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zoom RSS 三成の実像2260 「特別研究集会」41 奥井智子氏「近年の伏見城跡調査成果について」1 一期・二期

<<   作成日時 : 2018/05/02 10:13   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていました。
 まずは一期は文禄元年(1592)からで、豊臣秀吉が甥の秀次に関白職を譲った後、隠居所として指月の丘に屋敷を築き始めた時期です。秀吉が関白職を譲ったのは、前年の12月のことで、鶴松を8月5日に亡くした後のことです。
 ちなみに、鶴松が亡くなった時には、三成は奥州で起こった九戸政実の乱の鎮圧のため、奥州に赴いており、戻ってきたのは10月末以降だという小林清治氏の研究成果があります。伏見指月の新屋敷の普請が開始されたのは、文禄元年8月のことで、そのことは「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表の中に記載されています。
 具体的には8月20日のことで、その根拠として、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」【藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』所収】には「兼見卿記」の記述が挙げられています。この時にも三成は秀吉のそばにはおらず、秀吉に代わって、大谷吉継・増田長盛と共に朝鮮半島に渡っていました。
 二期は文禄2年からで、秀吉は秀頼の誕生を機に指月屋敷を本格的な城郭として改築し始め、聚楽第周辺に屋敷を構えていた大名たちも指月城下に屋敷を構え始めたと説明されていました。
 ちなみに、秀頼が誕生したのは、文禄2年8月3日のことで、この時、三成はやはり朝鮮半島にいました。もっとも、その間、5月13日に増田長盛・大谷吉継。小西行長と共に明使を伴って名護屋に戻っていますし、一旦釜山に引き返した後、また名護屋に戻り、7月18日に大谷吉継・小西行長とともに明使を伴い名護屋から釜山に向かっています。その後、朝鮮半島にとどまり、名護屋に戻ってきたのは9月23日のことです。
 「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表の中に、文禄3年「3月 秀吉、淀城破却。資材を伏見城に移す。この年、太閤堤の築造が進む」という記載があります。秀頼が伏見城に移ったのは、この年の11月21日のことです。
 ちなみに、この年は三成は京もしくは伏見にいて秀吉に近似していたものと思われます。この年には島津領検地、佐竹領検地が行われていますが、三成は直接は現地に行かず、家臣を奉行として行かせているという中野等氏の見解があります。
 同年表には、文禄4年「7月、秀次、自害。秀吉、聚楽第破却。資材を伏見城に移す」と記されています。この時、三成は秀吉に近侍していますが、8月の後半からは大和の国に赴き、検地の指揮に当たっています。

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