関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2240 「特別研究集会」31 乗岡実氏報告「宇喜多秀家の備前岡山城」1

<<   作成日時 : 2018/04/12 18:04   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、備前岡山城は宇喜多秀家によって築城され、関ヶ原合戦後、小早川秀秋が城主となったが、現在に受け継がれる城郭構造が完成するのは寛永9年(1632)に亡くなった池田忠雄が城主であった時であると説明されていました。
 また岡山城の本丸の位置は極端に北東に偏っていて、防御正面である南から西には幾重にも曲輪があるのに対し、北から東方向からの本丸は旭川は取り巻くのみだが、これは少なくとも元和偃武までは、毛利輝元や福島正則をはじめとする西方勢力に備える役割を担っていたからだと指摘されていました。
 この点について、豊臣時代の初期の段階では、秀吉は毛利輝元に警戒心を持っていましたし、徳川幕府の初期の段階では、家康は豊臣恩顧の福島正則に警戒心を持ち、実際、大坂の陣の際には参陣させませんでした。
 岡山城の本丸は総石垣の三段造りであること、秀家が建てた本段北隅の天守は不等辺五角形の石垣台に立つ三層六階であったこと、本丸内には櫓が24棟もあって(現在は月見櫓しか残っていず)、間を多門や土塀、櫓門で繋いでいたこと、本段の石垣は宇喜多秀家が元の丘の形に沿って積んだため隅角が鈍角で死角を生じやすいのに対し、中の段の石垣は小早川秀秋や初期池田氏が先行石垣を埋めて曲輪を拡張した時のもので、小刻みに直角に折れながら続き、軍事性を向上させていること、本段内には城主が私生活を送るための本段御殿が、中の段には広間や城主の執務室を備えた政庁である表書院が、下の段には蔵、精米所、馬屋などがあったことなどが報告されていました(「特別研究集会資料集」にも同様の記載があります)。
 岡山城は数年前訪ねたことがありますが、秀家時代の石垣の一部が見られるようになっていました。拙ブログでもその時に紹介しましたが、階段を下りた地下にあります。
 乗岡氏の報告では、文献史料から窺える宇喜多秀家の岡山城についても説明されていました。秀家の父の直家が岡山城に居城を移したのは通説では天正元年(1573)とされ、前城主の金光氏の構造を基礎に曲輪を広げ、寺社を移転させるなどして城下町の建設を行ったということ、秀家が豊臣大名の城にふさわしい拡大的大改造に着手したのは通説では天正18年だとされるものの、天正16年だという森俊弘氏の見解が出ていること、天守竣工は慶長2年(1597)とされ、改造工事の内容として、天守のほか石垣、広間、出任所の構築が伝えられることなど。
 岡山城の大改修については、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、天正16年頃に開始され、さらに「天正17年頃からは岡山城下への家臣の集住と領国内の城郭整理(城破り)を進めた」と記され、しらが康義氏と森氏の先行研究によるものだということが示されています。 

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