関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2325 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」15 谷徹也氏「総論」15 大名の三成評

<<   作成日時 : 2018/07/08 11:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、同時代人の三成の評価について、イエズス会の評価が変わってきたことが述べられていることを前述しました。
 三成が堺代官(奉行)として日比屋了珪一族の弾圧に関わったのは事実でしょうが、三成が進んで行っていたのではないことを次第にイエズス会側の人々も理解していったのではないでしょうか。二十六聖人殉教の時の三成の行動をイエズス会側の人々が評価したのも、その表れだと思われます。
 大名の三成評としては、渡辺世祐氏の「稿本石田三成」の記述が谷氏の同書で紹介されています。
 すなわち、「毛利輝元の『彼仁当時肝心の人』や、島津義弘の『太閤公之御時、為股肱之臣、其威無双肩人』」と評していると。
 前者の典拠は年不詳の8月24日付の毛利輝元書状写、後者は「惟新公御自記」です。
 また文禄3年5月2日付の伊集院幸侃書状写の次の記述も取り上げられています。
 「爰元之儀共、治少様(石田三成)御一人之御肝煎まてにて、御国元之様子・御家之儀共、今日迄無異儀御座候事、治少様御一人之御分別、弥々歴然仕候」
 「治少様御一人を弥々おし立られ、京儀を無別儀可被入御念事尤候」
 幸侃は島津家の家老であり、この書状は国元に宛てたものです。島津家が豊臣政権下で問題なくやっていけているのは、三成一人の分別のおかげであり、何事も三成の意向に添うように言っているわけです。
 島津家の取次だった三成は島津義弘、幸侃らの協力を得て、島津家の基盤を強化し、豊臣大名化するのに努めました。三成は単に取次だけでなく、島津家の内政や軍役に指南を務め、ある時は秀吉の意向を受けて厳しい態度で臨みました。
 三成と幸侃(忠棟)は、島津攻めの際、島津義久が降伏後も、なおも抵抗を続けた新納忠元を説得するべく、共に大口城に赴き、説得し降伏させています。大口城跡へは、昨年の夏、オンライン三成会の人々と初めて訪ねました。
 幸侃は三成の島津領検地にも協力しています。この時、三成自身は現地に赴いていませんが、家臣の大音(おおと)新介を検地の総奉行として派遣しています。この結果、島津義久・義弘には十万石、幸侃は八万石という所領が与えられ、幸侃は厚遇された形になり、島津家の跡継ぎである義弘の子の忠恒は、これに不満を募らせ、秀吉の死の翌年、幸侃を京で討ちました。これには三成も激怒しています。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2325 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」15 谷徹也氏「総論」15 大名の三成評 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる