関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像2270 通説の福島正則陣跡 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」1

<<   作成日時 : 2018/05/12 21:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は関ヶ原の戦いの際に、福島正則の本陣が置かれたとされる場所を4月に撮ったものです。松尾の春日神社のそばにあります。通説によると、福島隊は、宇喜多秀家隊と戦ったとされています。もっとも、現在、大半の関ヶ原本に掲載されている戦いの際の布陣図は、明治時代に陸軍参謀本部が作成したもので創作されたものだという見解が白峰旬氏によって示されていますし、今ある関ヶ原の各陣跡も、神谷道一氏の「関原合戦図志」(明治25年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し決めたもので、歴史的根拠はないということが高橋陽介氏によって指摘されています。
 4月に、三成の本陣は笹尾山ではなく、自害峰にあったという高橋氏の説に基づいて、三成方の陣地跡をめぐってみましたが、三成方の陣地跡と福島正則の陣跡とされているところが近いということに改めて気づきました。高橋氏の見解に従えば、三成の陣跡は宇喜多秀家・小西行長の陣跡のすぐ北にありましたから、福島らが東から攻めてきたとするなら、大谷吉継隊を壊滅させた後、三成や宇喜多秀家・小西行長に襲いかかってきたはずです。
 大河ドラマ「天地人」では、三成のところに福島正則が攻めてくるという描かれ方をしていましたが、その時、拙ブログで、その描き方はおかしいということを記しました。それは三成が笹尾山に陣しており、一方、正則が笹尾山のずっと南のある天満山に陣した宇喜多秀家を攻めたという通説に従ったからで、白峰氏や高橋氏の新見解を知った今は、正則が三成に攻めかかったということもありうるのではないかという気がします。
さて、白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)で、「関原首帳」の内容について検討されています。「『関原首帳』は、関ヶ原の戦いにおいて、福島正則隊が討ち取った敵の首の数と討ち取った福嶋家家臣の名前を記載したものであ」り、「福島正則の家臣について、各組別に討ち取った敵の首の数と、その首を討ち取った家臣名が記されている」ものであると述べられています。
 内容については、「首を討ち取った福島家家臣の合計は計算すると157人にな」り、「首の合計を計算すると208になる」、「福島正則の総兵力数と首取りの関係を考えると、福島正則の総兵力数は6500なので、6500の兵力数で208の敵の首を取ったことになるから、31.25人につき1つの首を取ったというという計算になる。ただし、6500という兵力数は騎馬クラスの武士の総数ではなく、騎馬クラスの武士の家来(大名から見ると陪臣〔又家来〕にあたる。若党・中間・足軽など)も含めた総数と考えるべきであろう」と指摘されています。
 一方、三成の兵力は8月5日付の時点で6700人(真田家文書)ですが、合渡川の戦いや岐阜城落城の際に死者を出していますから、少し兵力数は減ったかもしれません。しかし、兵力数は三成らの場合も白峰氏の見解のように、陪臣を含めた数と考えられます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像2270 通説の福島正則陣跡 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」1 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる