関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2234「特別研究集会」25小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」5

<<   作成日時 : 2018/04/06 10:36   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、水口岡山城の終焉についても説明されていました。
 関ヶ原の戦いでは、水口岡山城主であった、五奉行の長束正家は三成方に付き、吉川広家・毛利秀元らと共に南宮山に陣を置きましたが、戦いの際は兵を動かしませんでした。三成方が敗れると、逃走し、水口岡山城に入りますが、家康方の池田長吉・亀井玆矩に城を囲まれ、開城します。その後、正家は蒲生郡日野で自刃したと伝わります。
 開城された城は池田長吉によって接収されたと考えられ、その典拠として水口岡山城に保管されていた「金銀資材」を池田長吉が賜ったという「寛永諸家系図伝」と「寛政重修諸家譜」の記述が挙げられています。長吉の在城期間は二ヶ月足らずであり、慶長5年11月に因幡鳥取城を与えられ、長吉に付属していた水口出身の美濃部茂盛が城を請け取り、同族の茂忠・茂次らとともに城の守衛を任されたと説明されていました。
 東櫓台から揚羽蝶文様の鬼瓦が出土している事実と、池田家の家紋が揚羽蝶であることに関連性があると指摘されているのは、興味深く感じました。
 翌年の正月に水口は土山・石部とともに東海道の宿駅に指定され、さらにその翌年には水口で慶長検地が実施されています。この段階で城下としての機能よりも宿場としての機能のほうが重視されるようになりました。
 元和6年(1620)、二代将軍徳川秀忠の娘である和子が御水尾天皇の中宮として入内する際に水口御茶屋(古御殿遺跡)が築かれたとされています。その根拠として、その遺跡から水口岡山城と同笵の軒平瓦が出土していることが挙げられています。
 寛永11年(1634)に三代将軍家光の宿館として築かれた水口城に、水口岡山城から運んだ石を石垣の石材に使用したと伝えられています。それを示すものとして、水口岡山城内に散乱する崩れた築石の中に幅の小さな矢穴痕を残すものがあることが挙げられ、水口城築城に際して石を持ち出そうとして痕跡と推定されると説明されていました。
 水口岡山城の城としての機能が停止したのは、慶長6年に城下が水口宿に指定された時期の可能性があるものの、城の建物や石垣は維持され、徳川幕府による御茶屋や宿館の造営に関連して用材を転用するために破城された可能性が考えられると指摘されていました。

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