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みんなの「旅行記」ブログ

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旅行記114 石田三成の実像2019 九州の三成ゆかりの地巡り19 舞鶴城跡
旅行記114 石田三成の実像2019 九州の三成ゆかりの地巡り19 舞鶴城跡   写真は霧島市国分の城山公園の展望台からの眺めを8月1日に撮ったものです。正面の向こうの方に鹿児島空港があります。向かって右側あたりが、かつて三成領であった国分清水だと思われます。  国分城山公園は国分郷土館を少し上がった、頂上のところにあります。観覧車や遊具もあって、休みの日などには家族連れで賑わっているのでしょう。  われわれは城山を下り、その西にある舞鶴城(国分新城)跡に行きました。国分小学校の南側に碑や島津義久の辞世の歌碑、伊呂波歌碑、舞鶴城の復元図も描かれた説明掲示板などが建って... ...続きを見る

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2017/09/02 00:15
旅行記113 石田三成の実像2018 九州の三成ゆかりの地巡り18 国分郷土館
旅行記113 石田三成の実像2018 九州の三成ゆかりの地巡り18 国分郷土館  写真は霧島市の城山にある国分郷土館を8月1日に撮ったものです。尚古集成館・仙巌園を見た後、行きました。島津領の太閤検地の結果、検地を担当した三成(自身は上方にいて、家臣を派遣して担当させましたが)にも島津領に6800石の領地が与えられましたが、そのうち国分清水領を目指しました。しかし、道がよくわからず、着いたのは清水の南にある国分郷土館でした。館員に聞いて、自分たちの位置を知りました。  館内には、いろいろ興味深い展示がありましたが、「秀吉による知行替え」と題する次のような文が記されていま... ...続きを見る

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2017/09/01 11:03
旅行記112 石田三成の実像2017 九州の三成ゆかりの地巡り17 鶴嶺神社・亀寿姫
旅行記112 石田三成の実像2017 九州の三成ゆかりの地巡り17 鶴嶺神社・亀寿姫  写真は仙巌園・尚古集成館のそばにある鶴嶺(つるがね)神社を8月1日に撮ったものです。島津家歴代当主と家族が祀られていますが、特に亀寿姫について、説明掲示板に次のようなことが記されています。  「亀寿姫は、元亀2(1571)年16代島津義久の三女として誕生しました。天正15(1587)年、父義久が豊臣秀吉に降伏、亀寿姫は人質として秀吉のもとに送られました。  その後、18代家久(義久の弟義弘の嫡男)の夫人となり、寛永7(1630)年に亡くなりました。心優しい人であったと伝えられ、鹿児島の人た... ...続きを見る

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2017/08/31 11:22
旅行記111 石田三成の実像2016 九州の三成ゆかりの地巡り16 黎明館・集成館
旅行記111 石田三成の実像2016 九州の三成ゆかりの地巡り16 黎明館・集成館  写真は鹿児島の鶴丸城跡碑を8月1日に撮ったものです。三成ゆかりの旅をめぐる旅の4日目、最終日に、城山展望台に少し立ち寄った後、鶴丸城跡に建つ、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」を見学しました。一階から三階まであり、一通り回るだけでも一時間程かかりました。三成関係では、太閤検地の後の島津領の絵図に、三成領と書かれたところがありました。  また企画展示室では、「小松帯刀とその時代」展が開かれており、小松帯刀関係の資料が多数展示されていました。時間があれば、もっとじっくり見たいところでした。図録が... ...続きを見る

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2017/08/30 10:30
旅行記110 石田三成の実像2015 九州の三成ゆかりの地巡り15 泰平寺の和睦
旅行記110 石田三成の実像2015 九州の三成ゆかりの地巡り15 泰平寺の和睦  写真は鹿児島県川内市の泰平寺公園に建つ、秀吉・義久の和睦の像を7月31日に撮ったものです。この奥に太平寺の本堂が見えています。今は太平寺の寺領は狭くなりましたが、元は泰平寺公園も泰平寺の境内でした。  九州攻めの際、秀吉が本陣を置いたところですから、かなり大きな寺であったはずです。島津義久が剃髪して、秀吉に降伏したのは、天正15年(1587)5月8日のことです。三成もこの時、泰平寺にいたに違いありません。  この後の三成の行動について、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊... ...続きを見る

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2017/08/29 10:15
旅行記109  石田三成の実像2014  九州の三成ゆかりの地巡り14 出水麓・武家屋敷
旅行記109  石田三成の実像2014  九州の三成ゆかりの地巡り14 出水麓・武家屋敷  写真は出水麓の武家屋敷のうち、竹添邸を7月31日に撮ったものです。竹添邸は、大河ドラマ「篤姫」のロケ地になりました。武家屋敷はもう一つ、税所邸が公開され、出水麓歴史館との共通入館証のバッジを買うと、入館できるようになっていました。  出水麓について、歴史館のパンフレットには次のように記されています。  「江戸時代、薩摩藩は『外城(とじょう)』と呼ばれる地方支配の拠点を設置。『外城』で政務や地方警護を担う武士の住居と陣地を兼ねた町は麓と呼ばれ、藩内には約百か所存在したと言われていますが、その... ...続きを見る

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2017/08/28 10:18
旅行記108  石田三成の実像2013  九州の三成ゆかりの地巡り13 水俣城から出水城へ
旅行記108  石田三成の実像2013  九州の三成ゆかりの地巡り13 水俣城から出水城へ  写真は水俣城跡の碑を7月31日に撮ったものです。大口城跡、忠元神社を回った後、立ち寄りました。水俣城跡といっても、こじんまりとしたものでした。碑のそばのところをちょっと登ると、水俣城跡古井戸があります。当時は実際使われていたのでしょう。稲荷神社や荒神神社のすぐそばにあります。  水俣城は、実際もっと大きな敷地があったはずで、一部だけが残っていたという印象を受けました。  ここに立ち寄ったのは、秀吉の九州攻めの際、秀吉や三成が実際、ここまで来ているからです。   「宗湛日記」によれば、水... ...続きを見る

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2017/08/27 10:32
旅行記107  石田三成の実像2011 九州の三成ゆかりの地巡り13 忠元神社
旅行記107  石田三成の実像2011 九州の三成ゆかりの地巡り13 忠元神社  写真は新納忠元を祀った、鹿児島県伊佐市の忠元神社を7月31日に撮ったものです。忠元の居城であった大口城跡を見た後に訪ねました。本殿の前には、創建当時の鬼瓦や手水鉢が置かれていました。また忠元が青少年の守るべききまりを定めた「二才咄(にせばなし)格式定目」の碑も建っていました。.忠元ゆかりの狭野(さの)杉も立っていますが、島津義弘が文禄の役の際に狭野神社に祈願し、慶長の時代になって忠元を遣わして多くの杉を植えさせ奉納したのを、忠元神社にも移植したものです。  天正15年(1587)の秀吉の九州... ...続きを見る

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2017/08/25 00:09
旅行記106 石田三成の実像2010 九州の三成ゆかりの地巡り12 説得に赴いた大口城跡
旅行記106 石田三成の実像2010 九州の三成ゆかりの地巡り12 説得に赴いた大口城跡 写真は大口城跡を7月31日に撮ったものです。この日は旅行の3日目でしたが、まず人吉城跡を時間をかけて回りました。水ノ手門口から御下門、二ノ丸、本丸、三ノ丸、相良神社、相良内蔵助屋敷跡の地下室再現などを回りましたが、その詳しいことはフェイスブックの方で写真入りで紹介していますので、興味のある方はそちらの方をご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  その後、訪ねたのが鹿児島県伊佐市の大口城跡です。大口小学校の校庭の奥の山... ...続きを見る

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2017/08/24 12:26
石田三成の実像2008 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」2 通説の布陣図は創作
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていましたが、その続きです。  「関ヶ原合戦における東軍と西軍の布陣については、日本陸軍参謀本部の『日本戦史図』が正しい」という通説に対して、「『日本戦史図』には矛盾が多い」として疑問が呈され、その根拠として「福島正則だけが飛び出している。複数の武将が固まって布陣するのが常識」だという点、「宇喜多秀家、小西行長らが地形に沿って斜めに布陣している。江戸時代の... ...続きを見る

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2017/08/22 10:29
旅行記105 石田三成の実像2007 九州の三成ゆかりの地巡り11 永国寺の耳塚
旅行記105 石田三成の実像2007 九州の三成ゆかりの地巡り11 永国寺の耳塚  写真は人吉市の永国寺にある耳塚を7月30日に撮ったものです。歴史館の係員から、この寺に耳塚があると聞いて立ち寄りました。山門の横に、千人塚石塔(耳塚)が建っていました。秀吉は朝鮮出兵の折、朝鮮の兵の耳鼻をそぎおとして塩漬けにし、日本に送るように命じました。相良長毎(頼房)も1800人の耳鼻をそいで、秀吉に進上しました。耳塚はその犠牲になった人々の霊を鎮めるために建てられました。有名な耳塚として、京都の豊国神社のそばに建つ大きな供養塔がありますが、こういう耳鼻そぎは秀吉が行った残虐行為の一つです... ...続きを見る

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2017/08/21 10:30
旅行記104 石田三成の実像2006 九州の三成ゆかりの地巡り10 裏切りを勧めた相良清兵衛屋敷の 
旅行記104 石田三成の実像2006 九州の三成ゆかりの地巡り10 裏切りを勧めた相良清兵衛屋敷の   写真は人吉城歴史館の中に復元されていた、相良家の重臣である相良(犬童)清兵衛の屋敷跡から発見された、井戸のある地下室を7月30日に撮ったものです。こういう地下室が発見されたというのは知りませんでした。願成寺の後、国宝の青井阿蘇神社へお参りし、その後人吉城歴史館を見学しました。  相良清兵衛は、関ヶ原の戦いの敗戦の後、大垣城に籠城していた時に、主君の相良長毎(頼房) に家康方に寝返ることを勧めた人物です。そのおかげで、相良家は存続を許されますが、その後、清兵衛は次第に専横が目立つようになり、... ...続きを見る

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2017/08/20 10:36
旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔 
旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔  写真は人吉藩主だった相良家の菩提寺である願成寺にある石田三成ら六人の供養塔を7月30日に撮ったものです。八代城跡、球磨川を見た後、われわれは人吉に向かいました。  写真に向かって一番右側が三成、その左側が熊谷直盛・庄兵衛親子(三成の妹婿・甥) 、垣見一直、木村勝正・伝蔵親子の墓です。三成は周知のように関ヶ原で敗れ、京で処刑されますが、残りの5人は大垣城で相良氏・高橋氏・秋月氏によってだまし討ちにされています。熊谷らは三成らが関ヶ原に移動して敗れたあとも大垣城に籠って家康方と戦っていましたが... ...続きを見る

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2017/08/19 10:26
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川    
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川      写真は八代の球磨川を7月30日に撮ったものです。八代城跡を見た後、立ち寄りました。博多の商人の神屋宗湛が記した「宗湛日記」には、球磨川のほとりで三成に会ったという記述がありますが、この前後の宗湛の動向について、武野要子氏の「神屋宗湛」(西日本新聞社)には、次のように記されています。  天正15年4月「18日には秀吉の陣中見舞いのため、薩摩へ向けて出発している。宗湛は、同24日肥後八代の球磨川のほとりで石田三成に会い、三成から馬の飼料までもらい、27日卯ノ刻(午前6時)より三成のお供をし、薩州... ...続きを見る

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2017/08/18 18:59
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2  写真は八代城跡を7月30日に撮ったものです。この日は、熊本城、宇土城、八代城と道を南にとってきました。この後、球磨川、人吉の願成寺、青井阿蘇神社、人吉城歴史館、永国寺などを回りました。  秀吉は九州攻めの際、八代城に立ち寄っています(三成も秀吉に従って八代へ来ています)が、上記の八代城ではなく、相良氏が築いた八代城(古麓城)でした。ところが、その翌年、小西行長が肥後南半分を与えられた時、もっと西の球磨川河口に新たな八代城(麦島城)を築きました。  九州攻めの際、秀吉が八代に注目していたこと... ...続きを見る

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2017/08/17 10:51
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?  写真は宇土城跡の石垣であり、あちらこちらに残っています。宇土城自体は、低い丘陵地帯に築かれており、見て回るのに全く困難は覚えませんでした。  行長が宇土を本拠地にした理由について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のように記されています。  「肥前を主とする沿岸部諸大名と海上の統括・監督という任務と関係があり、有明海・八代海・天草という九州西海岸の重要な海上交通の把握に最適な場所だったからであろう。もちろんそれを意図したのが秀吉であろうことは言うまでもない」と。  鳥津氏の同書... ...続きを見る

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2017/08/16 10:43
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?   写真は熊本市役所の14階から熊本城を7月30日に撮ったものです。ここから熊本城の全景が見られます。この日は九州の三成ゆかりの地巡りの旅の2日目でしたが、まず熊本城を見に行きました。熊本城は復興工事中で、中に入れなかったので、周囲をぐるりと回りましたが、櫓などの石垣があちらこちらで壊れていました。その被害の状況については、市役所の14階の廊下にパネル展示されていました。加藤神社は参拝できましたが。熊本城の一刻も早い復興を祈ります。  前夜(一日目)は熊本の中心街のホテルに泊まり、近くの店で馬... ...続きを見る

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2017/08/14 11:04
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い  写真は大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場碑を撮ったものです。戸次川(現、大野川)のそばに建っています。秀吉によって派遣された仙石秀久・長宗我部元親・信親親子、十河存保、尾藤知定ら豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津家久軍によって敗北したところです。秀吉自身が大軍を引き連れて九州攻めに向かうのは、翌年のことで、三成も付き従いました。  この碑の近くの小高いところに、この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓や供養塔が建っており、そこへも行きました。これらの写真はフェイスブックの方に... ...続きを見る

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2017/08/13 10:27
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2   写真は杵築城の中にある石塔や五輪塔、石仏などの石造群を撮ったものです。この地域にあったものをまとめてここに置いてあり、全部で170余基あり、市指定文化財になっています。  杵築城はもともと木付城という字を書きましたが、江戸時代、「3代藩主松平重休のときの将軍からの朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたことから杵築となった」ということが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。城の係員もそういう趣旨の説明をされていました。  したがって、秀吉の時代は木付城... ...続きを見る

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2017/08/05 11:57
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1  写真は杵築(木付)城を、一松邸がある南台から撮ったものです。杵築城が海に面していることがわかります。 われわれは杵築城を見た後、西にある「勘定場の坂」を上がって、北台に立ち並ぶ武家屋敷跡をめぐり、そこから「酢屋の坂」を南に下りました。下の谷には商家が並んでいました。坂のすぐ下にかつては「酢屋」がありましたが、今は「味噌屋」に代わっています。そこからさらに南に上る「塩屋の坂」を上がり、南台に出ました。この南台にも、かつては武家屋敷が並んでいました。「きつき城下町資料館」を見学し、上記の写真... ...続きを見る

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2017/08/04 11:39
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性 
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性    昨日まで3泊4日でオンライン三成会の人2人と一緒に九州の三成ゆかりの地を巡る旅に行ってきました。フェイスブックでもその時の写真を一部載せています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大分空港で昼前に合流し、レンタカーを借りて、まず杵築(木付 きづき)城へ行きました。ここには石田三成の兄の正澄の兜が展示されています(上記の写真)。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、この兜の写真が掲載され、この兜につい... ...続きを見る

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2017/08/02 15:22
旅行記93  姫路・赤穂旅行7「忠臣蔵」4 赤穂城跡2 枡形石垣・討ち入り決定の円山会議
旅行記93  姫路・赤穂旅行7「忠臣蔵」4 赤穂城跡2 枡形石垣・討ち入り決定の円山会議   写真は赤穂城の大手門を中側から2月12日に撮ったものです。  大手門をくぐったところに、枡形(ますがた)の石垣がありますが、こういう形になっているのは、攻め込む敵をこの狭い場所に閉じ込めて逆に攻撃したり、味方の兵をここで待機させて外に打ち出すためでした。  そこを通ると、目の前に番所跡があり、さらに進むと、大石邸長屋門があります。  大石内蔵助は、浅野内匠頭の刃傷事件の後、結局、籠城や切腹をやめて城を明け渡しますが、拙ブログで前述したように、内匠頭の弟の大学による浅野家再興を願っての... ...続きを見る

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2017/03/05 18:58
旅行記92  姫路・赤穂旅行6 「忠臣蔵」3 赤穂城跡1 大手隅櫓・大手門 刃傷事件の原因
旅行記92  姫路・赤穂旅行6 「忠臣蔵」3 赤穂城跡1 大手隅櫓・大手門 刃傷事件の原因  写真は赤穂城跡の大手隅櫓を12日に撮ったものです。奥に見えているのが大手門であり、それに架かる橋です。  赤穂めぐりは、昼食後に、赤穂城跡に行きました。歩いて10分足らずでたどり着きました。大手門のところで、義士の姿をしたポランティアの人々にわれわれ一行の全体写真を撮ってもらいました。櫓や門は再現されたものですが、「忠臣蔵」の場面が自然と蘇ってきます。  早かごの到着の場面(浅野内匠頭の切腹とお家取り潰しの報をもたらしたのは、第二の使者の原惣右衛門と大石瀬左衛門であり、第一の使者より1... ...続きを見る

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2017/03/03 10:58
旅行記91  姫路・赤穂旅行5 「忠臣蔵」2 浅野家の菩提寺の花岳寺と泉岳寺 上杉家の追手を待つ
旅行記91  姫路・赤穂旅行5 「忠臣蔵」2 浅野家の菩提寺の花岳寺と泉岳寺 上杉家の追手を待つ  写真は赤穂の花岳寺にある二代目大石なごりの松を12日に撮ったものです。  赤穂めぐりは、息継ぎ井戸を見た後、花岳寺通り商店街を通って、そこから数分の距離にある、浅野家の菩提寺である花岳寺を訪ねました。山門は赤穂城の門だと云われています。境内には上記の写真の二代目の大石なごりの松が建っていました。初代の大石なごりの松の切株は別のところに置かれていました。内蔵助が赤穂城を明け渡す際、この松に別れを告げたと云われています。  本堂の横に、義士宝物館や義士の墓に入る入口もありましたが、残念ながら... ...続きを見る

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2017/03/01 11:15
旅行記90 姫路・赤穂旅行4 「忠臣蔵」1 息継ぎ井戸・2度の急使・吉良の怪我の状態
旅行記90 姫路・赤穂旅行4 「忠臣蔵」1 息継ぎ井戸・2度の急使・吉良の怪我の状態   写真は播州赤穂のからくり時計を12日に撮ったものですが、その後ろに「息継ぎ井戸」が写っています。からくり時計になっていることは後で知り、ユーチューブで見ましたが、「忠臣蔵」のいくつかの場面が再現されています。  赤穂巡りめぐりは、海洋科学館を見た後、バスに乗り、息継ぎ井戸のところへ行きました。息継ぎ井戸は浅野内匠頭が元禄14年(1701)3月14日、江戸城の松の廊下で吉良上野介に対して刃傷に及んだ時、その知らせを持って早水藤左衛門と萱野三平が早かごで赤穂まで来た時、この井戸で一息ついたと... ...続きを見る

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2017/02/27 10:44
旅行記89 姫路・赤穂旅行3 赤穂市立海洋科学館と塩田・「忠臣蔵」のきっかけは塩?
旅行記89 姫路・赤穂旅行3 赤穂市立海洋科学館と塩田・「忠臣蔵」のきっかけは塩?   写真は赤穂海浜公園の中に復元されている入浜式塩田を12日に撮ったものです。奥に見えているのは赤穂市立海洋科学館です。  科学館発行のパンフレットには、入浜式塩田について、次のように説明されています。  「潮の干満の差を利用して、海水を塩浜に送りこみ、砂に塩の結晶がつくようにしています。わが国独自の方法として、約400年間盛んに行われました」と。  公園には、この他、揚浜式塩田、流下式塩田なども復元されていましたし、昔の藻塩焼き、現在のイオン交換膜法についても、博物館の展示で学びました。... ...続きを見る

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2017/02/24 10:36
旅行記88姫路・赤穂旅行2 姫路城2 藩主の変遷・落語探訪2 「皿屋敷」お菊井戸
旅行記88姫路・赤穂旅行2 姫路城2 藩主の変遷・落語探訪2 「皿屋敷」お菊井戸  写真は姫路城の本丸(備前丸)広場から見た天守閣を11日に撮ったものです。天守閣から外の本丸広場に出ました。  現在の姫路城を作ったのは、関ヶ原の戦いの後、城主になった池田輝政でした。慶長6年(1601)から8年をかけて築城しました。それまで秀吉が築城した3層の天守閣がありましたが、それを壊して、新たな城として築かれました。池田輝政は関ヶ原の戦いの前は、三河吉田15万2000石の城主でしたが、戦後大幅加増され、播磨姫路の52万石の城主になりました。しかし、池田家は三代目の光政の時代になって、... ...続きを見る

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2017/02/19 12:58
旅行記87 姫路・赤穂旅行1 姫路城1 西の丸から天守へ 千姫が住んでいたのは10年
旅行記87 姫路・赤穂旅行1 姫路城1 西の丸から天守へ 千姫が住んでいたのは10年   写真は姫路城の西の丸から望む天守を11日に撮ったものです。  先週の今日、かつて大阪府立住吉高校で同僚だった人々と赤穂まで行って一泊しました。11日は昼前に大阪駅で集合し、まず姫路城へ向かいました。入口で長い行列ができていれば、時間の関係で入場は断念し、周辺を散策するつもりでしたが、幸い、待たずにすっと中に入れることができ、一通り見学できました。むろん、城内は大いに賑わっており、外国人の観光客も少なくありませんでしたが。少しでも白いうちに天守をじっくり見たいと思っていたので(一年半前に岡... ...続きを見る

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2017/02/18 10:47
石田三成の実像1843 旅行記86 有馬温泉4 伏見城から移築された瑞宝寺の山門・「有馬山」の歌碑
石田三成の実像1843 旅行記86 有馬温泉4 伏見城から移築された瑞宝寺の山門・「有馬山」の歌碑  写真は有馬温泉にある瑞宝寺の山門を3日に撮ったものです。この山門は伏見城の門を移築したものだといわれています。  われわれは有馬籠の店「くつわ」を見た後、坂を上ったところにある炭酸泉源を訪ねました。ここは公園になっており、蛇口をひねると、水が飲めるようになっています。温泉の湯なのでぬくいかと思いましたが、水のように冷たく、鉄分の味がしました。  その後、林渓寺の前を通って、雪国神社から、杖捨坂を出ました。「杖捨坂」の名の由来は、杖を突いて湯治に来た人が温泉につかって、すっかり元気を取り戻し... ...続きを見る

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2017/02/08 16:01
石田三成の実像1842 旅行記85 有馬温泉3 石垣、帯曲輪跡・秀吉の湯殿御殿跡・ねね邸跡・有馬籠
石田三成の実像1842 旅行記85 有馬温泉3 石垣、帯曲輪跡・秀吉の湯殿御殿跡・ねね邸跡・有馬籠  写真は温泉寺の近く、極楽寺の「太閤の湯殿館」のそばの「石垣・帯曲輪跡」を3日に撮ったものです。その説明掲示板には次のように記されています。  「石垣は、自然石(割ったり削ったりしない石材)だけを用いる野面積(のづらづみ)と呼ばれる石積みで秀吉の活躍した16世紀後半の天正〜慶長年間に見られる特徴的な石垣づくりの技術です。石垣の上は帯曲輪と呼ばれる幅の狭い平坦面になっており、周囲には多聞塀と呼ばれる長屋づくりの塀や、隅の部分には隅櫓状の建物の跡が確認されています」と。  石垣の反対側には、豊太... ...続きを見る

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2017/02/07 22:01
旅行記84 有馬温泉2 親水公園・天神泉源・御所泉源・温泉寺・湯泉神社
 旅行記84  有馬温泉2 親水公園・天神泉源・御所泉源・温泉寺・湯泉神社  。 写真は有馬川の河川敷の親水公園を2月3日に撮ったものです。有馬川は滝川と六甲川がこの地点で合流しています。親水公園は阪神・淡路大震災があった1995年に作られました。写真に写っている赤い橋がねね橋です。親水公園は下に降りて歩くのがお勧めです。  「太閤橋」のそばの「ゆけむり広場」にある「茶人太閤像」は1582年に設置されましたが、「ねね像」が設置されたのはその15年後のことであり、作者はどちらも新谷英子氏です。「ねね橋」が架けられたのは、1996年のことです。  「太閤像」のそばに滝の... ...続きを見る

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2017/02/06 17:08
石田三成の実像1841 旅行記83 有馬温泉1 ねね像から太閤像へ 天正13年の湯治
石田三成の実像1841 旅行記83  有馬温泉1 ねね像から太閤像へ 天正13年の湯治 写真は有馬温泉の太閤橋の近くのゆけむり広場に建つ「茶人太閤像」を2月3日に撮ったものです。  妻と有馬温泉に一泊してきました。妻は初めて、私は前に行ったことはありますが、三十数年ぶりのことで、その時は同僚たちと車で行き、一泊した後、次の日はコートを借りてテニスに興じたため、温泉街はほとんどぶらつかないままでした。今回は温泉街近辺を三時間半ほどかけてたっぷり散策してきました。  泊まったのは、有馬ビューホテル(「太閤の湯」が併設されています)。3日、ホテルをチェックアウトした後、坂を下り、... ...続きを見る

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2017/02/05 11:04
石田三成の実像1792旅行記82 近江八幡散策 豊臣秀次公像 家臣の策略で切腹?ヴォーリズの建築
石田三成の実像1792旅行記82 近江八幡散策 豊臣秀次公像 家臣の策略で切腹?ヴォーリズの建築   写真は近江八幡の八幡公園に建つ豊臣秀次公像を昨日撮ったものです。今日、鳥居本地区公民館で行われた、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」、及びその後、同文化財課の下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城址、三成屋敷跡などをめぐる現地見学会(4時間余りに及びました)に参加するため、昨日、彦根に泊まりました。今日のイベントも充実したものでしたが、その報告は改めて拙ブログで後述します。  昨日は近江八幡で途中下車し、町中を歩いて回ってきました... ...続きを見る

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2016/12/11 21:24
石田三成の実像1780 旅行記81 湖東の西明寺の紅葉 奉納絵馬は佐和山合戦を描いたものではない
石田三成の実像1780 旅行記81 湖東の西明寺の紅葉 奉納絵馬は佐和山合戦を描いたものではない   写真は湖東三山のひとつ、紅葉が見ごろの西明寺の五重塔を22日に撮ったものです。  23日の佐和山での琵琶湖一周のろし駅伝に参加するために彦根に一泊しました。前日は昼前に彦根駅に着き、荷物をホテルに預け、昼食を取ってから、シャトルバスで西明寺、金剛輪寺を拝観してきました。百済寺にも行きたかったのですが、時間的に無理でした。次回に期したいと思います。シャトルバスが運行されているのは、私も今まで知らなかったので、両寺とも初めて訪れました。交通の便が悪くなかなか行けないところです。湖東三山をめぐる... ...続きを見る

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2016/11/25 10:20
石田三成の実像1738 旅行記80東北11 長勝寺の三門・強力なリーダーシップを発揮した津軽信義
石田三成の実像1738 旅行記80東北11 長勝寺の三門・強力なリーダーシップを発揮した津軽信義  写真は長勝寺の三門を18日に撮ったも のです。津軽藩二代藩主の信枚が寛永6年(1629)年に建立しました。奥に見えているのが本堂ですが、本堂も信枚が慶長16年(1620)に造営しました。書院造の建物です。  向かって右側に小さく嘉元鐘が写っていますが、嘉元元年(1306)に鎌倉幕府執権の北条貞時が寄進したものです。その奥に庫裏の一部が写っていますが、庫裏は文亀2年(1502)に津軽の祖の大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所を移築したものです。津軽為信は、大浦為則の娘と婚姻し、為則の婿... ...続きを見る

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2016/09/30 18:19
石田三成の実像1737 旅行記79東北10 長勝寺の満天姫の御霊屋・満天姫の事績と三成一族との因縁
石田三成の実像1737 旅行記79東北10 長勝寺の満天姫の御霊屋・満天姫の事績と三成一族との因縁 写真は弘前の長勝寺にある、家康の養女で津軽信枚の正室として嫁いだ満天姫の御霊屋を18日に撮ったものです。杉山家当主、息子さんと最勝院・弘前八幡神社で別れてから、訪ねました。  長勝寺には、御霊屋が五つ並んでおり、津軽為信らの藩主に交じって、満天姫の御霊屋があります。家康の養女とあって葵の紋が付いており、藩主並みの扱いがされています。  杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、満天姫の業績として、辰姫の生んだ「信義を、... ...続きを見る

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2016/09/29 10:31
石田三成の実像1736 昌幸の田んぼアート 大河ドラマ探訪433「真田丸」100 清正は暗殺か?
石田三成の実像1736 昌幸の田んぼアート 大河ドラマ探訪433「真田丸」100 清正は暗殺か?  写真は「真田丸」の草刈正雄さん演じる真田昌幸を表した「田んぼアート」を19日に撮ったものです。写真に向かって左側に、山本耕史さん演じる石田三成の「田んぼアート」があります。むろん、われわれは上の展望台から見下ろしているのですが、上から見てきちんとした武将の姿にするのには、相当高度なレベルが必要とされるのではないでしょうか。  「真田丸」第38回「昌幸」のラストシーンで、昌幸が死ぬ場面が描かれていました。昌幸・信繁が九度山に流されてからの10年余りのことを一回分で描くのは無理がありますが、この... ...続きを見る

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2016/09/28 18:24
石田三成の実像1735 旅行記78東北9 信義が寄進した最勝院の五重塔・杉山家の顕彰碑・信義の事績
石田三成の実像1735 旅行記78東北9 信義が寄進した最勝院の五重塔・杉山家の顕彰碑・信義の事績  写真は弘前の金剛山最勝院の五重塔を、隣りの弘前八坂神社の境内から18日に撮ったものです。  写真を撮っている後ろには、杉山家12代龍江の顕彰碑が建っています。ここへは、杉山家当主と息子さんの案内で訪ねました。菩提寺である宗徳寺でお会いして、境内の代々の墓を案内してもらった後、行きました。  この顕彰碑について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、次のように記されています。  「杉山家は代々、弘前藩の重臣を務め、藩政を支えた。... ...続きを見る

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2016/09/27 10:26
石田三成の実像1734 旅行記77東北9 三成の孫の杉山吉成の墓・吉成の事績
石田三成の実像1734 旅行記77東北9 三成の孫の杉山吉成の墓・吉成の事績   写真は弘前の宗徳寺にある、三成の次男・杉山源吾の息子である吉成の墓を撮ったものです。杉山家当主の杉山丕氏や息子さんの案内で訪れました。残念ながら、杉山源吾自身の墓は境内にはありません。吉成の墓は、杉山家代々の墓とは少し離れたところにあります。宗徳寺の杉山家の墓の写真は、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも掲載されており、代々の墓に「豊臣」の姓が刻まれていることが記されています。肉眼で「豊臣」の字が確認できる墓もありますし、消えかかってよくわからないものもありました。  杉... ...続きを見る

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2016/09/26 17:27
石田三成の実像1733 旅行記76東北8 三成の三女・辰姫の貞昌寺の墓・23年後に大舘から移送
石田三成の実像1733 旅行記76東北8 三成の三女・辰姫の貞昌寺の墓・23年後に大舘から移送  写真は弘前の貞昌寺にある、三成の三女・辰姫の墓を18日に撮ったものです。  辰姫のことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「辰姫」の章で詳しく記されていんますし、この墓も写真入りで紹介されています。私も一度お参りしたいと思っていましたが、ようやく果たしました。  「あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二」の中に、辰姫について次のように記されています。  「文禄元年〜元和9年(1592〜1623)  弘前藩二代藩主津軽信枚の側室。豊臣秀吉の正室・北政所の... ...続きを見る

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2016/09/25 10:49
石田三成の実像1732 旅行記75東北7 革秀寺の津軽為信の御霊屋・為信の事績 と三成
石田三成の実像1732 旅行記75東北7 革秀寺の津軽為信の御霊屋・為信の事績 と三成   写真は弘前の革秀寺にある津軽為信の御霊屋を18日に撮ったものです。弘前城を見学した後に訪ねましたが、この御霊屋も本堂も修理中でした。この御霊屋に、三成の次男である重成(杉山源吾)が大坂城から持参した秀吉の木像が安置されています。  為信の御霊屋について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)に次のように記されています。  「御霊屋は土塁に囲まれ、岩木山を背に弘前城のある東を向いて建てられている。円柱の柱などには漆が塗られ、扉には津軽家... ...続きを見る

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2016/09/24 10:46
石田三成の実像1731 旅行記74東北6 石田重成が運んだ秀吉の木像が祀られていた弘前城の館神
石田三成の実像1731 旅行記74東北6 石田重成が運んだ秀吉の木像が祀られていた弘前城の館神 写真は弘前城の館神(たてがみ)跡を18日に撮ったものです。秀吉の木像を安置していた場所であり、弘前城のパンフレットには、「ごく限られた人だけが出入りできる場所でした」と記されています。  写真の手前、左右に見えるのが、鳥居の礎石であり、奥に見えているのが本殿の柱でした。秀吉の木像を運んできたのが、三成の次男の重成でした。その木像を津軽家は、江戸時代、ご神体として祀ってきたのですから、大胆なことですし、重成に対する津軽家の厚遇ぶりがわかります。重成は杉山源吾と姓名を替えますが、重臣として取り... ...続きを見る

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2016/09/23 12:10
石田三成の実像1730 旅行記73東北5 弘前城・三成の子の辰姫の墓、杉山家代々の墓にお参り
石田三成の実像1730 旅行記73東北5 弘前城・三成の子の辰姫の墓、杉山家代々の墓にお参り  写真は弘前城を18日に撮ったものです。城の向かって左側の奥の方に、岩木山が見えています。  弘前城を訪ねるのは、三十数年ぶりです。独身時代に、勤務していた高校の国語科のやはり独身の同僚と二人で夏休みを利用して訪ねました。あの時は、文学を訪ねる旅であり、太宰治、宮沢賢治、石川啄木などのふるさとやゆかりの地を訪れました。その時は、津軽や弘前が三成やその子孫と関わりの深い場所であることは知りませんでした。  今回はオンライン三成会の人々と訪ねたわけですが、午前中は弘前城を回り(ここもボランティア... ...続きを見る

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2016/09/22 10:36
石田三成の実像1729 旅行記72東北4 三成のものと伝わる、秋田の帰命寺の墓
石田三成の実像1729 旅行記72東北4 三成のものと伝わる、秋田の帰命寺の墓   写真は秋田の帰命寺にある、三成のものと伝わる墓を17日に撮ったものです。この墓のことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「羽後・秋田」の章に詳しく書かれています。この章及び「大谷吉継」の章を担当した佐藤誠氏に、今回の東北旅行で初めてお会いしました。「三成伝説」が最初に出版されたのは、2009年のことですが、それ以前もそれ以後もネット上のつながりだけで、直接お会いしたことはありませんでした。  17日はオンライン三成会の人々と秋田で合流しましたが、佐藤氏の案内で午前中は千秋... ...続きを見る

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2016/09/21 08:55
石田三成の実像1728 旅行記71東北3 田んぼアート 大河ドラマ探訪432「真田丸」99 三成最期
石田三成の実像1728 旅行記71東北3 田んぼアート 大河ドラマ探訪432「真田丸」99 三成最期    写真は青森県南津軽郡田舎館村で開かれている、大河ドラマ「真田丸」で山本耕史さん演じる三成の姿を表した「田んぼアート」を昨日撮ったものです。真田昌幸の「田んぼアート」も隣に作られていました。  オンライン三成会の有志の人々と17日に秋田、18日・19日に弘前三成や関連人物の遺跡などを訪ねましたが、この「田んぼアート」もその一つです。それらの旅行の詳細な報告は改めて拙ブログで行いたいと思います。  大河ドラマ「真田丸」第37回「信之」が放送された18日の夜は、三成が登場する最後の場面とあ... ...続きを見る

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2016/09/20 16:58
石田三成の実像1725 旅行記69東北旅行1 久保田城跡1 三成の盟友、佐竹義宣に贈られた手水鉢
石田三成の実像1725 旅行記69東北旅行1 久保田城跡1 三成の盟友、佐竹義宣に贈られた手水鉢  写真は秋田の千秋公園にある茶室の手水鉢を昨日撮ったものです。  一昨日から秋田に来ています。明日から三連休を利用して、オンライン三成会の有志の人々と秋田や弘前の三成ゆかりの場所を回ることになっていますが、自分は先に飛行機で秋田入りしました。秋田は三成の盟友であった佐竹義宣が関ヶ原の戦いの後、常陸から転封になった地であり、秋田にある帰命寺に三成のものと伝わる墓があります。  また津軽は、関ヶ原の戦いの後、三成の二男の重成が落ち延びた地であり、この地で杉山源吾と名を替え、津軽藩で重く用いられま... ...続きを見る

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2016/09/17 09:01
日本文学探訪117梅花女学校発祥の地碑 広岡浅子と山川登美子の接点? 「『明星』における白百合」3
日本文学探訪117梅花女学校発祥の地碑 広岡浅子と山川登美子の接点? 「『明星』における白百合」3  写真は梅花女学校発祥の地碑を昨日に撮ったものです。昨日は新たに豊臣期大坂城の石垣内側から見つかった大坂夏の陣の焼け土の層などについての現地説明会に行った(こについては後述します)あと、肥後橋に足を伸ばしてこの碑を見て、近くにある大同生命大阪本社ビル(加島屋跡地)で開かれている「広岡浅子の生涯」展を見学(二度目)して、その後、玉造へ行き、明星学園に建立されたばかりの真田丸碑、その前にある心眼寺を訪ねました(これについても後述します)。  梅花女学校発祥の地碑は大同生命保険会社発行の「広岡浅子ゆ... ...続きを見る

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2016/02/07 19:30
日本文学探訪116 山川登美子記念館4 梅花高校 昭和50年の拙文「『明星』における白百合」2 
日本文学探訪116 山川登美子記念館4 梅花高校 昭和50年の拙文「『明星』における白百合」2    写真は山川登美子記念館の入口の門を昨年12月24日に撮ったものです。 山川登美子は大阪の梅花女学校を卒業していますが、昨日の毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」の「たむらけんじの学校へ行こッ!」のコーナーで、梅花高校が取り上げられていました。大阪で最初に作られた女学校であると紹介され、たむらさんが舞台芸術コースのクラス(夢多き女生徒たちのトークと笑顔が印象的でした)、チアリーディング部(昨年の世界選手権大会で優勝。その迫力あるハイレベルな演技に圧倒されました)を訪ねていました。番組では触れ... ...続きを見る

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2016/02/02 23:01
石田三成の実像1551  青春18切符で太田城跡、和歌山城へ6 大立寺・高野山に刀狩令・三成と木食
石田三成の実像1551  青春18切符で太田城跡、和歌山城へ6 大立寺・高野山に刀狩令・三成と木食 写真は和歌山の大立寺の山門を1月8日に撮ったものです。この山門は太田城の大門を移築されたものだといわれています。  大立寺は、JR和歌山駅の南西方向にあり、けやき通りを西に進み、柳通りを南下していきましたが、15分余りかかったでしょうか。このあたりも完全な町中です。この後、西に10分余り歩き、和歌山城に行きました。  さて、秀吉が紀州攻めをした際、「原刀狩令」を発しましたが、高野山にも発せられました。  この点について、桑田忠親氏の「太閤の手紙」には次のように記されています。  すな... ...続きを見る

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2016/01/19 11:10
石田三成の実像1550 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ5 小山塚・秀吉の「原刀狩令」
石田三成の実像1550 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ5 小山塚・秀吉の「原刀狩令」  写真は和歌山の小山塚を1月8日に撮ったものです。太田城の犠牲者を葬った塚の一つです。もっとも、この塚の位置は元ある場所から移っていることが、そばの説明碑に次のように記されています。  「当小山塚は昭和27年和歌山市太田538番地の塚跡に建立されましたが、昭和60年東和歌山第一地区区画整理事業により現地に移転したものである 昭和60年7月26日 太田城史跡顕彰保存会」と。  今の小山塚が建っているのは、来迎寺のすぐ東にあり、本丸があったとされる場所です。  太田城が開城したのは天正13年4... ...続きを見る

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2016/01/17 11:34
石田三成の実像1549 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ4 秀吉の水攻め4 太田左近像
写真はJR和歌山駅東口に建つ、太田城主の太田左近像を1月Tがっ撮ったものです。太田城は秀吉によって落城しましたが、敗軍の将ながら地元の英雄をこういう形で顕彰しているのはいいことですし、今後顕彰が進んでいくことを願っています。この時、三成は攻撃軍の中にいましたが、関ヶ原の戦いでは逆に敗軍の将になり、悲劇的な最期を遂げました。三成の地元での顕彰活動はますます盛んになってきていますし、佐和山城跡の発掘調査、「三成会議」の開催や「三成の戦」のイベントもその表れです。  太田左近像のそばに建っている... ...続きを見る

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2016/01/15 17:37
石田三成の実像1548 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ3 秀吉の水攻め3 本丸跡・堅牢な城
  写真は和歌山市の来迎寺の山門を1月8日に撮ったものです。ここに太田城の本丸がありました。かつてはここに城があったとは思われないほど、今は遺構はほとんどなく、このあたりは完全に町中になっています。この城の規模について、寺の横に建っている太田城の説明掲示板に次のように記されています。  「城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる」と。   松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳ルイス・フロイスの日本史4」(... ...続きを見る

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2016/01/13 18:09
石田三成の実像1547 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ2 秀吉の水攻め2 堤跡・行長の活躍?
  写真は秀吉が太田城を水攻めにするために城の周りに築いた堤の、わずかに残る跡を1月8日に撮ったものです。昨日付の拙ブログ記事に貼付した写真に、その堤の推定位置も記載されていますが、残っている堤の位置は城の本丸の北北東の方向に当たります。その説明掲示板には、築いた堤の長さは6〜7キロと記されています。  これも前述したように、三成がこの太田城攻めに従軍していることは、「宇野主水日記」によってわかりますが、どういう役目を果たしているかは定かではありません。  松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳フ... ...続きを見る

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2016/01/11 11:21
石田三成の実像1546 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ1 秀吉の太田城水攻め1 三成も従軍
 写真は和歌山で見つけた、秀吉の太田城水攻め跡の説明掲示板を一昨日撮ったものです。JR和歌山駅の東口と西口をつなぐ地下道の壁に掲示されていました。  一昨日は青春18切符(最後の1枚)を利用して、和歌山へ行き太田城跡や関連史跡、和歌山城をめぐってきました。まず、東口の駅前にある太田城主であった太田左近の像を見、秀吉が水攻めのために築いた堤跡(駅の西北東の方向にあるところにわずかに残っています)、本丸があった来迎寺、すぐそばの太田一族の供養のために小山塚(堤のところから南下しました)、再び東口に... ...続きを見る

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2016/01/10 11:08
日本文学探訪114 山川登美子記念館2 「白百合の君」と呼ばれた登美子・意に染まぬ結婚をする前の歌
  写真は小浜の山川登美子記念館の庭園を昨年12月24日に撮ったものです。終焉の間の廊下から座敷の方を向いて撮っています。登美子が亡くなった終焉の間自体は撮影禁止でした。   登美子は自ら「白百合」と署名し、他の仲間から「白百合の君」と呼ばれていました。登美子が「白百合」を詠んだ有名な歌があります。 ...続きを見る

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2016/01/09 11:37
旅行記69 青春18切符で明石、南京町へ 「たこ磯」の玉子焼き・天文科学館・柿本神社で初詣
写真は明石の「たこ磯」のあなご入りの玉子焼を一昨日に撮ったものです。家人と二人で、青春18切符を利用して、明石、神戸の南京町を回ってきました。  玉子焼きといっても、明石焼のことであり、たこ焼きをだしにつけて食べるものです。もっとも、テーブルにはソースも置いており、それをかけて普通のたこ焼き風に食べることもできます。三分の二はだしに付けて、残る三分の一はソースをかけて違う味を楽しみました。だしに付けた方がむろん、あっさりした味で、余計とろとろしていました。だしの風味は、すまし汁の雑煮の味に似... ...続きを見る

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2016/01/07 12:25
石田三成の実像1544旅行記68 名護屋・福岡旅行28 筥崎宮 太田浩司氏の講演9 大陸侵攻の困難さ
  写真は博多の筥崎宮を昨年の9月21日に撮ったものです。秀吉は九州攻めの際、本陣を置いたところです。   三成と博多の関わりについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)の「天正15年(1587)」の項には、次のようなことが記されています。  4月「23日付で大谷吉継・安国寺恵瓊と連署状を発して、博多商人の還住を勧める(『原文書』)」、島津攻めの後、「筑前箱崎に凱旋。長束正家・小西行長らとともに博多復興を期した町割りの奉行に就いたとさ... ...続きを見る

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2016/01/06 15:12
日本文学探訪113 山川登美子記念館1 与謝野鉄幹・晶子との出会い・日本女子大停学処分・終焉の間
 写真は山川登美子記念館を昨年の12月24日に撮ったものです。この日は午前中に北の庄城址・福井城址を回った後、JRに乗り、再び敦賀に戻り、小浜線に乗り換え、小浜を訪ねました。小浜もいろいろ回りたかったのですが、クリスマス・イブとあって夜には家に戻らねばならなかったので、山川登美子記念館にだけ行きました。ここはかねてから訪ねたいと思っていたところであり、登美子の生家が記念館になっています。  山川登美子は学生時代から興味・関心がありましたが、高校の国語科教員となってからも、与謝野晶子や鉄幹の歌を... ...続きを見る

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2016/01/05 22:06
石田三成の実像1543旅行記67名護屋・福岡旅行27太宰府天満宮楼門 太田浩司氏の講演8 吉継奉納鏡
 昨年はオンライン三成会有志の人々と名護屋・福岡を訪ねましたが、今年は津軽を訪れたいと思っています。三成の次男の重成が関ヶ原の戦いの後逃れたのは津軽でしたし、三成の三女の辰姫が嫁いだのも津軽藩でした。   写真は大宰府天満宮の楼門を昨年の9月21日に撮ったものです。楼門を再建したのは石田三成だということが、太宰府天満宮発行の図録「天神絵巻 太宰府天満宮の至宝」に記されています。同図録には、本殿は小早川秀秋が再建し、土地は秀吉が、鰐口は筑紫広門が寄進したこと、黒田家が如水以来代々天満宮を篤く信... ...続きを見る

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2016/01/04 10:40
旅行記67 30年前の年末年始の新婚旅行 京都探訪275 結婚記念日に「木乃婦」で昼のミニ会席
 結婚して30年経ちました。12月22日に結婚式を挙げ、23日からヨーロッパ(スペイン・フランス・イタリア・ギリシア)に新婚旅行に行きました。新年はロードス島のホテルで迎えました。ツァー旅行でしたが、全員が夫婦で、大半が新婚というメンバー構成でした。むろん、夫婦が条件の旅行ではなく、たまたま夫婦ばかりになったという不思議な縁でした。クリスマスをスペインのマドリッドで過ごせるということで期待したのですが、イブの日は、レストランの従業員が早く帰りたいためか、夕食の料理を次から次へと慌ただしく出し、ゆ... ...続きを見る

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2015/12/31 17:21
石田三成の実像1541 瓶割り柴田の逸話 太田浩司氏の講演7 吉継・三成共に奥州検地
 今年ももう後一日ですが、定年退職して4年目、月日の経つのがますます早く感じられます。  今年は講演会や発掘調査現地説明会によく行きました。三成関係としては、桐野作人氏、矢部健太郎氏、小野善生氏の講演会、大坂城、指月伏見城、佐和山城の現地説明会。講演会は他にも、「源氏物語の真実」、「平家権力の実像と『平家物語』」、「平安京の都市とくらし・京町家 梅忠町を復元する」、「真田丸プレミアムトーク」、「京都環境文化学術フォーラム」、「スーチーさんと京都」などに参加し、それによって多くの知見を得、大い... ...続きを見る

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2015/12/30 22:22
石田三成の実像1540 勝家が築いた九十九橋の橋脚 太田浩司氏の講演6 小田原攻めの陣は隣同士
 写真は福井市の北の庄城址資料館にある「九十九橋(つくもばし)の橋脚」を12月24日に撮ったものです。手前に写っているのは、椅子の一部であり、そこで休憩などができるようになっています。平日でしたが、資料館の入館者を数名見かけました。「九十九橋の橋脚」について、そばの説明掲示板及び館内に置いてあった「北の庄城址公園 柴田公園のご案内」の中で、次のようなことが書かれています。  「九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。半... ...続きを見る

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2015/12/29 11:39
石田三成の実像1539 勝家の舟橋の鎖 太田浩司氏の講演5 大谷吉継永禄8年生誕説
 写真は北の城址資料館に展示されていた舟橋の鎖を12月24日に撮ったものです。そばの説明掲示板及び館内に置いてあった「北の庄城址公園 柴田公園のご案内」の中で、「舟橋の鎖」について、次のようなことが書かれています。  「舟橋とは、川に舟を幾艘も並べて、その上に板を渡すことで架けられる橋のことを言います。古くから舟橋は造られており、全国的にも地名などにその痕跡を読み取ることができます。  展示されている鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578)に渡したと伝えられ... ...続きを見る

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2015/12/28 22:10
石田三成の実像1538柴田神社 太田浩司氏の講演「秀吉奉行としての吉継・三成」4 共に任官・有馬同行
 写真は福井市の北の庄城址・柴田公園にある柴田神社の鳥居を1月24日に撮ったものです。福井駅の西側の商店街のそばにあり、写真にも後ろにビルが写っており、町中にあることがわかります。しかし、かつてここに北の庄城があり、城主の柴田勝家と妻のお市の方は秀吉軍に攻撃されて自害し、落城しました。柴田神社には勝家とお市の方が祀られています。関ヶ原の戦いの後、越前に転封となった結城秀康は、北の庄城の北側に、新たな北の庄城を築城しました。それが福井城であり、次に福井城址を訪ねました。歩いて10分余りでしたが、明... ...続きを見る

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2015/12/27 17:28
石田三成の実像1537 お市の方、三姉妹像 太田浩司氏の講演3 賤ヶ岳の戦いでの二人の活躍
 写真は北の庄城址・柴田公園に建っているお市の方(写真に向かって左側)と三姉妹の像を撮ったものです。ここは柴田神社・三姉妹神社の境内でもあります。この場所で、柴田勝家とお市の方は天正11年(1583)4月に亡くなりました。  柴田勝家にとって致命的だったのは、同月の賤ヶ岳の戦いで敗れたことでしたが、三成はその直前に諜報活動をしていることを示す称名寺宛の同年の3月13日付の三成書状が残っていますが、敦賀市立博物館で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」の講演会資料に、同年12月... ...続きを見る

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2015/12/26 11:39
石田三成の実像1536 柴田勝家像 太田浩司氏の講演「秀吉奉行としての吉継・三成」2 吉継の出自
 写真は福井市の北の庄城址・柴田公園にある柴田勝家像を昨日撮ったものです。23日、敦賀市博物館で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」に参加した後、福井市まで足を伸ばして一泊しました。昨日は北の庄城址、資料館、福井城跡を見、その後、小浜に行き、山川登美子記念館を訪ねて来ました。両日とも青春18切符を利用しました。  北の庄城の柴田勝家が秀吉に攻められて亡くなったのは、天正11年(1583)4月のことですが、太田浩司氏の講演会の中で、吉継と三成の、現在の時点の初見文書は同じ天正... ...続きを見る

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2015/12/25 10:27
石田三成の実像1525 旅行記66名護屋・福岡旅行26 唐津城・寺沢広高は関ヶ原に参戦せず?
 写真は唐津城を9月21日に撮ったものです。前日に、名護屋城博物館、名護屋城跡、野元にある三成陣跡、最初の三成の陣跡があったと推定される生駒親正陣跡、上杉景勝陣跡などを回りましたが、この日は虹の松原、唐津城を回った後、福岡に向かいました。  唐津城の館内では、江戸時代の城下町を再現したジオラマ、唐津藩時代の甲冑・武具、江戸時代の古絵図、唐津焼、全国の名城の写真などが展示されていました。、  名護屋城の建物が唐津城に移築されたということについて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋と『天下人』... ...続きを見る

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2015/12/07 10:50
石田三成の実像1524 旅行記65 名護屋・福岡旅行25 名護屋城山里口・上山里丸の能舞台
 写真は名護屋城山里口を9月に撮ったものです。写真は北側から撮っていますが、写真に向かって右側に上山里丸、左側に下山里丸です。前述したように、山里口が上山里丸への入口であり、虎口になっています。  名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で、「肥前名護屋城図屏風」には、下山里丸に能舞台が描かれていることが取り上げられ、文禄2年3月5日付のおね(北政所)宛の豊臣秀吉自筆書状が掲載されています。  その解説文に、「『祢』=北政所に、『松風』以下十番の能を覚えた事を伝えてい... ...続きを見る

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2015/12/06 12:22
石田三成の実像1523 旅行記64 名護屋・福岡旅行24 山里丸碑・「大明日本和平条件」の内容
 写真は名護屋城址山里丸碑を9月に撮ったものです。山里丸は秀吉が住んでいたところです。本丸、三ノ丸、東出丸の北東部の丘陵にあり、われわれは本丸や天守台の西にある遊撃丸から下に降りて、名護屋城の北側をぐるりと東の方に回り、山里丸跡まで行きました。上に登ると、西に上山里丸、東に下山里丸があります。上の写真は、上山里丸の一角で、東に向かって撮っています。山里丸が平坦な場所であることがわかりますが、「上」と「下」の区別があるのは、高低差があることによっています。  この点について、名護屋城博物館発行の... ...続きを見る

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2015/12/04 12:14
旅行記63 鶏足寺・多良峡・永源寺の紅葉を巡る日帰りバス旅行 残念ながら見頃は過ぎていましたが…
11月27日に、家人と二人で日帰りのバスツァーで鶏足寺・多良峡・永源寺の紅葉を見に行って来ました。残念ながら、紅葉は見頃は過ぎており、散り始めていました。バスの日帰り旅行は2回目ですが、最初は3年前、大学時代からの友人と京都夏の旅に出かけた時ですが、その時は全部で6時間ぐらいの短いツァーでしたが、今回は8時20分に京都駅前を出発し、戻ってきたのは7時前ですから、倍近くの時間がかかった日帰り旅行になります。  バスの日帰りツァーを利用したのは、電車など他の交通機関で行くには、時間がかかったり... ...続きを見る

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2015/12/01 17:19
石田三成の実像1520 旅行記62 名護屋・福岡旅行23 遊撃丸2 明国使節が謁見する前日の秀吉書状
 写真は名護屋城の遊撃丸を9月に撮ったものです。遊撃丸が石塁に取り囲まれていることがよくわかります。  この点について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋と『天下人』秀吉の城」の「遊撃丸」の説明文の中に次のように記されています。  「曲輪の周囲は高さ3m前後の石塁で囲み、石塁上に連絡する石段も5箇所と比較的多く、防御意識の高さが窺われる」と。  上の写真からは、遊撃丸が長方形になっていること、及びその広さの一端がうかがえます。われわれ一行は、遊撃丸から下に降りて、道を東にたどり、秀吉など... ...続きを見る

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2015/11/28 11:19
石田三成の実像1519 旅行記61 名護屋・福岡旅行22 遊撃丸・偽使節をもてなす・大坂遷都計画
 写真は名護屋城の遊撃丸を9月20日に撮ったものです。本丸の北西に位置し、本丸を出て馬場、二ノ丸をぐるりと回って、遊撃丸にたどり着きました。遊撃丸について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で、「東西約70m、南北約60mの長方形基調の曲輪である。『遊撃』の名称については、明国の『遊撃将軍』沈維敬に関連するとも伝えられるが詳細不明」などと記されています。  「遊撃丸」の説明掲示板には、「文禄2年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪... ...続きを見る

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2015/11/26 11:30
石田三成の実像1511 嶋井宗室屋敷跡・小野善生氏講演5 功を奏したリーダーシップ2 島左近の登用
 写真は福岡の嶋井宗室屋敷跡を9月21日に撮ったものです。宗室もまた博多の復興に尽くし、三成との関わりも深かった人物です。長浜城歴史博物館発行の図録「特別展覧会 石田三成 第二章」には、嶋井宗室宛の三成書状が二通掲載されていますが、嶋井家文書中には「八通の三成文書が残され」、「それらによれば、三成は度々嶋井宗室の家を宿所として利用していたことが知られる」、「天正15年6月には島津攻めからの帰りに、秀吉が筥崎で行った茶会に何回か招かれている。三成との接触は、こういった機会になされたものであろう。し... ...続きを見る

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2015/11/14 11:06
石田三成の実像1510 福岡の豊国神社・宗湛と宗室・小野善生氏講演4 功を奏したリーダーシップ1
写真は福岡の豊国神社を9月21日に撮ったものです。階段を上ってお参りできるようになっています。昨日の拙ブログ記事に貼付した神屋宗湛屋敷跡碑は鳥居のそばにあります。  昨日も触れたように、11月1日に長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の功を奏したフォロワーシップの1つに、博多の復興が取り上げられていましたが、「キーパーソンの見極めと人脈の構築」と述べられ、「目的構築にあたって有力なパートナー(神屋宗湛)との... ...続きを見る

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2015/11/13 17:11
石田三成の実像1509 神屋宗湛屋敷跡・小野善生氏講演3 三成の功を奏したフォロワーシップ 博多復興
 写真は福岡の神屋宗湛屋敷跡碑を9月21日に撮ったものです。前日に名護屋城を回った後、この日は唐津城を見た後、車で福岡に入り、三成ゆかりの地をいろいろ回りました。屋敷跡碑は豊国神社の敷地内に建っています。  そばにある神屋宗湛屋敷跡の説明掲示板の中に、次のようなことが記されています。  「特に豊臣秀吉から厚遇された宗湛は、天正15年(1587年)の博多復興に際して、この地に広大な屋敷地と町役免除の特権を与えられました。宗湛はその恩に報いるため、早くから邸内に秀吉の霊を祭りました」と。  1... ...続きを見る

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2015/11/12 18:52
石田三成の実像1496 旅行記59 名護屋・福岡旅行20 本丸南西隅石垣・秀吉の「三国国割構想」2
写真は名護屋城の本丸南西隅石垣を9月20日に撮ったものです。そばの説明版には、次のようなことが記されています。  「平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10mの高さとなります。石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。(中略)  自然崩壊だけでなく、人為的に破壊したと推定されるため、修理した石垣前面に覆土を行い、破壊当時の状況をそのまますることとしました。  なお、崩れた石垣の中から江戸時代の銭が出土し... ...続きを見る

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2015/10/26 10:28
石田三成の実像1495 旅行記58 名護屋・福岡旅行19 伝「馬場」西側櫓台・秀吉の「三国国割構想」
 写真は名護屋城の伝「馬場」西側櫓台を9月20日に撮ったものです。伝「馬場」を進んだところにあります。  この櫓台について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」について次のように記されています。  馬場の「西側には櫓台が配置されているが、現況通路西端よりも約30mも東側の位置にある。ただし、西側櫓台は、本丸旧石垣南西隅角に合わせた位置に設置したことも想定され、本丸拡張の影響を直接受けている可能性があり、通路では無く相当の空間=曲輪そのものが存在していた可能性もある。西... ...続きを見る

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2015/10/25 10:54
石田三成の実像1494 旅行記57 名護屋・福岡旅行18 伝・馬場 隠居した秀吉の地位と秀次への相続
 写真は名護屋城の伝「馬場」の南側石垣を9月20日に撮ったものです。石垣がところどころ亡くなっている様子が見て取れます。西の方(写真では左方向)に細長い道が二の丸方に続いており、そこが伝「馬場」と呼ばれるところです。石垣の北側が本丸です。  名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、伝「馬場」について次のようなことが記されています。  「延長約130m・幅約15mを測る直線通路である。本丸との比高差は約12mを測る。『馬場』の呼称があるが、後世において直線的で細長い形... ...続きを見る

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2015/10/23 10:49
石田三成の実像1493 旅行記56 名護屋・福岡旅行17 三ノ丸の南西櫓台石垣・隠居所「名護屋城」2
写真は名護屋城の三ノ丸の南西櫓台石垣北西面を9月20日に撮ったものです。大きな鏡石が3枚見られますが、「城内でも最大級のものである」と名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に記されています。その鏡石の大きさを示すために、地元に住むKさんに石垣の前に立っていただきました。大手口、東出丸、三ノ丸から本丸大手、本丸、天守台を見た後、再び本丸大手に出て、三ノ丸を南西に進み、この場所に出ました。   そばにある 「三ノ丸櫓台」の説明パネルには、「この櫓台は、名護屋城で最大規模を... ...続きを見る

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2015/10/21 09:53
石田三成の実像1492 旅行記55 名護屋・福岡旅行16 天守台・隠居所として想定されていた名護屋城
 写真は名護屋城天守台址碑を撮ったものです。本丸の北西角部にあり、本丸より1m程高くなっています。写真の右側が本丸部分であり、天守台が一段高くなっているのがわかります。標高は88mです。名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、天守台について、次のように記されています。  「屏風絵では外観5層に描かれている。内部は最下部が穴蔵構造で、『名古屋家文書』によれば内部7階と記されている。天守台は、城の象徴であるためか、他に比べて破却が著しいが、天守台上面の復元規模は、東西約1... ...続きを見る

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2015/10/20 10:58
石田三成の実像1491 旅行記54 名護屋・福岡旅行15 名護屋城本丸跡・陣替を命じた秀吉朱印状
 写真は名護屋城の本丸跡を9月20日に撮ったものです。本丸大手から本丸へ上がってきました。「天下人」の城だけあって、かなりの広さがありました。シートがかかっているところは、発掘調査がされているのでしょう。  その広さについて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の「本丸」の説明には、「城の最高所部域を占め(標高87m)、東西約145m、南北約125mの方形基調の空間」と記されています。  またその説明文の中には、次のようなことも書かれています。  「発掘調査によって... ...続きを見る

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2015/10/19 10:35
三成の実像1490 旅行記53 名護屋・福岡旅行14 本丸大手・秀吉在陣1年・三成は渡海を含め1年半
写真は名護屋城の本丸大手を9月20日に撮ったものです。大手口、東出丸、三ノ丸を通って、写真のところに来ました。写真の右側に「本丸大手」の説明パネルが見えますが、次のように解説されています。  「三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる大量の瓦などの遺物が見つかりました。  さらにここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。  平成... ...続きを見る

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2015/10/18 10:51
京都探訪253 旅行記33  天橋立旅行3 日本三景碑・十数年ぶりにホテルのプールで泳ぐ
 写真は天橋立にある日本三景碑を8月26日に撮ったものです。大天橋のすこし南側にあります。松並木の入口というべきところに建っています。碑には、日本三景の名の起こりとなった林春斎の文章の一節が記されています。このことについて、「日本三景 天橋立 散策マップ」に、次のような記載があります。  「林春斎が寛永20年(1643)に天橋立を松島・厳島とともに『三処奇観たり』と述べた【『日本国事跡考』】。その後元禄2年(1689)に福岡藩の儒学者、貝原益軒が天橋立を旅行した記録『己巳紀行』の中に初めて『日... ...続きを見る

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2015/09/03 21:54
京都探訪252 旅行記32  天橋立旅行2 傘松公園の冠島杳島遥拝所・雪舟の絵・かわらけ投げと落語
写真は傘松公園の冠島・杳島遥拝所を8月26日に撮ったものです。写真でははっきりわかりませんが、沖合に冠島・杳島が並んで見えました。  そばにある説明掲示板には、「この島は神聖な島として古代から特別視されてきました。この島に宿る神様は海を行き交う船をお守りし、人々の暮らしが豊かになるよう見守っておられます」と記されています。  またその掲示板には、雪舟の有名な「天橋立図」には、その二島が描かれているものの、絵を描いているところからはその島は見えないことについても触れられ、その島を描いた意図... ...続きを見る

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2015/09/01 10:53
京都探訪251 旅行記31  天橋立旅行1 傘松公園からの眺望・股のぞきした時に撮った写真
 写真は笠松公園からの天橋立の眺めを8月26日に撮ったものです。家族で旅行するのは3月の萩旅行以来です。両方とも2泊3日であり、最初の日は現地への移動、真ん中の日が1日かけての散策、最後の日は帰りの列車までの数時間の待ち時間を利用しての散策という、ほぼ同じようなスケジュールの旅行でした。  天橋立は小学校時代に臨海学舎で行って以来です。当時、わが小学校では、夏休みに林間学舎として高野山へ行くことも行われていましたが、臨海学舎では、今回と同じように、天橋立の松林を歩き、笠松公園にケーブルで上り、... ...続きを見る

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2015/08/30 10:33
石田三成の実像1450 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」3 前田利長による家康暗殺事件における長盛
 25日から2泊3日で天橋立まで家族旅行に行っていたので、昨日のブログの更新ができませんでした。天橋立は去年行く予定でしたが、台風の影響で、当日、特急が運休したため、行けませんでした。  今回は仕切り直しという感じでしたが、最初は今回もまたもや台風の接近で、行くのが危ぶまれました。25日は風が強かったものの、特急は時間通り動いて、宮津のホテルに着きましたが、その後は雨が降り出しました。しかし、昨日は晴天で、1日かけて、天橋立の松林を歩きケーブルに乗って山の上に上がり、傘松公園からの眺望も楽... ...続きを見る

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2015/08/27 22:30
大河ドラマ探訪331「花燃ゆ」22 松陰うどん・松陰と井伊直弼の対面は虚構・松陰の取り調べをめぐって
  写真は萩の松陰神社そばの松陰食堂で食べた松陰うどんとおにぎりのセットを3月19日に撮ったものです。萩名産の夏みかんが入っているのが特徴です。町中の家々にも夏みがたくさん実っており、町のたたずまいに彩りを添えていました。てんかすもうどんの味を引き立てていて、おいしくいただきました。  さて、大河ドラマ「花燃ゆ」第17回「松陰、最期の言葉」では、江戸に送られた吉田松陰が取り調べを受ける場で、直接井伊直弼に対して幕政批判を述べる場面がありましたが、むろん、ドラマ的な脚色です。松陰が、間部邀撃策の... ...続きを見る

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2015/05/03 11:29
大河ドラマ探訪329「花燃ゆ」20 萩市田町商店街の垂れ幕 松陰の間部老中邀駕策・伏見邀駕策
 写真は萩市の田町商店街の様子を3月19日に撮ったものです。萩城城下町にある高杉晋作旧宅、木戸孝允旧宅、旧久保田家住宅を見た後、松陰神社に向かって東に歩きましたが、その途中、田町商店街を通りました。  写真にあるように、商店街には大河ドラマ「花燃ゆ」の大きな垂れ幕が掲げられていました。「花燃ゆ」の幟は至るところにありましたし、萩市観光課などが発行するパンフレット「城下町萩を歩く」「萩ガイド」にも、「木戸孝允旧宅」「旧久保田家住宅」「伊藤博文別邸」「玉木文之進旧宅」のパンフレットにも「文と萩物語... ...続きを見る

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2015/04/18 21:29
大河ドラマ探訪328「花燃ゆ」19 杉家旧宅の幽囚室・安政5年に再び野山獄に入れられるまでの経緯
写真は萩の松陰神社にある杉家旧宅の幽囚室を3月19日に撮ったものです。「安政2年→3年・安政5年 松陰先生が再度幽囚せられた室」という説明文が掲げられています。  萩市観光課発行の小冊子「萩まちあるきマップ 維新の先覚者 吉田松陰ゆかりの地を巡る」には、この幽囚室について、「下田での海外渡航に失敗した松陰は、安政元年(1854)野山獄に入れられ、翌年にこの実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。次第に多くの若者が参加... ...続きを見る

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2015/04/07 11:35
大河ドラマ探訪327「花燃ゆ」18 高杉晋作旧宅2・晋作は玄瑞に及ばないと松陰が言ったという典拠
 写真は高杉晋作旧宅を3月19日に撮ったものです。晋作の写真が置かれています。前にも述べたように、今回、萩めぐりで最初に訪ねた旧家が高杉家でした。 大河ドラマ「花燃ゆ」では、松下村塾に入った高杉晋作が、学問でも詩でも久坂玄瑞に及ばないと松陰に言われ、むっとする場面がありました。  これは、高杉が久坂の江戸行きの5ケ月後にやはり江戸に向かう時、松陰が久坂と高杉を比較して語った言葉に基づいているものと思われます。その言葉が、楠戸義昭氏の「吉田松陰『人を動かす天才』の言葉」(知的生きかた文庫)... ...続きを見る

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2015/04/06 11:50
大河ドラマ探訪326「花燃ゆ」17 高杉晋作旧宅・晋作役の高良健吾さんのインタビュー
 写真は高杉晋作旧宅の入口(門)を3月19日に撮ったものです。この日は拙ブログで前にも触れたように、雨の降る中、傘をさして宿である北門屋敷から東に進み、萩博物館の前を通って、萩城下町に入りましたが、まず高杉晋作旧宅を見学しました。39年前にも訪ねたことをおぼろげながら覚えています。  家の中には上がれず、外から家の中を眺めるだけでしたが、部屋には晋作や妻子の写真、書状、ゆかりの品、絵入りの晋作の一代記などが展示されています。また庭には高杉晋作の歌碑、鎮守、井戸があります。  高杉家の旧宅につ... ...続きを見る

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2015/03/29 11:10
大河ドラマ探訪325「花燃ゆ」16 松陰が塾生を教えた期間・文が不美人で玄瑞が結婚を拒んだという史料
 写真は萩市の松陰神社の境内にある松下村塾の内部の様子を3月19日に撮ったものです。手前に松下村塾の説明が書かれたものが建っていますが、字がすっかり薄くなっており、よく読めません。奥に塾生たちの写真が掲げられています。   楠戸義昭氏の「吉田松陰『人を動かす天才』の言葉」(知的生きかた文庫)には 「安政4年(1857)年11月5日、松陰の父・百合之助と、当時松下村塾を主宰していた外叔の久保五郎左衛門の二人は、相談して杉家母屋から15メートルほど離れた畑にある物置を改造して、八畳一室の塾舎を建て... ...続きを見る

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2015/03/28 11:50
大河ドラマ探訪324 「花燃ゆ」15 吉田松陰の松下村塾継承の経緯・「諸君、狂いたまえ」は創作?
写真は萩の松下村塾の内部を3月19日に撮ったものです。奥に「講義室」の額と吉田松陰の肖像画が掲げられ、松陰の銅像が置かれています。 松下村塾について、萩市観光課発行の「萩まちあるきマップ 吉田松陰ゆかりの地を巡る!」には、次のように記されています。  「松下村塾は、玉木文之進(松陰の叔父)が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、ついで久保五郎左衛門が継承し、安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎました。松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ僅か1年余... ...続きを見る

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2015/03/27 15:10
旅行記30 萩で2泊3日の家族旅行1 松下村塾を再訪・1日半かけて市内を散策
  写真は萩市の松陰神社の境内にある松下村塾を3月19日に撮ったものです。  前に萩に行ったのは正確に言うともう39年前のことになります。その時は同僚二人と一緒に半日、レンタサイクルで回りましたが、今回は家族3人で歩いてめぐりました(一回だけ循環バスを利用しました)。前回は晴れていました(萩は1日でもう1日は津和野をめぐりました)が、今回は初日(宿に着いたのは4時ごろであり、風雨が強くこの日は温泉に入ってゆっくりしました)と2日目の夕方までは雨でした。もっとも、 3日目は晴れており、午前中も萩... ...続きを見る

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2015/03/21 23:29
旅行記29 山代温泉2泊3日の旅7 源泉「薬壺の湯」・青春18切符で北陸は回れないという事実に衝撃
写真は山代温泉の源泉「薬壺の湯」の一角にある足湯を2月19日に撮ったものです。実際、その時、足湯につかっている人もいました。私たちはホテルに着いた日に温泉街の一部をぶらぶら散歩したので、タオルなども用意していず、つかることができませんでした。次の日も温泉街をいろいろ散策しましたが、曇りがちで、途中から雨が降ってきたので、早々にホテルに引き上げ、ホテルで温泉にたっぷりつかり、この源泉「薬壺の湯」の足湯は結局、利用しませんでした。   その源泉「薬壺の湯」の説明掲示板には、神亀2年に行基が烏が湯... ...続きを見る

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2015/03/01 16:42
旅行記28山代温泉の旅6 薬王院温泉寺 石田三成の実像1380 前田利政の軍役拒否・三成の衆道?
 昨日、確定申告に行ってきました。定年退職して以来、申告に行くのは今回が3年目です。この時期になると、確定申告を済ませないと気分的に落ち着きません。勤めている時には無縁の世界でしたが。花粉も飛び始め、昨日は喉も余計に痛み(咽頭神経炎も完治していません)、目もしょぼしょぼしました。  さて、写真は山口玄蕃の墓のある薬王院温泉寺の山門を2月20日に撮ったものです。朱色が印象的ですが、本堂も朱色でした。温泉寺の由来について、寺の説明掲示板には、神亀2年(725)、行基が山代温泉を発見した時、温泉鎮護... ...続きを見る

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2015/02/26 16:36
旅行記27山代温泉の旅5 すぱクロくんゼリー 大河ドラマ探訪319「花燃ゆ」11松陰と玄瑞との関係 
   大河ドラマ「花燃ゆ」のオープニング映像に、三本足の八咫烏(ヤタガラス)が使われていることを知ったと2月18日付拙ブログ記事に記しましたが、石川県の山代温泉で八咫烏をキャラクターにした「やましろ すぱクロくん」に出会いました。  写真は一日目の19日の夕食の際に、デザートとして出された「すぱクロくんゼリー」を撮ったものです。卓上に置かれた紙にも書かれていることですが、奈良時代の高僧・行基が一羽の八咫烏が湯浴みをしているのを見て山代温泉を発見したという伝説にちなんで作られたキャラクターです。... ...続きを見る

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2015/02/25 11:37
旅行記26 山代温泉2泊3日の旅4 栄螺堂展望台からの眺め・春節の影響・北陸新幹線歓迎ムード
 写真は栄螺堂展望台を2月20日に撮ったものです。ホテル「雄山閣」から山道を歩いて30分足らずの距離にあります。木の階段をぐるぐる回って、展望台まで登ることが出来るようになっています。  写真は展望台からの眺めを撮ったものですが、下に見えているのは山代温泉街です。向こうの方に連峰も見えていますが、あいにくの曇り空であり、晴れていれば、もっとはっきりした眺めが楽しめたかもしれません。  写真は展望台からの白山方面の眺めを撮ったものです。中央に盛り上がって見えているのは鞍掛山です。その後ろに連峰... ...続きを見る

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2015/02/24 17:20
旅行記25 山代温泉2泊3日の旅3 明覚上人の墓 石田三成の実像1379 利長の退却と吉継の活躍
 写真は山口玄蕃の墓のそばに建つ明覚上人の墓を2月20日に撮ったものです。祠の中に五輪の供養塔が建っています。明覚上人は薬王院温泉寺の初代住職であり、「あいうえお」の表を考え出した人物であるとの説明が、寺の説明掲示板に書かれています。寺の階段にも、あいうえおの字が一字ずつ書かれていましたが、明覚上人のことは私自身、よく知りませんでした。  われわれは山の上の栄螺堂展望台の方から降りてきて、その途中に山口玄蕃の墓と明覚上人の墓にたどり着きましたが、ここも温泉寺の境内であることを後で知りました。温... ...続きを見る

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2015/02/23 16:01
石田三成の実像1378 旅行記24 山代温泉2泊3日の旅2 最初はひっそりと建てられた山口玄蕃の墓
 写真は山代温泉にある山口玄蕃の墓を一昨日に撮ったものです。正確には、大聖寺城藩主の山口玄蕃頭宗永(むねなが)とその子の山口右京修弘(ながひろ)の供養塔です。そばに建つ説明掲示板には、山口玄蕃たちは800余名にて、東軍側の前田利長2万5千余名の大軍と戦い討死したこと、当山第15世仙明(せんみょう)上人によって供養塔が建立されたが、大聖寺藩主の前田家に遠慮して、後方の谷間(現保育所)に建てられ、終戦後現在の地に移されたことなどが記されています。  説明掲示板に書いてある通り、近くに保育所があり、... ...続きを見る

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2015/02/22 17:51
旅行記23山代温泉2泊3日の旅1 今まで涸れたことがない女生水 温泉街散策・山口玄蕃の墓
   写真は石川県の山代温泉にある女生水(しょうず)を19日に撮ったものです。昭和31年に上水道ができるまでこの女生水は地元住民の貴重な飲料水であり、この井戸の生水だけは今までずっと涸れることはなかったと云います。近くに男生水もあります。  19日から2泊3日で山代温泉に家人と二人で行ってきました。19日の昼、JR京都駅から特急のサンダーバードに乗り、加賀温泉駅まで2時間弱。そこからホテル(雄山閣)まで送迎バスで20分程でした。  昼食は特急の車内で京都駅で買った幕の内の駅弁で済ませました。... ...続きを見る

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2015/02/21 23:57
旅行記22  白浜1泊旅行4 スポーツ雑記 タウンゼントさんの碑・育てられたボクサーたちの言葉
 写真は白浜の白良浜にあるエディ・タウンゼントさんの碑を9月9日ニ撮ったものです。夕方に白良浜を散策していた時に出会いました。  9月の家族での白浜旅行はアドベンチャーワールドを見るのが主たる目的であり、宿もネットで探したのですが、割とこじんまりとした「灯りや」というホテルでした。3人で10畳というゆったりとした部屋を頼み、新しい落ち着いた感じの和室でゆっくりできました。夕食もあわびなどの海の幸や肉料理が何品も出て、満腹になりました。朝の和食もおかずがたっぷりありました。  さて、タウンゼン... ...続きを見る

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2014/12/14 22:08
旅行記21  青春18切符を使っての白浜一泊旅行3 アドベンチャーワールドのパンダ 
 写真は白浜のアドベンチャーワールドにいるパンダの良浜を9月9日に撮ったものです。パンダは2カ所で見ることができましたが、ここの施設は「フリーディングセンター」です。ガラスの壁越しにしか見えません。パンダのなまの姿を見たのは、中国の洛陽の労働人民公園で見て以来ですから、31年ぶりです。良浜はしきりに動き回っており、撮るのがむずかしく、なかなか正面から写せませんでした。  この時は知らなかったのですが、6日が良浜の14歳の誕生日であり、お祝いのケーキがふるまわれたということを後で知りました。... ...続きを見る

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2014/09/22 11:05
旅行記20  青春18切符を使っての白浜一泊旅行2 白良浜に戻ってくる途中で見えた夕陽
 めっきり涼しくなりました。14日に甲子園のディゲームを見に行った時には日差しが強くて暑いほどでしたが、今は半袖では寒いくらいです。4日から5日にかけての白浜旅行の時も暑く、特にアドベンチャーワールドの野外はまともに日が照りつけ、屋内で時間を過ごしがちでした。  写真は千畳敷の説明掲示板を撮ったものです。写真に向かって右側に立っているのは、「和歌山県朝日夕陽百選」の碑です。前述したように、白良浜を散策した後、千畳敷まで歩きましたが、通り雨に遭いました。  説明掲示板には、「千畳敷は、太平洋... ...続きを見る

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2014/09/20 12:02
旅行記20  青春18切符を使っての白浜一泊旅行2 ホテルで錦織選手の試合結果を知る・朝日夕陽百選
  写真は白良浜を9月8日の夕方に撮ったものです。空がどんより曇っていますが、水平線のあたりは明るくなっています。夕方になって、人の姿も少なくなっていました(バス停からホテルに行く前に通った時には、もっと賑わっていました)。  白浜は、職員の旅行で一泊して以来ですから、三十数年ぶりです。その時は車で行きましたが、白良浜のそばの宿舎に泊まり、三段壁を見に行ったことを思い出します。今回は三段壁には行けませんでしたが。その時は夏ではなかったので、泳ぎませんでしたし、今回も泳ぎには縁がありませんでした... ...続きを見る

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2014/09/13 12:08
旅行記19  青春18切符を使っての白浜一泊旅行1 夕方に白良浜から千畳敷まで散歩
  写真は白浜の千畳敷を一昨日の夕方に撮ったものです。  8日から9日にかけて家族で白浜へ行ってきました。8月の天橋立旅行が、豪雨による特急列車の運休によって中止になってしまったのて、その代わりとしての家族旅行です。青春18切符が1回分残っており、新たに1枚買って、計6回分を使用して電車で往復しました。  さすがに電車を乗り継いで行くと、時間がかかりました。行きは京都、大阪、和歌山、御坊、紀伊田辺の駅で電車を乗り継ぎました。白浜駅で下車し、今度は明光バスに乗り換え白良浜のバス停で下車し、ホテ... ...続きを見る

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2014/09/10 17:39
旅行記18 八方池での食事・長野オリンピックスタートハウス
 写真は八方池を別の角度から撮ったものです。最初のところから半周余り回ったところですが、われわれはここで昼食を取りました。前日にホテルでおにぎり弁当を注文して、それを持参しました。弁当を頼んでいて、正解でした。リフトを下りたところにレストランがありますが、そこから登り始めれば、途中に食べるところは全くありません。昼食を取りそこなってしまったのが、翌日の栂池自然園でした。全く食べるところがなく、スナック菓子をつまむ程度に終わりました。同じようにホテルで弁当を頼んでおけばよかったかもしれませんが... ...続きを見る

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2013/08/11 23:40
旅行記17 白馬のホテルに3連泊・富山駅から送迎バスで2時間半・2日目、八方池まで1時間半の登山
  写真はホテルグリーンプラザ白馬を撮ったものです。7日から10日まで、家族で3泊してきました。インターネットを使える環境にはありませんでしたので、拙ブログは2日分休載しました。  家族旅行は、昨年、スイスアルプスに行ってから1年ぶりのことです(スイス旅行記は途中で中断する形になっていますが、また取り上げるつもりです)。  前年は10日間の家族旅行だったのに対して、今年はわずか4日間であり、おまけに、最初と最後の日は、ほとんど移動だけですから、余計に短い気がしましたし、実際、あっという間に終... ...続きを見る

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2013/08/10 23:36
旅行記16 スイスアルプス旅行16 メンリッヒェン山の上で
 写真はスイスアルプス旅行4日目(8月5日)の午後、メンリッヒェン山へ行くロープウェイを降りたところで撮ったものです。スイスの国旗が立っていましたが、その後ろに見えるのはユングフラウヨッホです。雲が至るところにかかっているのが分かります。山の天気は変わりやすいといいますが、ユングフラウヨッホの雲は最後までかかったいたものの、メンリッヒェン山の雲はまもなくなくなりまし、視界は良好でした。もっとも、山からロープーウェイのところに戻る時に、小雨が降ってきたので帰りを急く一幕もありましたが。   写真... ...続きを見る

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2012/09/21 11:24
旅行記15 スイスアルプス旅行15 エーデルワイス・ウェンゲンの英国教会・駅・ロープーウェイ
 写真はスイスアルプス旅行の4日目(8月5日)、ウェンゲンの町を散策している際、撮ったものです。白い花がエーデルワイスです。かつてのミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中でも、エーデルワイスの歌が歌われていました(映画ではオーストリアの愛国歌としての意味合いを持たせていましたが。映画の舞台はオーストリアであり、主人公たちは最後、ナチスドイツから逃れるためにスイスに亡命していました)。エーデルワイスはドイツ語で「高貴な白」という意味であり、花言葉は「尊い思い出」です。スイス旅行の5日... ...続きを見る

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2012/09/19 23:26
旅行記14 スイスアルプス旅行14 ウェンゲンの小さな町の散策
 スイスアルプス旅行記がなかなか進まず、すでに戻って一ヶ月以上が経過していますが、日本はまだまだ残暑が続き、一服の涼になるとでも思って、拙ブログにお付き合いくださればと思います。    写真は旅行4日目の8月5日の午前中に、ユングフラウとラウンターブルンネンのU字谷の絶景ポイントを撮ったものです。このポイントは添乗員さんにいただいたウェンゲンの地図に載っており、旅行四日目の午前中の自由行動日に小さなウェンゲンの町を散策した際に、訪ねました。残念ながら、雲に覆われていますが、その雰囲気は味わえ... ...続きを見る

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2012/09/17 12:38
旅行記13 スイスアルプス旅行13 ウェンゲンの山の上で見たアイガー、メンヒ、ユングフラウヨッホ
 写真はスイスアルプス旅行4日目、8月5日に撮ったものです。写っているのは左奥からアイガー、メンヒ、ユングフラウヨッホの山々です。このうち、左側のアイガー、メンヒについては雲もなくはっきりと見えていますが、ユングフラウヨッホについては、雲に覆われてはっきり見えません。しかし、この日、これらの山を見ることができたのは、自分たちにとって幸運であり、その次の日に天候が悪くなり、展望台では雨が降り一面真っ白で、見えるはずのこれらの峰々が全く見えませんでした。  むろん、4日目の峰々と5日目の峰々の見え... ...続きを見る

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2012/09/14 23:07
旅行記12 スイスアルプス旅行12 ベルンの旧市街・熊公園・バラ公園 
写真は旅行3日目、8月4日の夕方、ニーデック橋の上からベルンの旧市街を撮ったものです(時計塔のところから通りを歩いて東にずっと進んできました)が、赤レンガの屋根で統一された町並みは美しく、独特の雰囲気を保っています。   写真はやはりニーデック橋の上から旧市街を流れているアーレ川を撮ったものです。思わず目を奪われるコバルト色の川ですが、左側の手前には熊公園の一部が見えています。熊公園は文字通り、熊が飼われているところですが、以前の熊園は狭かったのを、数年前に拡張されました。熊はベルンのシンボ... ...続きを見る

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2012/09/13 23:49
旅行記10 スイスアルプス旅行10 日本に戻って「ハイジ」を読んでからわかったこと
  早いもので、スイス旅行から戻ってはや4週間になります。写真は8月4日(旅行3日目)、ハイジの家の案内板を撮ったものです。日本語でも書かれていますが、それだけ日本人観光客が多い証拠です。もっとも、ハイジの家の付近では、外国人の姿もたくさん見かけました。ここのあたり、ハイキングコースになっているので、そういう人も多いのでしょうし、さらにハイジアルプ(ハイジの山の牧草地。ハイジの家よりもずっと高いところにあり、かなりの距離です。下の写真にも出ています)の方に登る人もあると思われます。  案内板に... ...続きを見る

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2012/09/08 23:57
旅行記9 スイスアルプス旅行9 撮るのが難しいランドヴァッサー橋・日本のアニメとは異なる「ハイジ」
  写真は列車がランドヴァッサー橋を通過するところを撮ったものです。その決定的な瞬間を撮ろうと、みんな必死になっていましたし、時間的にもわずかな中で、私の座席が窓側ではなかったということもあって、いい画像が撮れませんでした。写真の右端に、かろうじてその半円形になったランドヴァッサー橋の一部が写っているだけです。列車がトンネルを出たすぐのところにランドヴァッサー橋は架かっています。スイス旅行の観光パンフレットでは、この橋の写真がよく取り上げられています。この橋は高さが65メートル、長さは136メー... ...続きを見る

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2012/08/29 23:46
旅行記8 スイスアルプス旅行8 サンモリッツの五つ星ホテルともお別れ
 写真はスイス旅行2日目、夕食からホテルに戻った後、私たちの部屋がある2階から、シャンデリアと一階の入口、及びロビーあたりを撮ったものです。夕食から戻ったのは9時頃です。それからホテルの中を少し見て外の様子を見に行きました。  少しでも見ておこうとしたのは、せっかく五つ星のホテルに泊まったのに、ただ泊まって寝るだけではもったいないという気がしたからです。初日は午後11時と遅い時間に着き、ホテルの中を見て廻る余裕はありませんでしたし、この日も戻って来たのは早い時間ではありませんでした。もっとも、... ...続きを見る

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2012/08/25 22:53
旅行記7 スイスアルプス旅行7 サンモリッツ湖に下るエスカレーター・そば粉で作られた ピツォッケリ
 写真はサンモリッツの町と湖を結ぶ上り下りのエスカレーターを撮ったものです。添乗員さんがそういうものも出来ていることを事前に紹介してくれていたので、そのエスカレーターの入り口を見つけてそれを利用しました。写真では一部しか見えていませんが、かなり長いエスカレーターであり、左右の壁はギャラリーになっており、芸術作品が展示されていて、それを楽しむような趣向が凝らされていました。  写真はサンモリッツ湖を撮ったものですが、写真の右上隅に湖に突き出たデッキの一部が見えます。さきほどの長いエスカレーターの... ...続きを見る

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2012/08/23 09:51
旅行記6 スイスアルプス旅行6  サンモリッツの町を下って湖の方へ
 写真はサンモリッツの町を撮ったものです。学校広場から中心街を歩いて、サンモリッツ湖の方に下っていきましたが、高級なホテルや店など多数並んでおり、道や店の傍らにはいろいろな銅像やオブジェがなどが建っており、趣きがありましたし、いろいろな国の観光客で賑わっていました。  サンモリッツでかつて2回、冬季オリンピックが開かれています。世界最古のスキーリゾート地ですが、むろん、この時期は日差しが強くて照り付けて暑く、私は帽子とサングラスがなくては歩けません。。もっとも、日陰に入ると、随分しのぎやすく、... ...続きを見る

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2012/08/22 15:36
旅行記5 スイスアルプス旅行5 ディアヴォレッツァ展望台での食事・学校広場から町を散策
パスタ 写真はディアヴォレッツァ展望台のレストランでデザートに出た、スイスの国旗をあしらったアイスクリームを撮ったものです。  ホテルでの朝食はバイキング方式(コンチネンタルスタイルと聞いていたので、パンと飲み物だけの簡単なものだと思っていましたが、ハムやソーセージ、チーズ、スクランブルエッグやヨーグルト、フルーツなども用意された結構本格的なものでした。スケジュールの関係上、時間的に限られていたので、十分に食べられなかったのは残念ですが、普段は朝は少ししか食べられないのに、こういう時は食欲旺... ...続きを見る

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2012/08/19 23:00
旅行記4 スイスアルプス旅行4 雲にかかったピッツ・ベルニナ・妖女ディアヴォレッツァの伝説
  写真の中心に写っているのは、ピッツ・ベルニナ(4049メートル)ですが、雲がかかってはっきり見えません。写真の左側はヴィラベスタの山であり、ここにも雲がかかっています。スイスの他の山でもそうですが、雲はどんどん流れていき、今まで見えていなかったものが見えたり、見えていたものに雲がかかってきたりと、変化に絶えませんが、ピッツベルニナあたりは、私たちがいる間、ずっと雲におおわれていました。もっとも、こういう景色が見えるだけでもよしとしなければなりません。   旅行に出る前、サンモリッツの天気予... ...続きを見る

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2012/08/18 17:11
旅行記3 スイスアルプス旅行3  2等席でディアヴォレッツァへ・展望台からの壮大な眺め 
 写真は一昨日の拙ブログで貼付できなかったものです(不具合は1日間だけのようです)。スイスのサンモリッツ駅の列車を中心にサンモリッツの町並みを撮りました。手前に写っているのがサンモリッツ湖の端の部分です。 旅行は2日目、8月3日であり、実質的な観光の初日です。サンモリッツ湖を少し見て時間をつぶした後、10時45分サンモリッツ駅発の列車に乗りました。車両は2等席であり、どこに座るかは、発車直前に添乗員が、この車両に乗ってくださいという指示が出るまでわかりません。このあたり、2等席の悲劇という... ...続きを見る

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2012/08/17 12:33
旅行記2 スイスアルプス旅行2 トイレ利用でまずスイスフランを使用・サンモリッツ湖でのハプニング
 画像貼付機能がおかしくなっており、写真が貼付できませんので、残念ですが、また公開します。  スイスでスイスフランをまず使ったのは、トイレ利用においてでした。サンモリッツへ行く途中、トイレ休憩のため立ち寄った、店の中にあるトイレでしたが、その使用料が1フラン(約80円)要り、そのトイレはコインを入れないと中に入れないシステムになっていました。  日本であらかじめ、スイスフランとユーロを両替していましたが、スイスへ行く機会が将来あるかどうかわからないのに対して、ユーロ圏は今後行く可能性が高いだ... ...続きを見る

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2012/08/15 14:26
旅行記1 スイスアルプス旅行1 サンモリッツに着くまで一日がかり・32年ぶりのスイス 
 写真はスイスのサンモリッツで二日続けて宿泊したホテルを撮ったものです。家を出てまずこのホテルに行き着くまで、まさに一日がかりでした。このホテルに着いたのが、現地時間の午後11時頃ですが、時差が7時間あるので、日本時間で言うと、翌3日の午前6時頃ということになります。むろん、到着したのは夜遅くですから、このホテルの写真を撮ったのは、翌3日です。五つ星ホテルですが、旅行中泊まった四つのホテルのうち、五つ星ホテルはここだけでした。  今回の旅行はツァーでしたが、自由行動が比較的多く含まれていた(... ...続きを見る

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2012/08/13 23:52

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