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zoom RSS 三成の実像2300 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」6 吉継の墓・玄蕃の討死

<<   作成日時 : 2018/06/12 11:33   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 G「その戦いで、藤堂仁右衛門(藤堂高虎の家臣・藤堂高刑)は大谷吉継家臣の湯浅五助という母衣の者を討ち取った」という要点について、「藤堂高虎が関ヶ原で大谷吉継と戦ったことの明確な証左となる」と指摘されています。
 藤堂家が建てたと伝わる大谷吉継と湯浅五助の墓が、山中の藤川台に建っており、私も何度か訪ねたことがあります。白峰氏の同論考の「付記」として、この墓の存在が、「藤堂高虎隊が関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったことの証左となるだろう」と記されています。この「付記」には、次のようなことも述べられています。
 すなわち、「2018年3月19日付の中日新聞(岐阜版)に、関ヶ原町に残る大谷吉継の墓に戒名と没年月日が彫られていたことが関ヶ原町の調査でわかった、という記事が掲載されている。この記事の中で、関ヶ原町は、この墓の建立に関わったと伝わる藤堂家との関係も今後明らかにしていく、と記されている」と。
 この新聞記事については知りませんでしたが、今後の調査に期待したいと思います。吉継の墓を建てたのは藤堂家というのは確かだとしても、高虎自身が建てたのか、その子孫なのかよくわかりません。高虎自身が建てたのだとしたら、吉継が死んだ関ヶ原ではなく、山中に建てたというのは解せない気がします。それとも、主戦場が山中だったので、象徴的な意味で山中に建てたのでしょうか。このあたりも今後の研究課題だと思われます。
 H「そのほか藤堂高虎の家臣は敵を多く討ち取った」という要点について、「藤堂高虎の軍勢が優勢に戦いを進めた、ということを示している」と指摘されています。
 I「藤堂玄蕃(藤堂高虎の家臣・藤堂良政)は討死した」という要点については、同論考では、「藤堂玄蕃の討死の意味」という項を設けて、改めて論じられています。すなわち、「藤堂姓諸家等家譜集」の「藤堂玄蕃家」(藤堂良政)の記載、及び「同家譜集」の「藤堂玄蕃家々譜」(初代良政)の記載から「9月15日の関ヶ原の戦い(本戦)において、藤堂玄蕃(良政)は石田三成の軍勢と戦い、三成家臣の嶋左近の子の嶋新吉と激闘の末、討死したことがわかる」こと、「藤堂玄蕃家」(藤堂良政)の「『9月15日大戦、諸将に先んじて石田三成の陣を衝き』という記載からすると、藤堂高虎の軍勢は石田三成の陣を攻撃したことがわかる。石田三成は9月15日には関ヶ原ではなく山中に布陣していたと考えられることから、藤堂玄蕃が討死した場所は関ヶ原ではなく山中だった、ということになる」と。
 

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