関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2271 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」2 作成の経緯・生駒利豊書状

<<   作成日時 : 2018/05/13 21:27   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」の作成の経緯について、次のように説明されています。
 「首帳の末尾に、筆者は金森安衛門であり、(9月)15日の合戦について、(9月)17日に近江国上長原野(現滋賀県東近江市市原野町か?)に野陣し、午の刻(昼の12時頃)に陣所が定まり、少し時間があったので記した、と書かれている。よって、関ヶ原の戦いの翌々日に作成されたことがわかる。この首帳には、『此人、金森カ帳に落タリ』とか『右之三人、帳ニ落ツ、余知故ニ爰載』と記されているので、後日、他の誰かが(氏名は不詳であるが、福島家家臣であろう)首帳の内容をチェックして補足したことがわかる。こうした経緯は、首帳が作成される時期(合戦の翌々日)やその後のチェックによる補足について、その実態がわかり興味深い」と。
 「関原首帳」の信憑性が高いということがわかりますが、誰がどれだけの首をあげたかは、武士にとっての大きな功績であり、加増にも結び付きましたから、厳密なチェックが行われたのも当然と云えます。
 首帳に記載されている山路久烝と青木清衛門について、合戦に参戦した生駒利豊の書状に出てくる山路久忠、青木清右衛門と同一人物だと、白峰氏の同書で指摘されています。「書状では、この戦いにおいて、敵(宇喜多秀家の家臣)の一人を山路久忠の同心の者が押さえたが、青木清右衛門をかばって、福島正則の前へは青木清右衛門が討ち取ったということになった、と記されている」と。
 この生駒利豊書状は極月13日付の坪内定次宛のものですが、白峰氏の「新解釈 関ヶ原の合戦の真実」(宮帯出版社)の中で、現代語訳されています。
 この書状には、戦いの具体的な状況が記されていますが、白峰氏の同書では、その論点が整理されています。注目すべきは次のような点です。
 「関ヶ原合戦は、福島隊と宇喜多隊の鉄砲の撃ち合いで始まった。それから白兵戦になった」
 「白兵戦では鑓や刀を使用した。使用方法は、刀では斬りかかり、鑓は突いた」
 「金のきり団扇の指物をさした者が、敵(宇喜多隊)の鉄砲大将であった。このように、戦いでは鉄砲大将クラスは指物をさしていたことがわかる」
 白峰氏の見解では、まず関ヶ原エリアで大谷吉継が家康方軍勢と小早川秀秋に挟撃されて壊滅し、その後、山中エリアの三成隊や宇喜多隊に家康方軍勢が攻めてきたと指摘されているので、この書状に記されている戦いが山中エリアに限定されているのであれば、内容的には矛盾しません。しかし、大谷吉継の陣が現在の不破関資料館付近にあり、宇喜多隊・小西隊・三成隊がその西に布陣していたという高橋陽介氏の見解に従えば、戦いが福島隊と宇喜多隊で始まったという書状の記述とは一致しません。まず大谷を攻めたはずですから。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2271 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」2 作成の経緯・生駒利豊書状 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる