関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い

<<   作成日時 : 2017/08/13 10:27   >>

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 写真は大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場碑を撮ったものです。戸次川(現、大野川)のそばに建っています。秀吉によって派遣された仙石秀久・長宗我部元親・信親親子、十河存保、尾藤知定ら豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津家久軍によって敗北したところです。秀吉自身が大軍を引き連れて九州攻めに向かうのは、翌年のことで、三成も付き従いました。
 この碑の近くの小高いところに、この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓や供養塔が建っており、そこへも行きました。これらの写真はフェイスブックの方に載せていますので、興味のある方はのぞいてみてください。
 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7
 
 この戦いについて、桐野作人氏の「島津義久」(PHP文庫)に詳しく記されていますが、秀久の失態が指摘されています。すなわち、「家久勢が鶴賀城を囲んだと知った府内城では、軍監の仙石秀久の一存で後詰することに決した。長宗我部元親などは毛利勢の着陣を待ってから後詰すべきだと進言したが、功に逸る秀久はそれを斥けたという」と。
 さらに、家久は豊臣の後詰の軍が来ることを予想しており、豊臣軍をおびき出して川を渡らせ、正面からと上流と下流に潜ませていた伏兵の3方向から攻撃し、大勝利を収めました。
 なお、尾藤知定は尾藤知宣(左衛門尉)とも云い、三成の妻の伯父です。すなわち、三成の舅の宇多頼忠の兄に当たります。しかし、知定はこの後、日向国の高城攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津氏に攻め込まれた際に、援軍に赴かなかったこと、この根白坂の戦いは豊臣軍の大勝利となったものの、敗走する島津軍に対して、知定が追撃を行わなかったことを、秀吉が怒り、丸亀の所領を没収され、追放されました。知定はこの後、北条攻めの際、剃髪して秀吉に許しを請いますが、赦されず、逆に処刑されます。このことに、三成は心を痛めたに違いありません。
 この知定の処分の理由に関して、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、次のように記されています。
 すなわち、知定に対して、「秀吉は高城攻撃の殿軍(しんがり)を命じるに際して訓戒を与え、『如何なる事が有ろうとも、殿軍としての役割を守る様』に厳命した」ので、「秀吉の訓戒を守って、その(=宮部継潤の)救援に赴かず、殿軍としての任務を忠実に守った。そのことが後日、味方の危急を黙過して責任を追及された」が、知定は「それに対して猛然と反発し」、「秀吉の権威を傷付ける言動があった」からだと。
 これが事実だとすると、知定は秀吉の言動に振り回された形になりますが、このあたり実際どうであったのか、検証が必要だと思われます。

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