関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2296白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」2 青野ケ原で野営

<<   作成日時 : 2018/06/08 10:45   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 A「9月14日夜、家康方の先手の上方衆は青野ケ原へ出陣して、そこで野営した」という要点について、次のように指摘されています。
 「先手の上方衆というのは、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政など西国に領国がある諸将のことを指すと考えられ、尾張清須城主の福島正則もその中に含まれると考えられ」、また「家康が江戸から直率してきた徳川本隊は赤坂にとどまり、先手の諸将は青野ケ原へ移動・野営した、ということになり、両者(先手の諸将と徳川本隊)が合流せず、別々に所在していたことを意味する」と。
 合流しなかった理由としては、「9月14日の時点では、家康が直率する徳川本隊が南宮山に布陣する南宮山の毛利秀元などの軍勢を直接攻撃することを企図していたからであろう」と推測されています。この点については、白峰氏の「関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像』2017年10月号所載)の中で、9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗書状の中の、「南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)が討ち果たすつもりである」という記述、家康の側近・村越直吉、今井宗薫に宛てた伊達政宗の返書の中の「大垣城への『助衆』として毛利秀元・長束正家・吉川広家・安国寺恵瓊が出陣してきたので、まずこの衆に対して(家康が)打ち向かい、即時に討ち果たすつもりであることを了承した」という記述が挙げられています。
 青野は赤坂の西にあり、垂井との中間地点あたりです。南宮山は垂井にあり、家康本隊は南宮山の毛利勢を攻撃する予定だったというわけです。しかし、この攻撃は実行されませんでした。この点について、従来の説では、吉川広家の働きかけによって毛利輝元と家康の和睦が整い、関ヶ原の戦いの当日、広家は兵を動かさなかったとされていますが、白峰氏の「関ヶ原合戦の真実」の中で、その通説を否定し、和睦はしておらず、広家は「家康直率の徳川本隊の攻撃を恐れて家康に『命乞い』をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった」と指摘されています。
 家康が南宮山を攻撃しようとしたことが、三成方の関ヶ原方面への転進を招いたというのが白峰氏の見解です。すなわち、「山中に布陣した石田方本隊は、家康が南宮山の毛利勢に対して攻撃を仕掛ければ、その背後もしくは側面に回りこみ、徳川勢を南宮山の毛利勢と挟撃するつもりだったのではないだろうか」と。


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