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zoom RSS 石田三成の実像2263 中野等氏「石田三成伝」100 伏見城普請の際の真田信幸宛の書状

<<   作成日時 : 2018/05/05 10:31   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伏見城の再建(木幡山伏見城の築造)に関する、慶長2年のものと推定される9月25日付の真田信幸宛三成書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。
 「わざわざ申し入れます。貴所が御下国されることを、おのおの(他の奉行衆であろう)へ告げましたが、時分柄でもあるので早々に御下国されて用事をすまされますよう。御手前の御普請は、今少しで完了するのですが、誰なりとも慥かな人物に後事を託されているのでしょうか。真田昌幸(房州)にあとを任されて御下国されるのがよいでしょう。拙者の体調は回復しましたので、お会いして話をしましょう」と。
 この書状について、次のように解説されています。
 「真田信幸は伏見城普請のさなか、領国の上野国沼田へ戻らざるを得なくなった。信幸は下国の可否を照会するにあたって、石田三成を窓口にしたことがわかる。結果的に、しかるべき人物、具体的には実父昌幸(安房守)に後事を託すことで、信幸の下国は許されたようである。それはともかく、信幸は三成を介して照会を行ない、一方の三成も病が癒えたとして、信幸との面談を申し入れている」と。
 ちなみに、この書状は江戸時代を通じて真田家に厳重に保管されていた三成書状の一通です。信幸宛のものは13通あり、いずれも真田家の「青貝御紋付御文庫」に収納されていました。こういう書状の存在については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「真田信之」の章に記されていますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中では、織田秀信の湯治の世話を信幸に頼んだ三成書状が取り上げられ、その書状や信幸との友情について論じられています。
 この織田秀信の湯治に関する三成書状は、中野氏の同書でも言及されていますし、「御城御番」のために信幸に会えなかったことを詫びる書状が2通、鷹に関する書状も取り上げられています。後者の書状から、「三成は、徳川家の重臣本多忠勝とも親しかったことがわか」り、「本多忠勝も、自ら三成の屋敷を訪ねるような親しい関係にあったことがわかる」と記されています。
 信幸は本多忠勝の娘であり家康の養女となった小松姫を妻にしたことから、徳川家寄りになるわけですが、信幸にしろ忠勝にしろ、秀吉が存命中は、三成との関係は悪くなかったわけで、三成と徳川が最初から対立していたという、ドラマ的な捉え方は再考する余地があります。
 これも前述していますが、伏見城下の地図(山田邦和氏作成)を見ると、真田信之の屋敷と三成上屋敷とは近い場所にありましたから、通いやすかったという面もあると思いますが、屋敷の配置も配慮がされていたのかもしれません。

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