関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2283 白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」1

<<   作成日時 : 2018/05/26 21:19   >>

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 白峰旬氏の「慶長5年10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)は、拙ブログ記事で以前に紹介した「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)と対になる論文ですが、両論文ともに「これまで中世から戦国期における、軍忠状、合戦手負注文、感状に関しては、十分な研究蓄積があるが、近世における事例研究はいまだ未開拓の分野であると思われるので、本稿では近世(慶長5年)の事例研究として」、これらの「立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関して考察をおこないたい」と記されています。
 立花宗茂は周知の通り、大津攻めに参戦していたため、9月15日の関ヶ原の戦いに間に合いませんでしたが、大津城がまもなく開城するとの報は大垣城の三成にも届いていたはずですから、それを待たずに関ヶ原方面に三成らが移動したのは、それだけ緊急性があったはずです。
 従来の説では、家康によって三成らがおびき出されたということが云われてきましたが、これは家康の罠に三成らがはまったという徳川史観に基づくもので、今は否定的に捉えられています。実際、三成方が移動することを家康方は知らず、何の動きもありませんでした。しかし、今でもテレビ番組でこの説を本郷和人氏が当然のように踏襲しているのを見て、唖然としました。
 それに対して、松尾山に陣取った小早川秀秋の動きが怪しいので、秀秋の動きを牽制するために移動したという説を中井俊一郎氏によって唱えられており、そのことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記されています。板坂ト斎の「慶長年中記」にも、三成らが移動したのは秀秋が謀反を起こしたためだという趣旨のことが記されています。
 最近の説では、家康が大垣城の後詰であった南宮山の毛利勢を攻撃した場合に、三成らは家康勢を南宮山の毛利勢と挟撃しようとして関ヶ原方面(山中)に移動したという見解が白峰氏によって唱えられています。
 移動した理由はともかく、立花宗茂は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて大坂城に戻って、徹底抗戦を主張したと云われていますが、毛利輝元が家康と和睦したため、自分の居城の柳川城に戻ります。ここで九州の家康方軍勢と敵対し、江上合戦になります。この江上合戦について、白峰氏の同論文に次のように記されています。
 「慶長5年10月20日におこった立花家の軍勢と(立花勢)と龍造家・鍋島家の軍勢(龍造家・鍋島勢)が激突した野戦である」と。
 その戦いの感状と軍忠一見状が立花宗茂によって後に発給されるわけです。

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