関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2253 「特別研究集会」35 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」5 大坂城との相似

<<   作成日時 : 2018/04/25 10:17   >>

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写真は岡山城の本段東側の高石垣を2014年の9月に撮ったものです。説明掲示板には、次のように記されています。
 「宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線部に改修した跡が確認できる。秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(左手)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる」と。
 この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、石垣は秀秋時代の3期に角は直角になり、石垣傾斜が急角度化したこと、中の段の石垣は3期や4期の池田氏の時代に先行石垣を埋めて曲輪を拡張し軍事性を向上させていること、中の段相当曲輪には巨大な大納戸櫓の前身櫓が成立したことなどが述べられていました。
 また、乗岡氏の報告の中で、秀家期の岡山城は本丸の北東部が剥き出しであり、その点も大坂城と同じだと指摘されていました。この点について、「特別研究集会資料集」には次のように記されています。
 「大坂城のこの方向は秀吉のもう一つの居城である聚楽第や伏見城に繋がるいわば内側方向である。岡山城の北東は姫路を経て主君の秀吉が居る地に繋がる安心安全方向であるが、裏返せば秀吉には忠誠を誓うことを示し、逆らえない造りともいえる」と。
 その上で、「岡山城と大坂城の相似は、秀吉の身内大名、後見人は秀吉、秀吉には絶対服従という秀家の立場を具現化した姿といえる」と総括されています。
 こういう秀家に対して、三成は信頼を寄せていたからこそ、関ヶ原の戦いの際、毛利輝元と共に味方に引き込み、二大老四奉行制をもとに豊臣政権運営をはかり、家康打倒を目指したのでしょう。
 もっとも、秀家が三成方に就いたのは、大身の家臣たちが反旗を翻した宇喜多騒動をめぐっての家康の裁定に不満を持っていたことも原因していたかもしれません。
 この点に関して、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、「徳川家康は、『大老』宇喜多秀家を大坂から伏見へ移し、さらに宇喜多騒動の裁定を通じて、秀家に対する優位性を強化した」と記されています。
 この時期、三成は佐和山に隠居させられ、家康の専横が目立っていました。宇喜多騒動の結果、宇喜多家を去った戸川達安・岡越前守・花房秀成、上杉攻めに向かった浮田左京亮は、いずれも関ヶ原の戦いで家康に味方し、秀家に敵対します。 

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