関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2314「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」4谷徹也氏「総論」4 大坂の三成屋敷

<<   作成日時 : 2018/06/27 23:36   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「石田三成の人物像」では、三成の屋敷についても考察が加えられ、大坂城の三成屋敷について備前島にあったという通説が、当時の一次史料によって確かめられています。
 その史料として、@慶長3年7月24日付の西笑承兌書状案の「大坂にて残り候屋形ハ備前中納言殿(宇喜多秀家)・増右(増田長盛)・石治(石田三成)まてにて候由候」という記述、A「鹿苑日録」の慶長4年9月7日条の「自其徳僧(玄以)者又被赴于内府公(徳川家康)、其時者早内府、石田治部少輔殿之殿ニ出御也」という記述、B「鹿苑日録」の同年同月13日条の「石田木工(正澄)殿へ行、内府公12日ヨリ出御風説之故也、其子細者、石田治部殿ハ城外也、木工殿者城内成故也」という記述が挙げられています。
 この記述から、谷氏は次のように指摘されています。
 「Aと同じ建物を指すと思われるBの記述からは、屋敷が郭外にあったことが判明する。このとき、家康は備前島を御座所にしていたとされており、A・Bは備前島の屋敷が指す可能性がある。また、@の並びからは、宇喜多邸・増田邸の付近に三成屋敷があったことが窺え、こちらも備前島と理解する方が妥当に思われる」と。
 三成の大坂屋敷については、櫻井成廣氏の見解が、谷氏の同書で紹介されています。すなわち、「本屋敷を大坂城大手口の北西、下屋敷を備前島の宇喜多邸の横と推測している」と。もっとも、その見解について、「その典拠は後世の聞書類」だと谷氏によって指摘されています。
 備前島はかつて大坂城の北にありましたが、今はなく都島区網島町あたりになります。上記のBの記述からもわかるように備前島は城外でした。中井家に残る豊臣期大坂城の絵図を見ても城内に三成の屋敷は見当たらず、城内にはなかったのではないかと思われます。そうであれば、備前島の三成屋敷は下屋敷でなく、本屋敷であったという可能性が高いということになります。
 ところで、聚楽第周辺に三成の屋敷はなかったのではないという私見を昨日付ブログ記事で記しましたが、谷氏の同書に掲載されている表「茶会記・演能記録にみえる三成・正澄」に、次のような記述がありました。
 天正15年10月9日、「宗湛が聚楽第の三成屋敷に招かれる」
 天正18年12月2日、「聚楽第の三成屋敷で茶会があり、幽斎・宗安・津田宗凡が参加」
 こういうことからすると、聚楽第の中かあるいは周辺に実際に三成屋敷があったことになります。場所は不明ながら、聚楽第の三成屋敷はあったというふうに訂正したいと思います。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2314「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」4谷徹也氏「総論」4 大坂の三成屋敷 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる