関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1960 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」31

<<   作成日時 : 2017/07/05 10:09   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の8月8日条には次のような記載があります。
 「夜番を申し付けた。(その理由は)この度は世上が物騒なためである」と。
 この時期、京、大坂の町の様子は落ち着いていましたが、豊臣公儀方の諸将は、それぞれの方面に出陣しようとしており、実際、同日付の「義演准后日記」には大聖寺城の戦いのことを記しているなど、各地で戦いが展開しており、家康らとの戦いもいずれ始まることは在京公家や僧侶も予期していたはずですから、「世上が物騒」だと考えていたのは 納得できます。
 三成が佐和山から出陣したのはこの8日ですが、それを示すものが8月7日付三成書状の中の、次の記載です。 「『我等』(石田三成)のことは、尾張・美濃境目の仕置のために、尾張方面へ一昨日(8月)8日に出陣したことを報じる」と。
 この書状は、白峰氏による「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」(『豊臣公儀としての石田・毛利連合政権』所載)にも載っており、7日付は10日付と推定されています。その根拠は、8月10日付佐竹義宣宛三成書状と同文であることが、注に述べられています。
 さて、「義演准后日記」の8月9日条には、次のようなことが記されています。
 「(以下のことを)伝え聞いた。家康が出馬して上洛する、ということである」と。
 同日記の8月4日条には、前述したように、「家康の上洛は、なかなかなし難い旨の風聞がある」と記載されており、全く正反対の情報に、この5日の間に何があったのか気になります。会津攻めに従っていた諸将から、家康が近く上洛してくるという情報が入ったのかもしれません。実際、この時期、家康は江戸を動けないままでしたし、江戸から出陣したのは9月1日になってからです。家康が上洛してくることは、当然豊臣公儀方との戦いが想定され、ひょっとすると上方が戦場となるかもしれず、また豊臣の天下が脅かされない状況ににもなる点で、在京公家や僧侶にとっても、かなりの脅威だったのかもしれません。
 会津攻めに従った諸将が戻ってきたものの、奉行衆ら豊臣公儀方と対立していたわけではないということが、同日記の8月4日条に記されていましたが、その状況に変化が起こっていたのを、義演は感じ取っていたのかもしれず、そういう情報が義演のもとに届いたとも考えられます。 
 

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