関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2273 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」4 組頭も首取り

<<   作成日時 : 2018/05/15 22:19   >>

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 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」には「組頭自らが敵の首を討ち取ったケースが11例あ」り、「組頭が討死したケースが1例あること」から、「組頭も白兵戦において最前線で戦ったことを示しており、首取りをおこなって武功をあげるという点では、上級家臣である組頭であっても麾下の武士と同様に戦ったこと(組頭は単なる戦場における監督者の立場ではなかったこと)を意味している」と指摘されています。
 前述したように、白峰氏の同論考で、「組頭になるのは福島家の大身家臣が多かったということになろう」と指摘されていました。大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)の中で、「『浮田家分限帳』による慶長五年家中退去者」が表にして載っていますが、宇喜多騒動で宇喜多家を去った人々です。組頭としては、戸川肥後守、岡越前守、浮田左京亮、花房志摩守の名が見えており、いずれも一万石以上の大身です。彼らが去ったことは、宇喜多家にとって大きな痛手であったに違いなく、それが関ヶ原の戦いにまで影響したと思われます。
 嶋左近も蒲生頼郷(喜内・備中)も石田家の組頭的な位置づけになると思われます。 嶋左近が関ヶ原の戦いの際に、第一線で活躍したことが「常山紀談」に記されいますが、坂本雅央氏の「改訂版 平群谷の驍将 嶋左近」(平群史蹟を守る会)の中で、次のように述べられています(抜粋)。
 「石田陣の前には柵があり、嶋左近は左手には槍、右手には麾を持ち、百人ばかりの兵を従えて柵より出、半数余りを柵際に残して静かに進んできた。(黒田)長政は馬から下り立ち、槍を提げてにらみ合いになったところ、菅六之介政利が少し高みに登り、五十挺の鉄炮を隙間なく横合いから撃たせた。真っ先に進んできた敵はこれに負傷し、左近も生死こそ不明だが倒れたため、敵がひるんだ所を長政はどっと押し掛かって切り崩し、左近は従者の肩を借りてその場から退いた」と。
 この話には後日談があります。戦後、黒田家の家臣が集まって嶋左近のことを語り合った時、鬼神のような戦い方に皆おそれをなし、誰も左近がどのようないでたちをしていたのか覚えていなかったったというものです。このことはオンライン三成会「三成伝説」(サンライズ出版)でも少し触れられています。
 もっとも、「常山紀談」は一次史料ではないので、どこまでこの記述が真実かはわかりませんが、嶋左近が前線で奮戦し、鉄砲に撃たれて負傷し、前線から退いたのは事実でしょう。
 蒲生頼郷も嶋左近と同じように前線に出て戦ったとされており、最後は織田有楽斎に斬りかかり、その家臣に殺されたとされています。もっとも、この出典は「古今武家盛衰記」「関原軍記大成」であり、やはり一次史料ではありませんが。

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