パクテグン)書状(写)も展示されていましたが、図録には「『海北友松夫妻像』に付随する形で海北家に伝来した」書状であり、「友松の画名が朝鮮にまで及んでいたことをうかがわせる史料として伝わる」と記されています。  その書状の内容は「昔、素晴らし... ...続きを見る

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2017/06/02 10:14
三成の実像1929 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」11
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月22日条にも、各日記に伏見城攻めのことが記されています。  「言経卿記」の記載は、次のようなものです。  「伏見城へ夜毎(毎晩)夜毎(毎晩)だけ鉄炮を撃つ。宇喜多秀家の人数(軍勢)が伏見(城攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了し、晩より鉄炮を撃った。世上の雑説により大津から8... ...続きを見る

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2017/06/01 10:26

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関ヶ原の残党、石田世一の文学館 2017年6月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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