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zoom RSS 三成の実像2258 「特別研究集会」39 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」9 瓦の同笵関係

<<   作成日時 : 2018/04/30 16:17   >>

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 写真は岡山城の不明門を2014年9月に撮ったものです。中の段の表書院から本段に入る入口に設けられた大型の城門で、普段はこの門は閉じられていたため、「不明門」と呼ばれました。宇喜多秀家期の岡山城本丸の図(特別研究集会資料集)を見ると、「初期不明門」と記されていますから、形や規模は違うかもしれませんが、秀家時代もこの門はあったということになります。
  さて、この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、宇喜多秀家による2式の瓦の笵数は、軒平瓦については80を優に超え、同笵関係が確認できるものとして、次のような点が指摘されていました(特別研究集会資料集)。
 「第一は本丸と、二の丸をはじめとする城下町との間であ」り、いずれの瓦も「同じ生産供給体制で作られ」、「笵の傷み具合から先ず中枢部の瓦を造り、遅れて城下町向けを作るパターンを辿った例が多そうである」と。
 「第二は岡山城と領内支城との間の同笵関係であ」り、具体的には「常山城、撫川城、高松城、徳倉城、荒神山城との関係で」、「これらは文献史料によると家老級の重臣が配された支城であるが、やはり瓦笵の傷みなどから本丸出土品より新しい段階の製品が目につき、本城に遅れての整備であったことが判る」。「秀家期による2式期の衛星支城整備は」、「秀吉が関西の大坂城など自身の居城の周辺圏域に身内大名や奉行の城を配した状況に近似する」と。
 大坂城の周辺と云えば、秀吉は天正13年に弟の秀長に大和郡山城を、甥の秀次に八幡城を与えましたし、佐和山城も水口岡山城も八幡城型ということは下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」の中で指摘されていました。
 「第三は岡山城と領内の寺社との同笵関係で」、「地産地消という大名領国制の原則による瓦の製作・供給関係によるものと評価でき」、「織豊系城郭築城に際して岡山城下に成立した瓦工人は、城郭部だけでなく、町や寺社の瓦も製作した」と。
 「第四は岡山城2式と豊臣大坂城のうち中央体育館跡地などの城下の一部との同笵関係で」、「複数の瓦笵に及び、大坂城側で新しい製品が目につき、胎土や焼成の特徴から、岡山で焼かれた瓦が船で大坂に運ばれた可能性が考えられる」と。
 そのことに関して、「同笵品は大坂城下の複数地点に及ぶことから、政治関係云々というより、商品としての搬出も想定すべきである」と指摘されています。なかなか興味深い見解で、この点については徳川期の岡山城の同笵関係についても述べられており、後述します。
 

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