関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1

<<   作成日時 : 2017/08/04 11:39   >>

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 写真は杵築(木付)城を、一松邸がある南台から撮ったものです。杵築城が海に面していることがわかります。
われわれは杵築城を見た後、西にある「勘定場の坂」を上がって、北台に立ち並ぶ武家屋敷跡をめぐり、そこから「酢屋の坂」を南に下りました。下の谷には商家が並んでいました。坂のすぐ下にかつては「酢屋」がありましたが、今は「味噌屋」に代わっています。そこからさらに南に上る「塩屋の坂」を上がり、南台に出ました。この南台にも、かつては武家屋敷が並んでいました。「きつき城下町資料館」を見学し、上記の写真の「一松邸」のところにたどり着きました。北と南の高台には武家屋敷が、下の谷には商家が並んでいる城下町の姿が、実際歩いてみてよくわかりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、豊臣公儀方の大友義統は細川忠興の領地である杵築城を攻めようとしますが、海からは攻められられないので、ずっと奥の方に入り、上陸して攻めようとしたということを、「きつき城下町資料館」の人が説明されていました。
 大友義統は、豊後を治めていましたが、文禄の役の際、秀吉の怒りを買い、改易されました。ところが、三成ら奉行衆・毛利氏、宇喜多氏を中心とする豊臣公儀方は、細川忠興を改易し、大友義統に旧領地を与えたことが、白峰旬氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新往来ブックス)で指摘されています。
 このことは拙ブログで前にも紹介したことがありますが、白峰氏の同書では、「通説では大友義統が旧領を回復するために豊後国へ来て挙兵した、と説明しているが」、「大友義統はすでに正式に豊後国速見郡を拝領していたことから、こうした説明は誤りであることがわかる」と記されています。
 「大友義統はすでに正式に豊後国速見郡を拝領していたこと」を示すものが白峰氏の同書には、いろいろと挙げられていますが、その一つとして木付城代の松井康之・有吉立行が7月晦日付で斎藤利宗に宛てた書状の記述が挙げられています。
 すなわち、「この内容は、大友義統が当郡(豊後国速見郡)の知行を(秀頼から)拝領したので、城(木付城)を受け取りに来ることを覚悟している、というものである」と。
 また実際に、豊臣公儀方が8月4日付で松井康之宛てに出した連署状2通が挙げられています。1通は、二大老の毛利輝元・宇喜多秀家が連署したもの、もう1通は長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以の四奉行が連署したものです。「木付城受け取りのため、太田一成【おおたかずなり】(豊後臼杵城主太田一吉【おおたかずよし】の子)を遣わすので、早々に城を明け渡すように命じた」という内容です。
 

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