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zoom RSS 三成の実像2227「特別研究集会」18 十文字健氏報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」1

<<   作成日時 : 2018/03/30 10:06   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、十文字健氏の報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」の中で、郡山城の立地と構造について、次のように説明されています。
 「城郭の中心部は丘陵上に築かれ、東方の低地部分に城下町が位置する。比高差は20〜30メートル。天守台が位置する本丸付近は東方への眺望が特に開けており、城下や奈良盆地北半部を広く見渡すことができる。
 城郭は本丸を中心に内堀・中堀・外堀によって城下町までを囲む惣構えの構造である。内堀と中堀には石垣が設けられ、現在も廃城時の姿がよく残っている」と。
 城が東方への眺望が特に開かれているのは、東にある東大寺や興福寺などの寺社勢力に睨みをきかすためだったのでしょうか、それとも佐和山城などのように東国に対する防御のためだったのでしょうか。
 郡山城の築城は筒井順慶であり、天正8年(1580)に入城したとされるものの、城が現在と同じ位置にあったのかは定かではなく、今日目にする城郭の骨格は豊臣期に完成したものと考えられていると述べられていました。
 その後の城主の変遷と城郭整備については、次のように説明されていました。
 天正13年に豊臣秀長が大和・紀伊・和泉あわせて約100万石を領して郡山城に入城し、それに伴い城郭が再整備されたとみられること。文禄4年(1595)には奉行衆の一人の増田長盛が入城し、この時期に外堀が完成したとされること。関ヶ原の戦いの後は城主不在の時期が続き、城郭建築は移築されたと伝わり、「荒廃」期ともいわれること。元和元年(1615)の水野勝成入城以降、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主を務め、「復興」期とされ、二の丸屋形の造営が進み城の中心機能が設けられたこと。二の丸屋形付近の石垣は、本丸付近の石垣よりも石材の加工度が高く、新しい様相が認められるが、絵図が残るのはこの時期以降であるものの、豊臣期につくられた城郭の骨格は大きく変えていないとみられていること。享保9年(1724)以降は幕末まで柳澤氏による安定した治世がとられ、絵図によるとこの間も部分的な修理程度しか行われず、城の骨格に大きな変化はないことなど。
 このうち「荒廃」期にも在番は置かれ、大坂の陣の際、豊臣軍が郡山城を攻めています。その後、水野勝成が城主の時代に、石垣・堀が修築され、次の松平忠明の時代に二の丸屋形が造営され、さらに本多氏の時代が近世城下町の最盛期であることが、「特別研究集会資料集」の「郡山城主の変遷」の表に掲載されています。また、二の丸屋形は、現在、県立郡山高校の敷地になっています。
 ちなみに、豊臣秀長と三成の関係は悪くなく、三成が宇多頼忠の娘と結婚したのは秀長の斡旋によるものであり、その時期は天正6年〜7年頃のことだと白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)に記されています。

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