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zoom RSS 三成の実像2301 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」7 村越兵庫の討死の意味

<<   作成日時 : 2018/06/13 17:58   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 G「家康家臣の村越兵庫はこのところ(=大谷吉継と戦った関ヶ原)で討死した」という要点について、これも「村越兵庫の討死の意味」という項目が設けられ、次のように指摘されています。
 まず「『藤堂家覚書』には『権現様衆村越兵庫殿、此所に而討死被成候』と記されてい」て、「『村越兵庫殿』というように殿付になっている点と、『討死被成候』というように敬語表現が使われている点」が注目され、その理由について、「村越兵庫が『権現様衆』つまり家康家臣であったことによるものであろう」こと。
 村越兵庫が9月15日に関ヶ原で討死したことについては、「寛永諸家系図伝」、「寛政重修諸家譜」に記載があるものの、両書には「村越兵庫は藤堂高虎の手に属した」と記されており、さらに前者の書では「大権現に供奉し」という記載もあること、村越兵庫の履歴から、「9月15日の関ヶ原の戦いの時点で、村越兵庫は家康家臣として戦ったことは明らかである」こと。
 また「寛政重修諸家譜」に「村越兵庫は家康よりも先発して西上している」ことが記され、それを証左するものとして8月23日付村越兵庫頭宛徳川秀忠書状が挙げられています。
 その書状について、内容が検討され、次のように記されています。
 すなわち、「秀忠は『当表』(=宇都宮)が『隙明』になったので、信州真田表で仕置を申し付けるため、明日8月24日にそれまで在陣していた宇都宮から出馬する予定であることを述べている。そして、村越兵庫に対しては、今も『其元』に『御在留』しているのかと、問い掛けている。しかも、『今度長々御苦身』と記されていることからすると、『其元』で村越兵庫が『御在留』している期間は『長々』と言えるほどの一定期間であったことになる」、「寛政重修諸家譜」の記載からすると、「『其元』とは家康方の諸将が集結していた清須城を指すと考えられる」、「村越兵庫は家康の本隊に属して戦って討死した、ということになり、このことは家康の徳川本隊が関ヶ原を戦場として、9月15日早朝に大谷吉継隊と戦ったことを示している」などと。
 要するに、村越兵庫の討死は徳川本隊も関ヶ原で大谷吉継隊と戦った証拠になると指摘されているわけです。高橋陽介氏は通説に反して、家康は関ヶ原に来ていなかったという新たな説を出されていますが、村越兵庫の討死はその反証となるものだと云えます。

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