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zoom RSS 三成の実像2231 「特別研究集会」22 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」2 

<<   作成日時 : 2018/04/03 00:05   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、総合調査の成果から見た水口岡山城の構造と変遷について、詳しく述べられていました。
 数年前に、水口岡山城に登ったことがあり、その時のことは拙ブログでも記しました。登っているだけに、「特別研究集会資料集」に掲載されている水口岡山城の概要図もその報告の内容もよく理解できました。私が登った後に、発掘調査の結果、天守が二つあったのではないかということが新聞記事に載りました。もっとも、小谷氏の報告では、天守という言い方はせず、東櫓・西櫓という表現がされていました。
 同「資料集」には、城郭遺構について、次のようなことが記され、報告でも同様の説明がされていました。
 「詳細地形測量調査で確認された城郭遺構は、空堀や堀切、竪堀によって区切られた一定の範囲でまとまって展開する傾向がみられる。特に、山頂部の大規模な曲輪群は東西方向に連なって配置され、最高所に位置する曲輪は東西に両端に櫓台をもち、曲輪の周囲に石垣がめぐる。また、中心曲輪群は曲輪と曲輪の塁線を結んだ範囲の内側に収まり、この範囲の外郭ライン上にある虎口が外枡形状であることから、この範囲が水口岡山城の中枢部であったと推定できる。なお、発掘調査によって、虎口は石垣を伴い、虎口内の通路が直角に2度折れる構造であったことが判明している」と。
 前述したように、水口岡山城は佐和山城と同様、八幡山城型に分類され、山上に曲輪群があり、山麓の曲輪群から城道が通じていました(下高大輔氏の見解)。もっとも、本丸部分に西櫓と東櫓があるのは、八幡山城や佐和山城と異なっていますが、水口岡山城の西櫓と東櫓は成立時代が違うことが、指摘されていました。
 西櫓は寺院から転用した瓦が積極的に使われ、矢川寺遺跡(甲南町森尻)で出土している軒丸瓦と同笵のものもあり、天正13年の築城段階で、周辺の寺院から用材をかき集め、中村一氏が構築されたと想定されると述べられていました。
 それに対して、東櫓は、軒丸瓦や軒平瓦は大溝城で使われていたものや、大溝城から瓦が持ち込まれるのに合わせて生産され、大溝城からの転用材とともに、文禄4年以降、長束正家が城主の段階で運び込まれたと推定されると説明されていました。軒丸瓦や軒平瓦には、新技術であるコビキBが用いられたものがあり、寺院系の瓦にはコビキBが確認できないことから、水口岡山城では東櫓の整備に伴って、コビキBが導入されたものと推定されるということも述べられていました。
 新たに東櫓が造られた意義については、文禄4年城郭体制と関連しているものと思われますし、水口岡山城の防備の補強に必要だったのかもしれません。
 

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