関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2246 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り5 三成陣地後備

<<   作成日時 : 2018/04/18 17:42   >>

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 写真は、高橋陽介氏の見解に基づく関ヶ原藤下の三成の陣地後備があった丘陵を撮ったものです。今は住宅地になっています。
 この後、さらに西に進んで山中の大谷吉継の陣跡とされる場所、高橋氏の見解に従えば島津義弘の陣跡である場所に行きましたが、宇喜多隊と島津家隊の間にあった池があったとされる低湿地の方には回っている時間はありませんでした。場所的には、宇喜多秀家・小西行長陣地と島津豊久陣地の間に当たります。豊久の陣地は義弘の陣地の南側にあり、松尾山の秀秋に対して豊久が前備、義弘が後備だったとするのが高橋氏の新説です。
 高橋氏の新説によれば、三成方は松尾山の小早川秀秋に対して布陣したとされており、その布陣図を見れば、先陣は宇喜多秀家・小西行長、その後ろに石田三成隊、西に島津豊久隊、さらにその後ろに東に大谷吉継隊、西に島津義弘隊がいたということになります。もっとも、三成自身が三成陣地の後備にいたとするなら、松尾山に対しては大谷吉継、島津義弘と同じく後方にいたことになります。そういう布陣をしていたところへ、東から家康方軍勢が攻めかかって来て、戦いになったというわけです。
 もっとも、高橋氏のこの布陣図は、島津家臣史料の「黒木左近・平山九郎左衛門覚書」の中の次のような記述と異なります。
 すなわち、「合戦の配りは、一番鑓(ママ)は石田三成、二番は島津豊久、三番は宇喜多秀家、その続きは島津義弘であり、そのほかの大名衆は方々に陣取りをした。(合戦が始まって)石田三成は一時(わずかな時間)ももちこたえられず、島津豊久の陣場に崩れかかったところ、島津豊久は少しもちこたえた。(中略)宇喜多秀家の陣取りと島津義弘の陣の間に池があり、宇喜多秀家の人数(軍勢)は皆々この池に逃げ入り、この方(島津義弘)の陣場に(も)乱入した」(白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」【(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号】より)と。
 もっとも、白峰氏によれば、上記の史料の布陣に関する記述は、島津豊久が先備であり、義弘が二番備であったという他の複数の史料の記載と矛盾するので除外されています。白峰氏の布陣図では、山中エリアに小西行長・宇喜多秀家・石田三成・島津豊久が東に向いて並んでおり、二番備として宇喜多隊の後ろに島津義弘、豊久隊の後ろに亀井玆矩が位置しています。上記の史料には、池のことが記されていますが、白峰氏の布陣図では、宇喜多隊と義弘隊の間に岡、池があったと記されています。実際、三成方がどのような位置に布陣していたのか、白峰氏の新説、高橋氏の新説いずれが正しいのか、今後の大きな検討課題だと思われます。

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