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zoom RSS 三成の実像2257 伏見城から移築された福山城の伏見櫓・伏見城の焼けた石垣発見

<<   作成日時 : 2018/04/29 10:42   >>

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写真は福山城の伏見櫓を4日に撮ったものです。
フェイスブック(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7)にも記しましたが、3日から一泊で福山に住む、大学時代からの友人で寺の住職をしているN君のところに泊めてもらい、一緒に福山城を訪ね、車で尾道まで行きました。福山城の天守は再建されたものですが、伏見櫓は築城当時のもので、伏見櫓はその名の通り、木幡山伏見城から移築されたものです。
 伏見城は秀吉が建てましたが、関ヶ原の戦いの前哨戦で、家康方の鳥居元忠が立てこもったため、石田三成方が攻めてやむなく落城させました(その時に焼失)。やむなくというのは、伏見城の中に、三成ら奉行衆が政務を執った曲輪があり、彼らにとってはかけがえのない城だったからです。関ヶ原の戦いに勝利した家康は伏見城を再建し、そこで慶長8年に将軍宣下を受けていますし、秀忠も家光も同様でした。
 伏見櫓は慶長6年に建てられたものですが、福山城に移築されたのは、伏見城が廃城になってからで、伏見城の天守は二条城に移されました。
 福山城の初代城主は、徳川譜代の水野勝成で、元和5年(1619)に大和郡山城から移ってきています。水野氏の後、松平氏、阿部氏とやはり譜代大名が福山城主となりますが、幕末には、薩長軍の味方に付きました。天守が焼失したのは、昭和20年の戦災によってです。
ところで、関ヶ原の戦いの前哨戦で焼けた伏見城の石垣が見つかったという新聞記事が昨年12月1日に掲載されました。
 「調査では、木幡山伏見城の天守の西側にあたる斜面の下から、南北方向に石垣の1段目と基礎になる根石が幅約4メートル分出土。石は赤く変色して割れ、焼けた土にも覆われていたため、城が焼失した際に焼けた痕跡と見られる。
 その約2.5メートル西側から、幅約60センチの石垣が設置した溝が南北に平行した状態で出土。秀吉の時代の豊臣期の石垣を覆うように築かれ、家康再建時の石垣とみられるという。この西側からは、豊臣家の家紋の入った瓦や金箔瓦が見つかった」(朝日新聞) と。
 現場は埋め戻されて、現地説明会は行われませんでしたが、場所は徳川期に松平忠吉の屋敷があったところで、三成の曲輪(治部少輔丸)があった堀跡である治部池の西側に当たります。伏見城の落城の炎上焼失がかなりの規模であったことがわかり、慶長5年の三成方の攻撃によって建築物はほとんど残らなかったのかもしれません。
 
 
 

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