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zoom RSS 三成の実像2232 「特別研究集会」23 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」3

<<   作成日時 : 2018/04/04 21:44   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、総合調査の成果から見た水口岡山城の構造と変遷について、詳しく述べられていました。
 石垣は発掘調査の結果、上段は高石垣、下段は腰巻石垣または岩盤を削り出した壁面と切岸を組み合わせた二段構造であったと推定されていました。高石垣の高さは8〜9メートル、腰巻石垣と岩盤を壁状に削り出した壁面の高さが2メートル程度、それぞれの上方は傾斜約30度の切岸となっており、曲輪全体を囲むように石垣が築かれたと考えられると述べられていました。
 また中心曲輪群から放射状に展開する中腹の曲輪は斜面に階段状に配置され、特に東側の斜面には竪堀や竪土塁が多用されている特徴があることから、東側に対してより強く防御の意識が働いていると考えられると指摘されていました。水口岡山城が築城された天正13年段階では秀吉の勢力圏の東端が近江であり、鈴鹿峠を見据える水口の地は、東海道における秀吉勢力圏の最前線と位置づけられ、天下統一を目指す秀吉にとって水口岡山城は東国の勢力を睨んで築いた戦略拠点だったことが城の構造からも推測されると指摘されていました。
 これら八幡山城、水口岡山城、佐和山城などの城郭群は秀吉による「対東国用絶対防衛線の形成」であるという中井均氏の見解、さらに大和国や若狭国の城郭でも同様であり、それを「八幡山城型」と名付けた下高大輔氏の見解とも共通しています。
 この下高氏の見解は、小谷氏の報告でも取り上げられています。
 すなわち、水口岡山城、八幡山城、佐和山城は、「本丸への進入ルートだけでなく、山上に主要な曲輪群、山麓に居館を配置し、城下との間に堀をめぐらせて企画するという全体構造にも及んで」いると。
 本丸への進入ルートに関しては、「八幡山城と水口岡山城の築城に際しては、本丸への進入ルートが5度折れとなる点に共通性がみられる」という小谷氏自身の見解も紹介されています。
 もっとも、八幡山城と水口岡山城の瓦は相違していることにも触れられていました。前述したように、水口岡山城が天正13年に築城された時点では、周辺の寺院から転用した瓦が利用され、築城を急いだためか、瓦を新規で生産することはありませんでした。それに対して、八幡山城では、瓦製作にあたって新技術であるコビキBが採用され、築城に際して新規に瓦が製作されたものと考えられ、軒瓦には金箔瓦もあり、秀次の馬印である沢瀉文の飾り瓦などが出土していると述べられていました。八幡山城は秀吉の甥である秀次の城ですから、それだけ大規模な築城が行われたものと思われます。゛

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