関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2242 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り1 

<<   作成日時 : 2018/04/14 10:40   >>

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 9月10日、青春18切符を利用して、関ヶ原へ日帰りで行ってきました。関ヶ原と云えば、橋を渡り関ヶ原駅の北に出て、松平忠吉・井伊直政陣跡、東首塚から北に向かい、田中吉政陣跡を経て、関ヶ原町歴史民俗資料館を見学した後、陣場野の家康最後の陣跡、関ヶ原決戦地の碑を経て(黒田長政・竹中重門陣跡に寄るコースもありますが)、笹尾山の石田三成陣跡に行くコースが一般的です。むろん、途中を省いて、笹尾山に直行する場合もしばしばありました。特に笹尾山で「関ヶ原合戦祭り」のようなイベントがあった場合はそうですが。またオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章には、「史跡巡りのモデルコース」を地図入りで掲載していますが、やはり関ヶ原駅の北から回るコースにしています。
 しかし、今回は敢えて関ヶ原の北側には行かず、南に出て、西に進み、藤下(とうげ)を目指しました。高橋陽介氏が三成の陣跡は笹尾山ではなく、藤下の自害峰にあったとする新説を出されているので、どんなところか確かめに行きました。拙ブログでも紹介した、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)を持参して、その地図を見ながら歩いて行きました。
 そもそも、我々が知っている関ヶ原の戦い布陣図は明治時代に陸軍参謀本部が作成したものに基づいており、そこに歴史的根拠はなく、創作されたものであるという見解が、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で示されています。同書では、戦いの主戦場は関ヶ原ではなく、従来、大谷吉継の陣があったとされる山中であったという新説も出されています。白峰氏はさらに「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、島津家家臣史料の詳細な分析から、山中エリアにおける石田方の軍の布陣図が示されています。大谷吉継だけが関ヶ原エリアに出ていたため、前から家康方軍勢、背後から小早川秀秋の軍勢に挟撃されて壊滅したということも指摘されています。
 一方高橋氏は、「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、「現在の関ヶ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による『関原合戦図志』(明治25【1892】年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです」と指摘されており、また「陸軍参謀本部が作った布陣図は江戸時代に書かれた軍記物をもとにした作成されたもの」だと記されていますが、白峰氏の見解に同意を示されているわけです。
 ともかく、現在の関ヶ原の陣跡は、歴史的根拠がないという点で、白峰氏も高橋氏も否定的な見解が示されているわけです。
 
 

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