関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2327 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」17 谷徹也氏「総論」17 研究者の評価

<<   作成日時 : 2018/07/10 10:15   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、研究者の三成評も取り上げられています。
 すなわち、「三成が自信家であり、所信を貫く反面、自らの信念に反する者を妨げようとする性格であったとする渡辺氏の見解や、三成が温厚篤実な人柄だったら悪い評価はされなかった可能性があり、三成自身にも責任の一斑があったとする今井氏の所見が挙げられる。また、三成が朝鮮半島での戦況を冷静に判断していた証拠として中野氏が取り上げた、毛利輝元の書状に見える三成の発言からは、噂話を真に受けることを『うつけ』と軽侮する態度も読み取れよう」と。
 渡辺世祐氏の三成が「自分の信念に反する者を妨げようとする性格であったとする」見解は、三成がいろいろな陰謀を企てたということに基づくものだと思われますが、そのことについては、前述したように、谷氏の同書で検証し直されていますし、多分に冤罪的な面があったと私は見ています。
 また今井林太郎氏の「三成が温厚篤実な人柄だったら悪い評価はされなかった可能性があ」るという見解についても、異議があります。むしろ、情に厚かったというのは、真田信幸宛の書状や大谷吉継・直江兼続・佐竹義宣などとの交流でもわかりますし、誠実な人柄だったのではないでしょうか。冷たく見えるのは、今井氏も指摘されているように、「秀吉の側近として、秀吉と諸大名の取次役を勤めていたため」だったと思われます。
 中野氏が取り上げた輝元の書状とは、慶長2年12月25日付の、家臣の榎本元吉に宛てたもので、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、その一部について次のように現代語訳されています。
 「国替えも中止になった。(これについて)石田三成(治少)が次のように言っている。人が何を言おうと、気にすることはない。愚か者が色々言っても無益なことである。朝鮮半島が日本と同様に治まり、九州の諸大名の(朝鮮半島への)転封先が決まらなければ、九州(大名)の知行収公はない。知行収公がなされた上で転封先が決定すれば、宇喜多家(備前)・毛利家(中国)の衆にもその覚悟が必要となる。(しかし)朝鮮半島の状況は安定しないし、さらにこれから2、3年は落ち着かないであろう。(したがって)国替えの覚悟など今後は不必要であり、人の悪意ある推量による発言など意味がない」と。
 「うつけ」の語は最後に出てきており、「意味がない」と訳されています。転封については、中野氏の同書の中で、「征服後の朝鮮半島に、九州大名を転封させ」、「宇喜多家や毛利家をその跡の九州へ移す計画」だったが、「三成はすでに朝鮮半島の戦況を悲観的にみており、九州大名の朝鮮転封はいうまでもなく、宇喜多家・毛利家の転封も、数年間はあり得ないことを告げた」と記されています。

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