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みんなの「石田三成」ブログ

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旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔 
旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔  写真は人吉藩主だった相良家の菩提寺である願成寺にある石田三成ら六人の供養塔を7月30日に撮ったものです。八代城跡、球磨川を見た後、われわれは人吉に向かいました。  写真に向かって一番右側が三成、その左側が熊谷直盛・庄兵衛親子(三成の妹婿・甥) 、垣見一直、木村勝正・伝蔵親子の墓です。三成は周知のように関ヶ原で敗れ、京で処刑されますが、残りの5人は大垣城で相良氏・高橋氏・秋月氏によってだまし討ちにされています。熊谷らは三成らが関ヶ原に移動して敗れたあとも大垣城に籠って家康方と戦っていましたが... ...続きを見る

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2017/08/19 10:26
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川    
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川      写真は八代の球磨川を7月30日に撮ったものです。八代城跡を見た後、立ち寄りました。博多の商人の神屋宗湛が記した「宗湛日記」には、球磨川のほとりで三成に会ったという記述がありますが、この前後の宗湛の動向について、武野要子氏の「神屋宗湛」(西日本新聞社)には、次のように記されています。  天正15年4月「18日には秀吉の陣中見舞いのため、薩摩へ向けて出発している。宗湛は、同24日肥後八代の球磨川のほとりで石田三成に会い、三成から馬の飼料までもらい、27日卯ノ刻(午前6時)より三成のお供をし、薩州... ...続きを見る

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2017/08/18 18:59
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2  写真は八代城跡を7月30日に撮ったものです。この日は、熊本城、宇土城、八代城と道を南にとってきました。この後、球磨川、人吉の願成寺、青井阿蘇神社、人吉城歴史館、永国寺などを回りました。  秀吉は九州攻めの際、八代城に立ち寄っています(三成も秀吉に従って八代へ来ています)が、上記の八代城ではなく、相良氏が築いた八代城(古麓城)でした。ところが、その翌年、小西行長が肥後南半分を与えられた時、もっと西の球磨川河口に新たな八代城(麦島城)を築きました。  九州攻めの際、秀吉が八代に注目していたこと... ...続きを見る

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2017/08/17 10:51
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?  写真は宇土城跡の石垣であり、あちらこちらに残っています。宇土城自体は、低い丘陵地帯に築かれており、見て回るのに全く困難は覚えませんでした。  行長が宇土を本拠地にした理由について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のように記されています。  「肥前を主とする沿岸部諸大名と海上の統括・監督という任務と関係があり、有明海・八代海・天草という九州西海岸の重要な海上交通の把握に最適な場所だったからであろう。もちろんそれを意図したのが秀吉であろうことは言うまでもない」と。  鳥津氏の同書... ...続きを見る

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2017/08/16 10:43
旅行記99  石田三成の実像2001 九州の三成ゆかりの地巡り5 宇土城・行長と清正
旅行記99  石田三成の実像2001 九州の三成ゆかりの地巡り5 宇土城・行長と清正   写真は宇土城跡に建つ小西行長像を7月30日に撮ったものです。九州の三成ゆかりの地を巡る旅の2日目であり、熊本城の周りを回った後、次にレンタカーで向かったのが宇土城跡でした。 秀吉は九州攻めをして九州を平定した後の翌年の天正16年(1588)、肥後の北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に領有させました。その前に佐々成政が肥後の領主になりますが、領内に一揆が起こり、その責を問われて切腹させられます。  宇土城について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のようなことが記されていま... ...続きを見る

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2017/08/15 10:44
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?   写真は熊本市役所の14階から熊本城を7月30日に撮ったものです。ここから熊本城の全景が見られます。この日は九州の三成ゆかりの地巡りの旅の2日目でしたが、まず熊本城を見に行きました。熊本城は復興工事中で、中に入れなかったので、周囲をぐるりと回りましたが、櫓などの石垣があちらこちらで壊れていました。その被害の状況については、市役所の14階の廊下にパネル展示されていました。加藤神社は参拝できましたが。熊本城の一刻も早い復興を祈ります。  前夜(一日目)は熊本の中心街のホテルに泊まり、近くの店で馬... ...続きを見る

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2017/08/14 11:04
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い  写真は大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場碑を撮ったものです。戸次川(現、大野川)のそばに建っています。秀吉によって派遣された仙石秀久・長宗我部元親・信親親子、十河存保、尾藤知定ら豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津家久軍によって敗北したところです。秀吉自身が大軍を引き連れて九州攻めに向かうのは、翌年のことで、三成も付き従いました。  この碑の近くの小高いところに、この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓や供養塔が建っており、そこへも行きました。これらの写真はフェイスブックの方に... ...続きを見る

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2017/08/13 10:27
石田三成の実像1998  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」4
石田三成の実像1998  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」4   写真は観音寺の山門を6日に撮ったものです。この日は長浜駅から湖国バスに乗ってきましたが、バスの本数が少ないので、11時10分発のバスに乗りました。その後、2時間半近くバスの便はありませんでした。観音寺に最初に訪ねたのは、20年程前ですが、三成の生まれ故郷の石田町を見た後、バスに乗り、観音寺で降りましたが、帰る時にはバスがなく、タクシーも走っていず、観音坂トンネルを通って石田町まで歩きました。それから観音寺には何度となく訪ねていますが。  さて、観音寺本堂で行なわれた、中井俊一郎氏の講演「... ...続きを見る

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2017/08/12 10:42
石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3
石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3   写真は観音寺本坊の入口のところで売られていた三成関連本を6日に撮ったものです。向かって左側に並んでいるのは、オンライン三成会編「三成伝説 決定版」(サンライズ出版)です。その右側に中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(同出版社)も平積みにされています。太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」も松本匡代氏の「石田三成の青春」(同出版社)もありました。一番右側に並んでいたのは「長浜ものがたり大賞コレクション」ですが、この本の存在は知りませんでした。今度買って読んでみたいと思います。  さて... ...続きを見る

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2017/08/11 10:57
石田三成の実像1996 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」1
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていました。通説では「東軍は小早川秀秋の裏切りにより勝利。秀秋は躊躇したが、家康に鉄砲を撃ちかけられて攻撃を始めた」とされていますが、「秀秋の裏切りは開戦直後。鉄砲を撃ちかけられた事実もない」という白峰氏の見解が紹介されています。  この秀秋の裏切りが開戦直後という根拠について、記事では「石川康通と彦坂元正という家康方の武将が合戦の翌々日に書いた連署状には... ...続きを見る

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2017/08/10 16:02
石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成
石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成   写真は薩摩の出水(いずみ)城跡付近を7月31日に撮ったものです。出水城は秀吉の九州攻めの際、三成が博多の商人である神屋宗湛と茶会を行った場所です。今回の九州旅行のうち、出水の町めぐりについては後述します。 さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、唐入りに関しての、島津家と三成との関わりにも触れられています。細川幽斎と三成に充てた島津義久の書状の中で、「検地の実施や名護屋城普請の役負担に応じない出水の忠辰を、『御迷惑』と述懐している」ことが取り上げられています。  出水島津家... ...続きを見る

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2017/08/09 19:04
石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2
石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2   写真は米原の観音寺の本堂への参道を6日に撮ったものです。本堂は石段を上がった上にあります。道端に「三成道」の幟が建っています。「映画 関ヶ原に学ぶ 初志貫徹の美学」という副題が付いています。観音寺で行なわれた、「戦国無双」タクシーの出陣式も中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」も田附清子氏との対談も、そのイベントの一つです。  さて、中井氏の講演ですが、秀吉が忍城の水攻めに固執していたことを示すものとして、6月12日付の三成宛秀吉朱印状、6月20日付の三成宛秀吉朱印状... ...続きを見る

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2017/08/08 10:11
石田三成の実像1993 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」1
石田三成の実像1993 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」1  写真は昨日は米原の大原観音寺で、「三成会議」の企画の一環として行われた、「戦国無双」タクシーの出陣式の後の関係者、招待客の全体写真を撮ったものです。出陣式には、三成タクシーをはじめとする「戦国無双4」の武将キャラクターをラッピングした10台のタクシーが集まりました。 、その後歴史講座としてオンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」、中井氏と同じくオンライン三成会会員である田附清子氏との対談が観音寺の本堂で行われました。狭い本堂に百名程の人が集まり、暑... ...続きを見る

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2017/08/07 12:24
三成の実像1992 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」50
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月6日条には、次のような記載があります。  「大坂より軍兵が当所(醍醐)へ来た。陣取りをすることへの気遣い(懸念)がある」と。  「時慶記」の同日条には、次のように記載されています。   「大津城へ毛利輝元が人数(軍勢)を遣わして、城を受け取る予定である、とのこ... ...続きを見る

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2017/08/06 21:15
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2   写真は杵築城の中にある石塔や五輪塔、石仏などの石造群を撮ったものです。この地域にあったものをまとめてここに置いてあり、全部で170余基あり、市指定文化財になっています。  杵築城はもともと木付城という字を書きましたが、江戸時代、「3代藩主松平重休のときの将軍からの朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたことから杵築となった」ということが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。城の係員もそういう趣旨の説明をされていました。  したがって、秀吉の時代は木付城... ...続きを見る

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2017/08/05 11:57
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1  写真は杵築(木付)城を、一松邸がある南台から撮ったものです。杵築城が海に面していることがわかります。 われわれは杵築城を見た後、西にある「勘定場の坂」を上がって、北台に立ち並ぶ武家屋敷跡をめぐり、そこから「酢屋の坂」を南に下りました。下の谷には商家が並んでいました。坂のすぐ下にかつては「酢屋」がありましたが、今は「味噌屋」に代わっています。そこからさらに南に上る「塩屋の坂」を上がり、南台に出ました。この南台にも、かつては武家屋敷が並んでいました。「きつき城下町資料館」を見学し、上記の写真... ...続きを見る

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2017/08/04 11:39
三成の実像1989 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」49
 白峰旬氏から、8月6日(日)の朝日新聞朝刊の「文化の扉」欄において、関ヶ原のテーマが扱われ、その中で白峰氏のコメントが掲載されるというお知らせをいただきました。どのようなコメントが掲載されるのか、今から楽しみにしています。  さて、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月5日条には、大津城攻めについて、次... ...続きを見る

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2017/08/03 21:39
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性 
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性    昨日まで3泊4日でオンライン三成会の人2人と一緒に九州の三成ゆかりの地を巡る旅に行ってきました。フェイスブックでもその時の写真を一部載せています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大分空港で昼前に合流し、レンタカーを借りて、まず杵築(木付 きづき)城へ行きました。ここには石田三成の兄の正澄の兜が展示されています(上記の写真)。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、この兜の写真が掲載され、この兜につい... ...続きを見る

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2017/08/02 15:22
三成の実像1987 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」48
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月4日条には、大津城に関して次のような短い記載があります。  「大津城について雑説がある」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「この雑説とは、大津城の城主(京極高次)が敵側(家康側)になる、という内容のものと推測される」と。  大津城のこ... ...続きを見る

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2017/08/01 00:06
石田三成の実像1986  中野等氏「石田三成伝」59 三度目の奥州下向2 唐入り1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の三度目の奥州下向について、天正19年「10月6日に蒲生氏郷とともに米沢に到り、8日に三春(みはる)を経て10日には岩城平(いわきだいら)に到着して仕置を行っている」、「佐竹義宣書状から、三成は9月20日の段階では、10月10日頃には常陸の国境に達する予定だったが、若干遅れて常陸国内に入ったものと考えられる」と記されています。  三成が京に戻った時期は10月末以降であろうとの小林清治の推察も紹介されています。  秀吉が関白を辞し、代わって秀... ...続きを見る

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2017/07/31 18:32
石田三成の実像1985  中野等氏「石田三成伝」58 三度目の奥州下向・佐竹義宣書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が三度目の奥州下向をしていた時の、国許にいた和田昭為に宛てた佐竹義宣書状が取り上げられ、三成との親密な関係がうかがえる内容になっています。この頃、義宣は三成と行動を共にしていました。  書状の中で、まず「石田三成(治部少輔)殿が来月10日頃に、陸奥と常陸の国境付近に御出になられる。俵子(兵粮米)その他の準備を調えられたい。石田殿へは、去年金子50枚を用立てる約束をしていたが、まだ果たしていないので、それを今度済ますように仰った」と記されていま... ...続きを見る

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2017/07/30 17:37
石田三成の実像1984  中野等氏「石田三成伝」57 三度目の奥州下向1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正19年に「大名として10万石程度の領知を美国内に得つつ、近江国内の豊臣家蔵入地を支配する代官としての立場から佐和山城を預かっていた」と指摘されていますが、三成はそういう仕事に専念することもできず、奥州の争乱を鎮めるため3度目の奥州下向が命じられたことが記されています。  2度目の奥州下向から戻ってきたのが、2月中旬頃のことであり、それから4ヶ月程経った6月20日に秀吉が発した軍令に「相馬筋石田治部少輔被遣(つかわされ)候」と記... ...続きを見る

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2017/07/29 00:14
三成の実像1983 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」47
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、北政所が自分の居住する京都新城を破壊したという記事が、いくつかの日記の8月28日条から9月2日条にかけて記されていることを前述しました。その続きです。  「時慶記」の8月29日条には、次のような記載があります。  「南城(北政所がいる京都新城)の堀・石垣を壊す、とのことである。城(京... ...続きを見る

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2017/07/28 09:56
三成の実像1982 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」46
  白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、北政所が自分の居住する京都新城を破壊したという記事が、いくつかの日記の8月28日条から9月2日条にかけて記されています。  京都新城については、以前にも記したことがありますが、北政所が秀吉の死の翌年、大坂城西の丸から移り住んだところであり、御所の東南にあり、現在の仙洞御所の位置に当た... ...続きを見る

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2017/07/27 18:58
石田三成の実像1981  中野等氏「石田三成伝」56 「御前帳」「郡図」・秀吉が所望した脇差
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正19年(1591)5月3日付の宮部継潤宛の豊臣氏四奉行連署状が取り上げられ、次のように解説されています。  「三成らは、大名の領知内容を『御前帳』『郡図』に仕立てて呈上するように命じている。『御前帳』という名辞は、貴人の御前に呈上される帳簿という意味だが、実体はいわゆる『検地帳』に擬せられる。奉行衆は別紙として『御帳之調様一紙』を用意すると述べている。これはいわゆるマニュアルの類であり、『御前帳』は全国統一の基準で調整されたことがわかる  こ... ...続きを見る

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2017/07/26 10:02
三成の実像1980 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」44
  白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月27日条には、次のような記載があります。  「小早川秀秋への注進の話として聞いた分は、伊勢安濃津城は降参し、(城)主(富田信高)は高野山に住む(ことになった)。松坂城はそのまま詫言が済んだ。(よって、伊勢方面の毛利家の)軍勢は手明きになり、尾張方面(家康方の諸将)は手... ...続きを見る

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2017/07/25 10:19
石田三成の実像1979  中野等氏「石田三成伝」55 三成の帰京と利休事件
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が奥州再下向から戻った時期について、2月4日の「政宗の上洛と前後して、三成も帰京を果たしたのであろう」と推定されています。  伊達政宗は、旧大崎・葛西領での一揆を扇動したとの疑いがかかったため、政宗と対立した蒲生氏郷と共に、真相糾明のため、都に呼び戻されます。この糾明の件に三成が関わったかどうかは明らかでありませんが、三成の在京が確認されることとして、中野氏の同書で挙げられているのは、「時慶記」の2月15日条に、「石田治部少輔本門へ一礼アリ」... ...続きを見る

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2017/07/24 00:05
三成の実像1978 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」43
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月26日条には、次のような記載があります。  「佐和山城へ石田三成が帰陣して退却した、ということである。岐阜の城に雑説がある。鉄炮・玉薬(この『鐵放・玉藥』の記載は塗抹されている)(以下の文も塗抹されている)」と。  家康方に知られては都合の悪いことは、関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/07/23 09:47
三成の実像1977 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」42
 昨日は祇園祭の宵山に行ってきましたが、フェイスブックの方で、写真を掲載して、その報告をし始めています。 よかっから、覗いてみてください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem  さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日... ...続きを見る

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2017/07/22 10:42
石田三成の実像1976  中野等氏「石田三成伝」54 奥州仕置5 再下向
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州で一揆が勃発したことによって、三成が奥州へ再下向したことを示すものとして、「天正年中日々記」の天正18年12月26日条に次のような記載があることが挙げられています。  「島津義弘様御上洛。火急のこととて東国で一揆が勃発し、豊臣秀次殿・石田三成殿・増田長盛殿が出立されたことを聞かれ、御立ちになった。この日は大雪である」  悪天候の中、出立したことがうかかがえますが、前日の25日付の秀吉朱印状に、「三成は佐竹勢とともに『相馬口』の担当を命じられ... ...続きを見る

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2017/07/21 10:16
三成の実像1974 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」40
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、伊勢松坂城を攻めているということが記されていることは前述しました。  豊臣公儀方の伊勢方面軍の動きについて、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には、次のような記載があります。  「8月12日頃、ようやく秀元は伊勢方面へ出発し、15日には近江の土... ...続きを見る

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2017/07/19 10:03
三成の実像1973 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」39
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。伊勢松坂城を京衆(豊臣公儀の軍勢)として攻めている、ということである。(伊勢松坂城の)城主は古田重勝である」と。  豊臣公儀方の伊勢口方面軍の動きについては、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(N... ...続きを見る

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2017/07/18 10:16
三成の実像1972 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」38
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月21日条には、次のような記載があります。  「織田信雄は尾張国を本国として(秀頼から)返され遣わす、とのことである。中院通勝・富小路秀直・八条宮智仁親王の(侍臣)大石甚介が、丹後国の拵(和睦)のことについて、大坂(城)の前田玄以のところへ行った、ということである」... ...続きを見る

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2017/07/17 10:34
三成の実像1971 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」37
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の、秀吉の3回忌に当たる8月18日条には、次のような記載があります。  「豊国大明神の祭礼。豊国社の結縁灌頂を内々に執行するつもりであったが、天下は物騒なので、そのことはなく無念である」と。  ここでも「天下は物騒」という言い方がされており、特別な祭礼は行われなかった... ...続きを見る

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2017/07/16 10:04
三成の実像1970 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」36
 拙ブログでは、最近専ら、三成のことばかりを取り上げていますが、フェイスブックの方では、最近行ったところの写真も含めていろいろなことに触れてします(昨日は祇園祭の山鉾を見に行きました)ので、よろしければ、そちらの方もご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/07/15 10:58
石田三成の実像1969  中野等氏「石田三成伝」53 奥州仕置4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州仕置に関して、三成の家臣が発している「札」が取り上げられています。すなわち、天正18年(1590)9月15日付で増田長盛の奉行の永原平左衛門尉と山中藤太及び三成の奉行の滝本太郎左衛門尉が出したもので、この「札」について、中野氏は「『田中郷三ヶ村』に対する大山義景の支配を増田長盛と石田三成の奉行が認めたことを周知させるものと言え」、「こうした『札』発給の前提には、この地域の支配をめぐる紛争が想定され、増田長盛と三成の家臣がそこに裁定を下した」と解説... ...続きを見る

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2017/07/14 21:54
石田三成の実像1968 中野等氏「石田三成伝」52 奥州仕置3 岩城領検地2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、岩城領の検地の結果、9月29日付で三成が岩城家中に発した書状が、取り上げられています。その書状についての中野氏の解説は次の通りです。  「岩城領検地の結果、知行地として認められるのは、事前に給人が指出(さしだし)として申請した高(たか)に限られ、秀吉の指示としてそれを越える出自の分は、能化丸の蔵入地として処理される。ただし、今年は暫定措置として、給人は本知高の三分の一にあたる年貢米を蔵入分として差し出すべきとする。納める期限の十月を過ぎると、差し出... ...続きを見る

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2017/07/13 10:25
石田三成の実像1967 中野等氏「石田三成伝」51 奥州仕置3 岩城領検地1 岩城家への「覚」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年(1590)8月16日付で岩城家中の白土(しらど)摂津守・好雪斎岡本顕逸(良哲)に充てて、増田長盛と三成が発した「覚」が取り上げられています。  この「覚」について中野氏の解説は次のようなものです。  「三成と増田長盛は、岩城家執政の両名に充て、岩城家のとるべき基本政策を提示した。蔵入地と給人知行は、常隆時代のままとし、蔵入地の支配にあたる代官衆には、所務算用の適正・明瞭化を促している。三ヵ条目の規定は、能化丸が佐竹家の出身であることに... ...続きを見る

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2017/07/12 11:22
石田三成の実像1966 中野等氏「石田三成伝」50 奥州仕置2 石川義宗宛書状 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年の石川義宗(次郎)宛の長谷川秀一・石田三成連署状が取り上げられています。義宗は、「陸奥石川郡の領主石川昭光の子」です。この連署状は、「収納年貢の三分の二を差し押さえ」ることを伝えるもので、こういう指示を記した秀吉朱印状の写が添えられていることが、この連署状の記載からわかります。  また人質のことについても、この連署状には記されています。すなわち、「そなたが母親を人質として白川へ差し送られるとの事、尤もに思う」「「もう一度、浅野長吉(浅弾少... ...続きを見る

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2017/07/11 10:15
石田三成の実像1965 中野等氏「石田三成伝」49 奥州仕置1 御制札御判銭控 
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年8月日付欠の三成宛の「御制札御判銭控」が記された秀吉朱印状が取り上げられています。  この書状の内容について、中野氏の解説は次の通りです。  「秀吉の軍勢に恭順する村々は、その姿勢を明確にするため、秀吉方の発する制札・禁制を、応分の費用を負担して入手しなければならない。この『御制札御判銭控』は、いわばその料金を公定したものである。対象となる在所は、その村位によって上・中・下に等級分けされ、判銭の拠出を命じられる。秀吉みずからが三成に対... ...続きを見る

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2017/07/10 10:22
石田三成の実像1964 中野等氏「石田三成伝」48 岩城家の相続問題
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は忍城を天正18年(1590)7月16日に開城させた後、25日には宇都宮にいたことが指摘されています。すなわち、この日、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行なう者は罪科に処す旨の文書を手交する」と。秀吉が宇都宮に着いたのは、7月26日のことですから、三成は先に着いていたことになりますが、中野氏の同書では、「三成は、北上する秀吉の本隊に合流し」たと記されています。  岩城家の相続問題に関しても、三成が関わっていたことが中野氏の同書で述べ... ...続きを見る

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2017/07/09 11:18
三成の実像1963 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」34
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月14日条には、次のような記載があります。  「西洞院時慶に対して、前田玄以からは返書があったが、増田長盛からは取り紛れのため一報はない。西洞院時慶から安国寺恵瓊へ書状を遣わす」と。  ここでも恵瓊の名が出てきていますが、恵瓊はやはり「時慶記」に記載がある8月11日から... ...続きを見る

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2017/07/08 10:59
三成の実像1962 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」33
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月11日条には次のような記載があります。  「西洞院時慶から豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛へ祖神への祈念の祓礼を遣わした。西洞院時慶から前田玄以・安国寺恵瓊等へ書状を遣わした」と。  この記載について、白峰氏の解説は次の通りです。  「このことから8月11日の... ...続きを見る

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2017/07/07 11:01
三成の実像1961 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」32
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月10日条には次のような記載があります。  「大坂城の火事消除の祈祷のことを(秀頼から義演に対して)命じられ、施物として黄金10両を賜った」と。  「義演准后日記」の8月11日条には、引き続いて次のような記載があります。  「義演の大坂(城)の火災(消除)の祈祷... ...続きを見る

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2017/07/06 10:23
三成の実像1960 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」31
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の8月8日条には次のような記載があります。  「夜番を申し付けた。(その理由は)この度は世上が物騒なためである」と。  この時期、京、大坂の町の様子は落ち着いていましたが、豊臣公儀方の諸将は、それぞれの方面に出陣しようとしており、実際、同日付の「義演准后日記」には大聖寺城... ...続きを見る

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2017/07/05 10:09
三成の実像1959 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」30
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月7日条には次のような記載があります。  「豊臣秀頼の御所御祈りとして、大般若経の真読を来る(8月)10日より執行すべき旨の御使い(義演のところへ来た)。(これは)天下静謐、(秀頼の)御武運長久の(ための)御祈りである」と。  この記載についての、白峰氏の解説は次... ...続きを見る

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2017/07/04 10:02
三成の実像1958 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」29
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月5日条には次のような記載があります。  「毛利(家)内の安国寺恵瓊が尾張へ1000人ばかりで出陣した、ということである。(安国寺恵瓊は)当郷(醍醐)を通った。長束正家は伊勢口へ出陣した、ということである。石田三成は本城である佐和山(城)へ行った、ということである。... ...続きを見る

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2017/07/03 10:20
三成の実像1957 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」28
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月4日条には次のような記載があります。  「家康の上洛は、なかなかなし難い旨の風聞がある。近日、出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)は帰ってくる、ということである。伏見城の奉行である石田正澄・新庄直定は金銀を炭の中から掘り出している、ということである。或... ...続きを見る

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2017/07/02 10:11
三成の実像1596 美術探訪12 「海北友松展」14「月下渓流図屏風」 三成らへの思い
 「海北友松展」の「第十章 豊かな詩情ー友松画の到達点ー」に展示されていたのは、60年ぶりに里帰りしたアメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵している「月下渓流図屏風」でした。確かに、深みのある風趣に富む作品であり、友松がたどり着いた世界を感じることができました。  この絵について、図録には次のように要領よく記されています。  「淡い月明かりに照らされてシルエット風に浮かび上がる、もやに煙る渓谷。渓流の周囲には梅や椿、愛らしい土筆や蒲公英、菫などが見える。清楚な白い梅花からは、上品でほのか... ...続きを見る

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2017/07/01 10:29
三成の実像1955 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」27
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月3日条には次のような記載があります。  「義演が豊臣秀頼の御祈祷をおこなう。伏見城より落ちた者(落武者)を搦めて出すように(大坂の)奉行より申して来た。もし在々にいるのかどうか、寺領分に堅く仰せ触れた」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  ... ...続きを見る

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2017/06/30 10:31
三成の実像1954 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」26
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「中臣祐範記」には次のように記されています。  「昨日の一日に伏見城が落城した。伊賀の城を(留守居の家臣が)増田長盛に渡した。(伊賀の城の城主である)筒井定次は(上杉討伐のため)関東へ出陣していた。よ... ...続きを見る

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2017/06/29 18:05
石田三成の実像1953  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」3 地震で被害、改修
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」の続きです。  天正13年に起こった天正大地震の際、佐和山城も被害を受けたことについて、佐和山城が壊滅したとの記述が一次史料にあることにも触れられていました。地震の被害の後、佐和山城本丸を中心とした山上曲輪群の改修が開始されたという説明もありました。この改修について、実施したのは城主の堀尾吉晴ですが、その設計図を書いたのは田中吉政ではなかったかという、注目すべき推定が下高氏... ...続きを見る

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2017/06/28 10:16
石田三成の実像1952  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」2 八幡山城型
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、天正13年に築城された秀次の本城の八幡山城と支城である佐和山城と岡山水口城の構造の類似性に言及されてきました。このことは、以前の講演会でも指摘されていましたが、八幡山城は山の上に曲輪群があり、山麓の曲輪群と城道でつながっており、山の周りは、堀、土塁で囲まれ、北側には琵琶湖が広がっています。堀・土塁の南側に城下町があり、街道が通っています。水口岡山城は山の中なので琵琶湖... ...続きを見る

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2017/06/27 10:04
石田三成の実像1951 下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」1 天正13年城郭体制
 昨日は拙ブログの接続状況が悪く、更新ができませんでした。  さて、鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、レジュメに掲載されていた資料は、彦根城の開国記念館で開催中の「佐和山御普請・彦根御城廻御修復」で展示されていたもの、及びその図録に掲載されているものが使われていました。  22日には昼過ぎに彦根に入り、食事(駅前で「三成カツ丼」を食べました)してホテルに荷物を置いてから、幕末の井伊直弼が藩主になるま... ...続きを見る

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2017/06/26 10:18
三成の実像1950 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」25
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されています。  「左大史孝亮記」には、次のように記されています。  「伏見(城)本丸が落居(落城)し、大将の鳥居元忠一人が(伏見城の)本丸において切腹した。家々は滅亡し、手負い・死人等は数知れず(限りなく多い)。洛中の遊民は見物... ...続きを見る

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2017/06/24 10:43
三成の実像1949 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」24
 彦根に一泊し、鳥居本公民館での、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」に参加してきました。下高氏には昨年12月、連続講座「近江の城郭」の一環として佐和山城跡・城下町跡を案内していただきました。今回の講座の内容はその時のものと重なる部分もありますが、新たな知見もいろいろと得られました。内容については、拙ブログ記事で改めて紹介したいと思います。    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学... ...続きを見る

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2017/06/23 21:35
三成の実像1948 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」23
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「言経卿記」には、「伏見城が落城した。寄手勢3000人程が負傷した。(伏見城は)すべて焼けた。(こうしたことは)言語道断であり、説明できない、ということである」と記されています。  この記載についての、白峰氏の... ...続きを見る

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2017/06/22 10:41
三成の実像1947 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」22
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されています。  「舜旧記」には、「伏見城が落ちる。籠城した鳥居元忠が自害した。そのほかの軍兵も討死した。城はすべて焼けた」と記されています。  「城はすべて焼けた」という点が注目されます。この記載が事実とすれば、城が全焼したことになります... ...続きを見る

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2017/06/21 09:59
三成の実像1946 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」21
 15日に「星野リゾート ロテルド比叡」に一泊し、翌日、延暦寺の東塔エリア、西堂エリアを回り、ケーブルで坂本に出て、町中を少し散策してきましたが、その記事は写真入りでフェイスブックの方で順次紹介しています。興味のある方はご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/20 10:22
三成の実像1945 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」20
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月29日条には、「大坂へ制札を取りに遣わした」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「昨日の騒動で小早川秀秋の制札(本稿の7月25日の項を参照)が役に立たなかったため。大坂(7月晦日条を見ると、三奉行の制札があることがわかる)... ...続きを見る

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2017/06/19 10:23
三成の実像1944 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」19
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「義演准后日記」の7月27日条には、「伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める、ということである」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「『伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める』ということは... ...続きを見る

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2017/06/18 09:49
美術探訪11 石田三成の実像1943 「海北友松展」13 最晩年期の押絵 三成に縁ある僧の賛
 「海北友松展」の「第九章 墨技を楽しむー最晩年期の押絵制作ー」には、押絵のうち賛が施されたものが展示されていましたが、押絵とは図録には「屏風の一扇ごとに絵を押す(貼る)ところから、このように呼ばれるもの」と記されています。  その中でも興味を惹かれたのは、「人物・花鳥図押絵貼屏風」で、十二図のうち半分が大徳寺の僧が賛を施しています。6人のうち沢庵宗彭、江月宗玩は三成と関わり合いが深かった人物です。沢庵も江月も、慶長4年、奉行を引退した三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建立した時、佐和... ...続きを見る

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2017/06/17 10:22
石田三成の実像1941「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」2 
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、前述したように、 「舜旧記」には、秀吉の月命日である7月18日に毛利輝元の妻が豊国社に参詣していると記されているものの、北政所は豊国社に参詣しておらず、北政所はどちらかに荷担していると思われないように参詣を取りやめたのではないかと推測されていました。しかし、7月23日に宇喜多秀家が、8月2日に毛利輝元が豊国社に参詣した時には、北政所も参詣や祈祷をしており、北政所が奉行衆・毛利方の豊臣公儀... ...続きを見る

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2017/06/15 10:37
石田三成の実像1940「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」1 おねは中立?
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、北政所は中立的な立場に立っており、秀吉政権のわが子同然の家臣同士の戦い(福島正則も加藤清正も石田三成も若い時から可愛がっていました)に心を痛めていたという捉え方がされていました。これは、従来、北政所が家康寄り、東軍寄りだったという見方がされており(司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」【新潮文庫】でもそういう描き方でした)、そういう見方からすれば、一歩踏み出した描き方がされており、その点は評価でき... ...続きを見る

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2017/06/14 10:21
三成の実像1940 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」17
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、小早川秀秋のことについて、「北野社家日記」の7月23日条、24日条、「義演准后日記」の7月25日条に記されています。  「北野社家日記」の7月23日条は以前にも紹介しましたが、24日条も、「北政所が小早川秀秋の祈念のために御千度のことを命じ、200疋を下されたので申し付ける(北野天満宮... ...続きを見る

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2017/06/13 10:09
三成の実像1939 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」16
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月24日条には、伏見城攻めのことだけでなく、大津城のことも記載されており、興味深い内容です。  すなわち、「大津城は宇喜多秀家に渡す、ということである。ただし、(この話については)真実かどうか知らない。毛利(輝元)が瀬田橋に城を用意した、ということである。伏見城は堅... ...続きを見る

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2017/06/12 10:11
石田三成の実像1938 中野等氏「石田三成伝」47 忍城攻め後 
8日に、京都コンサートホールでのギタリスト松尾俊介氏の演奏会を聴きに行き、充実した贅沢な時間を味わいましたが、フェイスブックでこのことについて少し触れています。    https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/11 11:29
三成の実像1937 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」15
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「時慶記」の7月23日条には、西洞院時慶が大坂城で石田正澄等の軍勢が多かったという記載がありました。ここに三成の名がないということは、三成が大坂城に来ていなかった傍証の1つになるのではないでしょうか。三成が挙兵後、大坂城に初めて入ったのは、伏見城の督戦に来た後の7月30日... ...続きを見る

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2017/06/10 10:57
三成の実像1936 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」14
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の7月23日条には、引き続いて、伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「今夜、伏見で大鉄炮(『大てつはう』)がことのほか鳴る」と記されています。  この記載について、白峰氏の解説には、「鉄炮の音と大鉄炮の音の違いを聞き分けることができたということか?」と... ...続きを見る

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2017/06/09 10:20
三成の実像1935 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」13
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の7月23日条に宇喜多秀家が「豊国社へ参詣した」という記載があります。  宇喜多秀家はすでに同日記の7月5日条にも「豊国社に参詣した」と記されていますが、この記載について、白峰氏は次のように解説されています。  「7月5日の時点で宇喜多秀家は上方にいたことになる」  「こ... ...続きを見る

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2017/06/08 16:36
石田三成の実像1934 中野等氏「石田三成伝」46 北条攻め10 忍城攻め3 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めについて、「忍の攻城戦は、秀吉軍の圧倒的な物量作戦・組織力を見せつけるためのデモンストレーションであったと見るべきであろう」と記されています。  こういう見解も、中井俊一郎氏によってすでに唱えられており、その点も中野氏の同書で、一言言及があってしかるべきではないでしょうか。中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、次のように指摘されています。  忍城の水攻めについて、「多額のコストと労力を必要とするものであ」り、秀吉が水攻めに... ...続きを見る

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2017/06/07 10:18
石田三成の実像1933 中野等氏「石田三成伝」45 北条攻め9 忍城攻め2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めは三成の発案ではなく、秀吉の指示によるものだったという見解が示されていますが、それについて中井俊一郎氏の先行研究があるにもかかわらず、そのことについての言及がないことを拙ブログ記事で前述しました。中野氏の同書の参考文献として、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)も挙げられているのですから、中井氏の先行研究があることには触れるべきだと思います。中野氏の同書で他の学者の先行研究についてはたびたび言及されているのですから、なおさら... ...続きを見る

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2017/06/06 10:08
石田三成の実像1932 中野等氏「石田三成伝」44 北条攻め8 忍城攻め1 
 昨日、甲子園に阪神・日本ハムの交流戦観戦に行ってきましたが、その記事はフェイスブックで写真入りで掲載しています。   https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/05 10:13
石田三成の実像1931 中野等氏「石田三成伝」43 北条攻め7 館林城攻め
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動について具体的に述べられいますが、最初は秀吉に近侍していたものの、5月下旬に秀吉に命じられて、館林城ついで、忍城攻めに向かいます。  三成は館林城を開城させますが、10数年前、オンライン三成会の人々と共に館林城跡を訪ねたことがあります。今は土橋門が再現されているだけですが、かつて三成が攻めたところだと思うと感慨深いものがありました。むろん、この時には忍城跡や三成が本陣が置いた丸墓山古墳なども訪ねました。  三成の館林... ...続きを見る

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2017/06/04 11:01
三成の実像1930 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」12
昨日、本能寺で行われた「信長公忌」の最後の方に参拝してきましたが、その報告はフェイスブックで少ししています。本能寺の変によって、秀吉同様、三成の人生も大きく変わったと云えます。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/03 11:26
美術探訪10 「海北友松展」12 画龍の名手・朴大根書状 龍図が朝鮮側に
 「海北友松展」の「画龍の名手・友松ー海を渡った名声ー」では、北野天満宮・霊洞院・勧修寺などの「雲龍図」が展示されていましたが、それぞれ微妙に違いがあるものの、いずれもすさまじい気迫に満ちています。  また海北家に伝わる、慶長13年2月に記された「朴大根(パクテグン)書状(写)も展示されていましたが、図録には「『海北友松夫妻像』に付随する形で海北家に伝来した」書状であり、「友松の画名が朝鮮にまで及んでいたことをうかがわせる史料として伝わる」と記されています。  その書状の内容は「昔、素晴らし... ...続きを見る

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2017/06/02 10:14
三成の実像1929 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」11
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月22日条にも、各日記に伏見城攻めのことが記されています。  「言経卿記」の記載は、次のようなものです。  「伏見城へ夜毎(毎晩)夜毎(毎晩)だけ鉄炮を撃つ。宇喜多秀家の人数(軍勢)が伏見(城攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了し、晩より鉄炮を撃った。世上の雑説により大津から8... ...続きを見る

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2017/06/01 10:26
三成の実像1928 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」10
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月21日条には、各日記に伏見城攻めのことが記載されています。  「北野社家日記」には、「明日、北野惣中は一人も残らず出て垣以下をするように申し付ける。乱世であるので、用心のためである」「伏見は一段と乱世なので、人斬りがある、とのことである」と記され、白峰氏は「『乱世』という認識に注意す... ...続きを見る

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2017/05/31 10:13
三成の実像1927 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」9
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月20日条には、日記各書には伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「伏見に夜前・今日、鉄炮(の音)が鳴る」、「左大史孝亮記」には、「今日、伏見(城)松の丸あたりで火事があった」と記され、また「義演准后日記」には次のように記載されています。  「伏見城へ秀頼様の... ...続きを見る

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2017/05/30 10:31
受贈御礼 白峰旬氏「いわゆる小山評定についての諸問題」をはじめとする御論考
 白峰旬氏から新たなご論考をいくつか賜りました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。ご恵贈いただいたのは、次のご論考です。  「いわゆる小山評定についての諸問題ー本多隆成氏抜刷の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示ー」(2017年発行『別府大学大学院紀要』第19号 抜刷)  「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察(その一)」(2017年発行『別府大学紀要』第58号 抜刷)抜刷  「慶長5年9月13日の大津城攻めに... ...続きを見る

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2017/05/28 14:50
三成の実像1926 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」8
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月19日条に、「家康より奉行(衆)より(出した)十三ヶ條(=『内府ちかひの条々』)が流布し、(義演もそれを)一見した」と記されています。  この記述についての白峰氏の解説は次のとおりです。  「大名ではない義演が7月19日(『内府ちかひの条々』が出された翌々日)の... ...続きを見る

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2017/05/27 21:18
美術探訪8 「海北友松展」10 「八条宮智仁親王との出会い」 金碧屏風
 「海北友松展」の「第六章 八条宮智仁親王との出会いー大和絵金碧屏風を描くー」の会場に入ると、それまでの水墨画中心のモノトーンがちの世界とは、全く違った金色がまぶしいほどの華麗な世界が広がっていました。  展示されていた「浜松図屏風」と「網干(あぼし)図屏風」は、八条宮の依頼によって制作されたものですが、友松と八条宮との出会いについて、図録には次のように記されています。  「慶長7年(1602)、友松は細川幽斎や公家の中院通勝の推挙によって、八条宮智仁親王(後陽成天皇の実弟で桂離宮の創設者)... ...続きを見る

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2017/05/26 10:32
三成の実像1925 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の7月18日条には、細川ガラシャの自害についての記載があり、それは大坂へ後陽成天皇からの勅使として遣わされた広橋兼勝によって京都へもたらされたものであると記されていることを拙ブログ記事で前述しましたが、広橋については、「お湯殿日記」の7月18日条にも出て来ます。  すなわち、... ...続きを見る

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2017/05/25 10:52
三成の実像1924 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の7月18日条に、細川ガラシャの自害のことが記されています。  すなわち、「世上の騒動は普通ではない。大坂にて細川忠興の女房衆(細川ガラシャ)が自害した。同じく息子12才、同じく妹6才等は母が切り殺させて殺したということである。(そして)私宅に火を掛けた。小笠原(秀清)・荒... ...続きを見る

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2017/05/23 10:29
美術探訪6 「海北友松展」8 「建仁寺大方丈障壁画」3「変わりゆく画風」1 友を失った影響
 「海北友松展」は昨日で終わりましたが、しばらくその報告は続けます。「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、[竹林七賢図」が展示されていました。  「竹林七賢図」とは、「中国・三国時代の末期、竹林に入って清談に耽った七人の賢者たちの姿があらわされている」と図録には解説されています。竹林の七賢については、高校の世界史でも漢文の授業でも出て来ます。  嵯峨美大で行なわれた講演会「海北友松の絵画を解析する」では、 「竹林七賢図」は、一筆描きのようで力強い描き方がされており、これは中国の... ...続きを見る

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2017/05/22 10:57
三成の実像1923 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」6
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月18日条の次のような記載を一昨日付の拙ブログ記事を紹介しました。  すなわち、「前田玄以(前田玄以の名前の部分は塗抹されている)・増田長盛・長束正家の3人が家康へ(ここには塗抹された部分がある)條数(=『内府ちかひの条々』)にして江戸へ遣わした、ということである。... ...続きを見る

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2017/05/21 10:32
三成の実像1922 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」5
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  「義演准后日記」の7月18日条に、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。昨日(7月17日)の夕方、大坂城西ノ丸へ毛利秀元が(秀頼様の)御守護のために入った、ということである。この中(丸ヵ)は家康の住宅の丸である」と。  この記載について白峰氏... ...続きを見る

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2017/05/19 11:19
石田三成の実像1921 美術探訪4 「海北友松展」6 「建仁寺大方丈障壁画」1 恵瓊の功績
「海北友松展」の「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、建仁寺大方丈に描かれた「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」などが展示されていました。  方丈の復興の経緯については、図録に次のように記されています。  「天文21年(1552)建仁寺の方丈は兵火によって灰燼に帰したが、それが再興されたのは慶長4年(1599)のことであった。東福寺の瑶甫恵瓊【ようほえけい】(安国寺恵瓊)の尽力によって安芸・安国寺の建物が移築され、寺の『顔』ともいうべき方丈がおよそ半世紀ぶりに姿を現したのである... ...続きを見る

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2017/05/18 10:14
美術探訪3 「海北友松」展5 「飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」 60歳過ぎて頭角
 「海北友松」展の「第三章 飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」では、建仁寺の塔頭である大中院、霊洞院、禅居庵に描かれた絵が展示されていましたが、友松と建仁寺との関係について、図録には次のように記されています。  「60歳を過ぎた文禄・慶長の初め頃から、友松は頭角を現わし始める。その活躍の舞台となったのが、祇園にほど近い名刹、建仁寺であった。  当時、建仁寺には友松の支援者であった細川幽斎の甥にあたる英甫永雄(えいほようゆう)がおり、入寺した天正14(1586)から示寂する慶長7年(1602... ...続きを見る

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2017/05/17 10:25
石田三成の実像1920 「海北友松」展4 「歴代年譜景勝公」 秀吉が友松の絵を下賜
「海北友松」展の第二章「交流の軌跡」に、「歴代年譜景勝公」が展示されていましたが、図録の解説によれば、「文禄3年(1594)10月28日、景勝が秀吉を聚楽城下の自邸に招待したときの様子を克明に伝えた」ところが示されていました。  図録には、それに続けて次のように記されています。  「10月3日、増田長盛や石田三成を通じて秀吉の御成を取り付け、翌日には大坂で秀吉に謝辞を述べたことが同3日の記事がわかる。御成の当日は、唐絵の掛幅や池坊による立花三瓶などで飾り立てた座敷に秀吉を迎え、膨大な数量の品... ...続きを見る

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2017/05/16 10:20
石田三成の実像1919 「海北友松」展3「兼如筑紫道中記」2 是斎重鑑は猪苗代兼如
「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」で展示されていた「兼如筑紫道中記」には、石 三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されていますが、その作者について、図録の解説では、次のように解説されています。  三成の九州下向に「友松が同行したことは、『続々群書類従』所収の紀行文『九州下向記』や『阿保文書』所収の同『是斎重鑑覚書』(内容は同じ。末尾に是斎重鑑の署名がある)によって既に紹介されている有名な事績である。だが、その著者であり、三成や友松と旅をした是斎重鑑がいかなる素... ...続きを見る

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2017/05/15 10:27
石田三成の実像1918 「海北友松」展2 「兼如筑紫道中記」1 政務の一方風雅な旅
  「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」では、友松の長男である友雪が描いた「海北友松夫妻像」や、友松の出自などを記した、孫である友竹の手になる「海北家由緒記」、友松との交流を語る史料などが展示されていましたが、一番興味が惹かれたのは、「兼如筑紫道中記」です。石田三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されている、初公開のもの(このことについては後述します)であり、図録の解説では、次のように記述されています。  「慶長3年(1598)夏、石田三成は秀吉の命を受け、小早川秀... ...続きを見る

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2017/05/14 11:04
石田三成の実像1917 中野等氏「石田三成伝」42 北条攻め6 嶋左近の役割
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動が書状などを通じて明らかにされていますが、5月25日付の東義久宛の三成書状の最後に、「嶋清興」の名が出て来ます。  すなわち、「なお、使者の嶋清興(左近)に詳細は申し含めているので、懇ろな手紙は控えます」と。  嶋左近については、中野氏によって次のような解説が加えられています。  「この頃にはすでに三成に属していたことが分かる。こののち、嶋清興は東義久(佐竹中務大輔)や小貫氏を充所として書状を発しており、『指出(さ... ...続きを見る

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2017/05/13 10:57
美術探訪2 「海北友松」展1・講演会「海北友松の絵画を解析する」2 菊慈童図・柏に猿図
 昨日、国立京都博物館で開催中の「海北友松」展を見に行ってきました。かなりの混雑ぶりで入館するまで20分程待ちましたが、作品や関連史料を時代別、テーマ別に展示することによって、友松の人生や作風の変遷などがわかるように配慮されていました。  先週の土曜日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」が行われ、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するというもので、絵画をスクリーンに写しながら解説されていましたが、「海北友松」... ...続きを見る

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2017/05/12 14:44
三成の実像1916 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」4
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  7月18日付の「北野社家日記」には「伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた今夜、家康の衆が伏見の城に籠り、伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた。今日、地震があった」と記されています。  この記述について、中野氏によって次のような説明が加えられて... ...続きを見る

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2017/05/11 18:14
美術探訪1 講演会「海北友松の絵画を解析する」1 無限定空間表現・幽遠法
5月6日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」を聴きに行ってきました。地下鉄で太秦天神川駅へ出、嵐電に乗り換え、車折神社駅から歩きました。歩いて10分足らずでした。  講演会はユニークなもので、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するもので、新たな知見がいろいろと得られ、大いに勉強になりました。  友松は石田三成と関わりが深い絵師です。三成が筑前の直轄領の代官として九州に行った時に友松も同行していますし、同... ...続きを見る

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2017/05/09 11:43
三成の実像1914 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」3
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていることを拙ブログ記事で前述しました。  7月17日は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された日ですが、その日付で書かれている日記の記述でいろいろ注目すべきものがあります。  「北野社家日記」には、「京、伏見でこのほか騒ぐ」と記されています。  この記述について、白峰氏は「家康家臣が伏... ...続きを見る

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2017/05/08 09:48
石田三成の実像1913 中野等氏「石田三成伝」40 北条攻め4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際の三成の動向について触れられていますが、天正18年(1590)2月28日に島津久保らとともに京を発ち、「4月3日に小田原付近に到着」しています。  一方の秀吉は、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)によれば、「3月1日京都発」、「(4月)3日小田原着」と記されていますから、三成は秀吉に先立って出発したことになります。  この後の三成の居所と行動ですが、中野氏... ...続きを見る

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2017/05/07 11:07
三成の実像1912 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」2
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられていることは拙ブログ記事で前述しましたが、考察すべき記載がいろいろとあります。  慶長5年7月13日、「時慶記」に次のような記述があります。  「昨夜より伏見・大坂において風評・騒動(がある)と(いうので)これを尋ねるつもりである。(上杉討伐のために出陣した)陣立の衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのことであり、(このこ... ...続きを見る

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2017/05/06 10:22
石田三成の実像1911 中野等氏「石田三成伝」39 北条攻め3
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めに関して、天正17年12月26日付の直江兼続・木戸寿三(元斎)充ての佐竹義宣書状が取り上げられています。その中で、三成のことも出てくるのですが、その書状について次のように解説されています。  「内容は、上杉景勝の上洛を祝し、上杉勢の伊達領(会津)侵攻を懇望する、というものだが、それに関連して蘆名義広の身上復活に降れている。蘆名家の復活自体は、もちろん秀吉自身の意向を前提とするものであり、秀吉は大関晴増(土佐守)を使者として、そうした意向を伝... ...続きを見る

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2017/05/05 10:27
三成の実像1910 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」1 
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられ、30ページに及ぶ表として掲載されています。労作であり、「在京公家・僧侶などの日記」において関ヶ原の戦い前後のことがどのように記載されているのか、月日を追ってたどれるようになっています。時期は関ヶ原の戦いの半年前の慶長5年3月16日から、関ヶ原の戦いが終わって約3ヶ月後の同年12月24日にわたっています。  この「時系列ベー... ...続きを見る

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2017/05/04 10:57
石田三成の実像1909 中野等氏「石田三成伝」38 北条攻め2 いろいろな任務で多忙を極める
 当方のフェイスブックのアドレスです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/05/02 10:42
お知らせ 石田三成の実像1908 中野等氏「石田三成伝」37 北条攻め1 名胡桃城事件
 昨日もお知らせしましたが、最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方はご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/04/30 10:44
お知らせ 石田三成の実像1907 中野等氏「石田三成伝」36 天正19年までの所領
 最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方はご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は「九州平定から関東派兵までの間に、7〜8万石程度の領地を得ていたと考えるのが自然であろう」、「二十代の後半で大名としての身分を獲得した」と指摘されています。その根拠と... ...続きを見る

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2017/04/29 11:14
 三成の実像1906 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」8
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、まとめとして、「諸大名の具体的な軍役人数(兵力数)について、日本側の史料以外からわかるのは貴重であり、今後は日本側の史料との比較検討を通して、その信憑性の有無を検討していく必要があろう」と記されています。  「十六・七世紀イエズス会日本報告集」において軍役人数がこれだけ記載されていることに、白峰氏の同論考を拝見して改めて驚きましたが、確かに外国側の史料だから... ...続きを見る

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2017/04/28 10:21
三成の実像1904 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」6
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  白峰氏の同論考では、「反家康としての石田三成・毛利輝元方の総動員数については、『多数の諸侯はただちに軍兵を率いて大坂の政庁(引用者注 大坂城)に集結した。その数はわずかの間に十万を超えた。』(Tー3、248頁)と記されていて、反家康方の軍事動員が成功して10万を超... ...続きを見る

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2017/04/26 15:44
石田三成の実像1903 中野等氏「石田三成伝」35  検地に関与2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)のものと推定される10月16日付の江州伊香郡富長庄の百姓に充てた三成・増田長盛連署状が取り上げられています。これは「裁許状」であり、その最初に「富永郷の給人の年貢の納め様について、あってはならないもめ事があって混乱が生じている旨、御訴訟があったので、以前からの御法度の要諦を田中吉政(兵部大輔)方へも先度申し遣わしている」と記されています。  このことに関して、中野氏の同書には、「訴えがあった近江国伊香郡富長庄は当時秀次領であ... ...続きを見る

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2017/04/24 16:31
石田三成の実像1902 中野等氏「石田三成伝」34  検地に関与1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正17年(1589)10月1日付で秀吉が三成と大谷吉継に充てた「検地御掟条々」が取り上げられ、「美濃国での検地実施に関わるものだ」と推定されています。  その根拠として、「この年には山城国と美濃国での検地の実施が確認されるが、秀吉は美濃国検地を想定して同じ日付で同内容の『条々』を片桐貞隆(主膳正)と石田正澄(木工頭)にも充てている」点が挙げられています。  この「条々」の内容について、中野氏の同書には、「300歩(すなわち1反)を基準面積としつつ... ...続きを見る

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2017/04/23 11:07
三成の実像1901 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  関ヶ原の戦いの直前における毛利秀元の兵力数について、「彼らは(引用者注 毛利秀元の軍勢)はそこでおよそ一万二千人くらいが城塞(引用者注 松尾山城ヵ)を修復し、出陣の準備をしていたと「イエズス会日本報告集」に記されており、「石田三成の人数書き立てにおいて、毛利秀就(... ...続きを見る

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2017/04/22 10:36
三成の実像1900 中野氏「石田三成伝」33 伊達政宗の会津蘆名領侵攻5 齋藤氏「戦国時代の終焉」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年の伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家家臣の金上兼実に書状を送るなど、対応に追われていることが記されています。政宗は秀吉に使者を送りながらも、攻勢はやめませんでしたが、その背景として、政宗は「その後も佐竹氏を共通の敵とする小田原北条氏との紐帯は強まる傾向にあった」と中野氏の同書に記されています。政宗は北条氏との結びつきを強め、北条氏の存在を頼りにして、奥羽での攻勢を強めたものと思われます。しかし、秀吉がこの後、北条攻めを決定し、そ... ...続きを見る

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2017/04/21 10:41
石田三成の実像1899  中野等氏「石田三成伝」32 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家のために尽力してきたことが記されていますが、結局、これは実を結びませんでした。  そのことについて、その経緯も含めて、中野氏の同書には次のように記されています。  「政宗は恭順を装いつつ、三成らに支持され越後国内の津川城に拠っていた金上盛実を9月中に降し、攻勢を続けることになる。蘆名家重臣金上盛実が一転して政宗に降伏し、伊達家に服従するという事態に至ったことで、これまで盛実を支持してきた上杉景勝や三成... ...続きを見る

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2017/04/20 09:15
白峰旬氏「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5 朝鮮出兵3
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、小西行長は1万5000人の兵力数と記されているのに対して、「3月13日付の『陣立書』の軍団構成」(中野等氏『文禄・慶長の役』【吉川弘文館】所収)には、7000人とあって、数字に大きな違いがあります。  この点に関して、白峰氏の同論考では、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」の記載をもとに、「小西行長が先陣であったため」、九州の部将の中では「... ...続きを見る

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2017/04/19 09:37
石田三成の実像1898  中野等氏「石田三成伝」31 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して3
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。 中野氏の同論考では、7月26日付の蘆名義広の家臣である金上盛実宛の三成書状が取り上げられています。その書状の冒頭に「去る6日付の書状が、本日26日に到着しました」とあり、盛実書状の返書であることがわかります。さらに「このたびのお父上の討ち死は、まったく思いがけないことで、(その無念さは)手紙に書ききれません。とはいえ... ...続きを見る

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2017/04/18 10:41
石田三成の実像1897 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」4
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられています。  まず慶長4年、家康が秀吉の遺命を無視して諸大名と婚姻関係を結んだ時に、三成たち四大老五奉行が使者を派遣して家康を詰問した時に、家康は「己が諸国から三万の軍勢を召集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた」という「イエズス会報告集」の記載について、白峰氏の同... ...続きを見る

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2017/04/17 10:18
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」3 朝鮮出兵2
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「諸侯四名を新王国の主君にすることを望」み、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられていると昨日付の拙ブログ記事で取り上げました。これに関して、今福匡氏の「真田より活躍した男 毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、秀吉が天正20年(1592)5月13日付、次いで6月3日付で、長政と吉成に対して書状... ...続きを見る

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2017/04/15 21:28
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」2 朝鮮出兵1
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「(引用者注 秀吉)は非常に信頼を厚くしていた諸侯四名を指名し」、「彼らを新王国(引用者注 中国大陸における新しい征服地を指すと考えられる)の主君にすることを望んだので、皆の者は大いに驚いた」という記載があり、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられています。  この史料には、清正は行長の... ...続きを見る

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2017/04/14 10:45
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」1 朝鮮出兵以前
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、天正9年の織田信長の時代から、秀吉の時代(天正13年から18年の関白就任以後から朝鮮出兵より前の時代、天正19、20年の朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い、石垣原合戦に分けて、軍役人数がどのように記載されているのか記され、それに対する考察が加えられています。  信長の時代は「天正9年の事例が出てくるのみであるが、信長や柴田勝家のほかに武田信玄(引用者注 武田勝頼が正し... ...続きを見る

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2017/04/13 10:09
石田三成の実像1894  中野等氏「石田三成伝」29 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して1
 昨夜の関西テレビの「ちゃちゃ入れマンデー」の中で、滋賀県が一押しする戦国武将として石田三成が取り上げられ、三成のCMも流されていました。もっとも、滋賀県では三成のことはあまり知られていないとして、数人の街頭インタビューも流されていましたが、確かに知名度は地元ではそれほど高くないのかもしれませんが、編集に意図的なものを感じました。この番組は出演者が言いたいことを言い合う場面が好きで、毎回見ているのですが。  さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達... ...続きを見る

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2017/04/12 11:05
石田三成の実像1893  中野等氏「石田三成伝」28 蘆名家の奏者
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が蘆名(あしな)家・佐竹家の奏者として活躍していることも取り上げられています。  それに関して、天正17年(1589)3月24日付の蘆名家宿老の富田氏実宛の三成書状が掲載されていますが、その内容について、「金上盛備(かながみもりはる)の上洛をうけ、三成は蘆名義広(佐竹義重次男、義宣弟)自身がすみやかに上洛する様に求めている」と記されています。  中野氏の同書では、金上盛備は蘆名義広の家臣であり、天正16年末に「上洛し、秀吉に誼を通じ」、「会... ...続きを見る

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2017/04/11 11:47
石田三成の実像1892  中野等氏「石田三成伝」27 出羽庄内の問題に関わる
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が出羽庄内の問題に関わったことについても記されています。  まず出羽庄内の情勢ですが、「武藤(大宝寺)家の弱体化にともない、山形の最上氏へ依存しようとする勢力と、本庄繁長(越前守)を通じて越後の上杉景勝に接近する勢力との対立が深まっていた。天正15年(1587)の年末に武藤(大宝寺)義興が没すると、その跡に、本庄繁長がみずからの実子千勝丸(のちの義勝)を入れたため、これを不服とする親最上勢力が挙兵する。翌16年9月、本庄繁長はこの鎮圧を成功... ...続きを見る

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2017/04/10 10:07
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」20 掃部の戦いの状況
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、3月27日付の拙ブログ記事の続きです。  その史料によると、明石掃部は敵... ...続きを見る

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2017/04/09 11:10
石田三成の実像1890  中野等氏「石田三成伝」25 三成の島津家指南4
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正17年1月21日付の島津義久宛の細川幽斎・三成連署状が取り上げられていますが、「2日遅れの日付で、ほぼ同内容の指示が、義弘から国許の伊地知重秀(伯耆入道)に伝えられている」ことも記されています。  この書状について、次のような解説がされています。  「書き留めに『此旨可預御披露(このむねごひろうにあずかるべく)候、恐々謹言』とあるように、あくまで義久への披露状である。島津家中を政権の思惑に従わせる上で、義久の意向は絶対的であ... ...続きを見る

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2017/04/07 10:37
石田三成の実像1889  中野等氏「石田三成伝」24 三成の島津家指南3
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球問題に関して、天正16年(1588)11月22日付の島津家家臣の伊地知(いじち)重秀に充てた義弘書状が取り上げられていることは前述しましたが、その書状の中で、こういう記述もあります。  「詳しい指示は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません」と。  琉球派遣の御使者については不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰ってい... ...続きを見る

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2017/04/05 10:27
石田三成の実像1888  中野等氏「石田三成伝」23 三成の島津家指南2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の島津家指南について具体的に述べられていますが、その続きです。  天正16年(1588)8月12日付の三成・長岡玄旨(細川幽斎)充ての島津義久・義弘連署状の中で、「日向南郷(なんごう)を伊東氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取りなしを依頼している」と記されていることが取り上げられています。  このことに関して、「日向国内の島津領はかねてからの懸案であり、6月20日付の上井(うわい)秀... ...続きを見る

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2017/04/03 10:30
石田三成の実像1887  中野等氏「石田三成伝」22 三成の島津家指南1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館には、三成が取次として島津家の指南的役割を果たしたことが具体的に記されています。天正15年(1587)の九州攻めでは、三成は降伏した島津家の人質として亀寿姫の受け取りに行ったり、当主であった島津義久の上洛に際して、同行し歓待したりしています。  中野氏の同書では、翌16年4月23日付の島津家家臣の新納忠元に充てた細川幽斎・三成連署状が取り上げられ、「新納忠元書状に対する返書であ」り、「内容は肥後一揆の平定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである」と記されていま... ...続きを見る

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2017/04/01 11:10
石田三成の実像1886  中野等氏「石田三成伝」21 毛利輝元と島津義弘の初上洛
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1588)7月の毛利輝元の初上洛についても触れられています。  「7月19日に大坂に入り、22日には初めての上洛を果たす。  輝元の宿所には上京の妙顕寺が充てられ、三成は浅野長吉とともに、秀吉の使者として23日の朝にここを訪れ、米1000石を呈上した。26日には返礼として、太刀一腰と銀子30枚を受けている」と。  典拠は、「毛利輝元上洛日記」です。この史料について、中野氏の同書には次のようなことが記されています。  「輝元が諸大名... ...続きを見る

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2017/03/30 10:39
石田三成の実像1885  中野等氏「石田三成伝」20 後陽成天皇の聚楽行幸
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1586)4月14日から18日にかけて行われた後陽成天皇の聚楽行幸について触れられています。  その中で、「聚楽行幸に際して、関白秀吉はみずから禁裏に天皇を迎えに出る。秀吉の前駈として直臣が左右にそれぞれ三七騎配されるが、左列の先頭が増田長盛、右列は三成が先導した。儀礼上のこととはいえ、三成は増田長盛とともに、『関白家来の殿上人』の先頭に配されたことは注目してよかろう」と記されています。  増田長盛とともに「三成が先導した」という点に... ...続きを見る

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2017/03/29 12:00
三成の実像1884 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」19
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「石田三成一人が指揮していたわけではなかった」という記述があることに関して、3月22日付拙ブログ記事で、「こういう指揮に関する宣教師側の見方が事実であるとするなら、もっぱら三成らに限定して責任を負わせる戦後処理の仕方に意図的なものを感じさせます」というふうに記... ...続きを見る

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2017/03/28 21:13
三成の実像1883 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付拙ブログ記事の続きです。  関ヶ原の戦いについては、「1600年日本年... ...続きを見る

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2017/03/27 10:38
三成の実像1882 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  大河ドラマ「真田丸」では明石掃部は明石全登という名前で登場し、大坂の陣での... ...続きを見る

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2017/03/26 11:31
三成の実像1881 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦い前後の毛利輝元の様子についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  まず、関ヶ原の戦いの前の毛利輝元についての「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなも... ...続きを見る

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2017/03/25 10:55
三成の実像1880 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」16
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いについても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなものです。  「翌日彼(引用者注 家康)は敵と戦闘を開始したが... ...続きを見る

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2017/03/24 10:32
三成の実像1879 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」15
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付の拙ブログ記事の続きです。  「1600年日本年報補遺」には、石田・毛利方は「... ...続きを見る

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2017/03/23 22:03
三成の実像1878 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられており、その内容を拙ブログで紹介してきましたが、しばらく間が空いてしまいました。これは2月25日付... ...続きを見る

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2017/03/22 21:44
石田三成の実像1877 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」13 小谷徳彦氏の報告 水口城をめぐって
「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の中の、甲賀市教育委員会事務局歴史文化財課の小谷徳彦氏の報告「姿を現した幻の城 水口岡山城」で、秀吉が天正13年(1585)4月、甲賀衆を改易処分にして、中村一氏を入封させ、水口岡山城を築城させたこと、その目的は甲賀の支配の拠点にし、東国支配の拠点にすることだったと説明されていました。城主はその後、天正18年に増田長盛、文禄4年に長束正家と替わりました。  関ヶ原の戦いで、長束正家は三成方に就いたため、水口城は家康方に攻められ、開城し、池田長吉が撤収します。... ...続きを見る

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2017/03/21 10:43
石田三成の実像1876 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」12 下高大輔氏の報告2 文禄4年城郭体制
  「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の下高大輔氏の報告で、文禄4年に三成が佐和山の城主になった後、惣構にし、城郭範囲を拡大したと説明されていました。城下町に外堀・町屋・金属工房を作ったことが挙げられていました。  文禄4年には秀次事件が起こり、そのことが大きな画期となり、それを文禄4年城郭体制の成立だと、下高氏の報告では述べられていました。秀次が居城としていた八幡山城は廃城となります。大溝城も廃城となり、その殿主を水口城に運び、本丸に東櫓を建てたということが、下高氏の報告の後に行なわれた小谷... ...続きを見る

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2017/03/20 10:25
石田三成の実像1874 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」10 松下浩氏の報告5 大坂城包囲網
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏の報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、近江に移封された徳川系大名の領地として、井伊直政の佐和山から彦根18万石、戸田一西の大津から膳所3万石が挙げられていました。両者とも最初与えられた城は廃城になりました。近江が徳川系大名の最西端だということについては再三述べられていました。報告の後に行なわれたパネルディスカッションの中で、下高大輔氏は、佐和山が井伊直政の居城になったのは、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)3月のことであり、直政自身はその翌年の慶... ...続きを見る

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2017/03/18 11:09
石田三成の実像1873 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」9 松下浩氏の報告4 軽視できない秀頼
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、家康、秀頼、秀忠の昇進レースについても説明されていました。三人の序列がレジュメに表にして掲載されていましたが、関ヶ原合戦が行われた慶長5年(1600)の時点で、家康は正二位内大臣、秀頼は従二位権中納言、秀忠は従三位前権中納言であり、慶長8年になると家康は従一位右大臣、秀頼は正二位内大臣、秀忠は従三位権大納言に昇進し、慶長16年になると、家康は従一位前右大臣、秀頼は正二位前右大臣、秀忠は従二位前内大臣になっていま... ...続きを見る

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2017/03/17 11:14
石田三成の実像1872 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」8 松下浩氏の報告3 豊臣体制の存続 
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、関ヶ原合戦後の政治動向について説明され、関ヶ原合戦後も豊臣家の影響力は依然として大きかったということについて、笠谷和比古氏の見解が紹介されていることは拙ブログで触れました。  慶長16年(1611)の豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見に関しても、「徳川家康の優位が確立したものではない。家康は秀頼を庭先で出迎え、『互の可有御礼』(『当代記』)〜対等の礼儀〜を提案。上下関係を決定づけるものではない」と解説されていまし... ...続きを見る

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2017/03/16 21:46
石田三成の実像1871 映画「関ヶ原」に期待・「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」7 松下浩氏の報告2
 岡田准一さんが三成を演じる映画「関ヶ原」の8月26日の公開が待たれます。どんな姿が見られるか、いかに壮大な映画に仕上がっているか、楽しみです。もっとも、原作は司馬遼太郎氏の小説ですから、従来通りの描き方をされないか、懸念されます。家康=北政所=清正・正則ら武断派大名VS三成=淀殿=近江吏僚派という構図、関ヶ原の合戦は家康の問い鉄砲で決まったとするような戦いの経緯など。こういう点のおかしさは拙ブログで指摘してきましたが、そういう従来からの見解がそのまま踏襲されているのか、最近の研究成果が取り入れ... ...続きを見る

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2017/03/15 17:34
石田三成の実像1870 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」6 松下浩氏の報告1 徳川の近江の拠点
 写真は膳所城の天守閣跡碑を3月4日に撮ったものです。膳所城跡公園の中にあります。「大津から膳所へ」の現地探訪会の際に寄りました。前述したように、かつては本丸と二の丸は橋でつながっていましたが、寛文2年(1662)の大地震によって主要部が倒壊し、修復によって本丸と二の丸は合体しました。  このことについては、翌5日に行なわれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、膳所城についての説明がなされ、上記の点についても改めて触れられていました。  膳所城... ...続きを見る

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2017/03/14 10:46
石田三成の実像1869 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」5 尾下成敏氏の講演5 二大老制
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が豊臣政権を支える存在だったということが指摘されていましたが、その根拠の一つとして、文禄元年3月、秀吉が名護屋に出陣した時、家康は伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣ら東国大名の指揮をとっていたことも挙げられていました。  秀吉が名護屋に向けて京から出陣するのは3月26日です(藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動{天正10年6月以降}《藤井氏編... ...続きを見る

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2017/03/13 21:11
石田三成の実像1867 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」3 尾下成敏氏の講演3 言経への家康の報酬
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、徳川の在京賄料としての近江9万石がいかに破格の待遇であったのかについては、前田家は1864石、上杉家でも1万石に過ぎなかったという例が挙げられていました。もっとも、近江の徳川領のまわりには、別の大名の所領があり、相互に監視させ、牽制させるのが秀吉の目的だったという指摘もされていました。  近江徳川領の支配を担っていたのは、近江出身者であり、美濃部右... ...続きを見る

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2017/03/11 11:41
石田三成の実像1866  中野等氏「石田三成伝」19 肥後一揆・古渓宗陳配流事件
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正15年(1587)8月に佐々成政が支配する肥後で起こった一揆に際して、三成が取次として島津氏との折衝に当たったことが記されています。細川幽斎も三成と同じく島津氏の取次です。  「秀吉は、島津家重臣の伊集院幸侃(実名は『忠棟』)を薩摩に下して、島津家の対応を指示する」が、「三成の名は一揆鎮圧を命じる秀吉の朱印状に見える」とあり、「(三成)自身としても10月21日付で、細川幽斎との連署状を新納忠元充てに発し、油断なく幸侃の指示に従うべきことを告げて... ...続きを見る

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2017/03/10 10:29
石田三成の実像1865 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」2 尾下成敏氏の講演2 家康関東転封の目的
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が小田原攻めの後、関東に転封になったその理由について、秀吉が家康を左遷させたわけではなく、家康に関東とその以東の平和を維持させようとするためであったとする川田貞夫氏の見解が紹介され、講演でもそれに賛意が示されていました。その引き換えに家康は近江に9万石という破格の所領を与えられたと云います。この所領は家康が在京に必要な経費を用立てるためのもの、豊... ...続きを見る

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2017/03/09 21:20
石田三成の実像1864 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」1 尾下成敏氏の講演1 近江の徳川領
 5日にピアザ淡海で開かれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」を聴きに行きました。二日続いての大津行きになります。10時半から休憩をはさんで午後4時半まで開かれましたが、密度濃い内容でしたし、新たな知見がいろいろと得られました。基調講演と報告が三つ、その後パネル・ディスカッションがありました。  基調講演は尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」でした。尾下氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏の『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)... ...続きを見る

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2017/03/08 10:53
石田三成の実像1863 「現地探訪 大津から膳所へ」2 三成が繋がれたいちょうの木・膳所城の遺構
 写真は和田神社の表門を4日の「近江城郭」の現地探訪の際に撮ったものです。この表門は膳所藩の藩校である遵義堂の表門を移築したものですが、この和田神社には、拙ブログでも以前に紹介したように三成ゆかりのいちょうの木があります。関ヶ原の戦いの後、捕縛された石田三成が大津城に護送される途中、つながれて休憩したと伝わるいちょうの木です。今回の現地探訪の趣旨からは離れるので、この木についての説明はありませんでしたが、いちょうの木との再会は感慨深いものがありました。  この日の「近江城郭」の現地探訪ですが、... ...続きを見る

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2017/03/07 21:41
石田三成の実像1862 「現地探訪 大津から膳所へ」1 大津城外堀跡・中堀跡・本丸跡
  写真は大津城の外堀石垣とおぼしきところを3月4日に撮ったものです。連続講座「近江の城郭」の第五回の現地探訪で、大津城跡と膳所城跡をめぐって来ましたが、この石垣は当時のものではなく、後で作られたものだと、案内・説明役の滋賀県教育委員会の松下浩氏が語っておられました。   この日はJR大津駅で12時半に集合し、3時間半にわたって歩きました。  家康は関ヶ原の戦いの後、秀吉時代に作られた大津城を廃城にして、新たに天下普請で膳所城を築城しました(大津城が低地にあって攻められやすいという弱点がある... ...続きを見る

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2017/03/06 10:30
三成の実像1861 中野氏「石田三成伝」18 九州攻めの際の役割8 義久歓待・秀吉に近侍
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「天正15年(1587)6月25日には、三成は細川幽斎とともに、上洛のため博多まで北上してきた島津義久を訪ね」、「ほどなく義久をともなって西上し、6月29日に下関を経て、7月10日に堺へ到着した」と記されています。  下関に来た時のことについて、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、次のように記されています。 「義久が赤間関(下関)まで来たときは、赤間関城中より出て城の坂に出迎え、人質として海路を先着していた義久の娘『亀寿』と引き会わ... ...続きを見る

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2017/03/04 18:12
三成の実像1860 中野氏「石田三成伝」17 九州攻めの際の役割7 バテレン追放令 山本博文氏の見解
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「秀吉は6月19日付でいわゆる『伴天連(バテレン)追放令』の発令を行なうが、これへの三成の直接的関与についても詳らかではない」と指摘されています。  「バテレン追放令」については、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「バテレン追放令」で詳しく論じられており、拙ブログでも以前取り上げたことがあります。  その中で、三成が関与したことを示すものとして、筑前の箱崎宮の座主が書いた「豊前覚書」の中に、「この御朱印状は、生駒親正殿と石田三成殿が御承... ...続きを見る

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2017/03/02 21:31
石田三成の実像1859  中野等氏「石田三成伝」16 九州攻めの際の役割6 博多の町割奉行
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が博多町割り奉行を務めたことについて、疑義が呈せられています。  すなわち、「博多復興を期した町割り奉行として、長束正家・小西行長・滝川雄利・山崎片家らの名が確認されるものの、三成の関与については必ずしも明確ではない」と。  三成が博多の町割奉行を務めたということについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。  「秀吉は三成にその博多の復興を命じている。この時の町割奉行は、三成を筆頭に長束正家... ...続きを見る

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2017/02/28 21:37
石田三成の実像1858  中野等氏「石田三成伝」15 九州攻めの際の役割5
 中野等氏の「石田三成伝」(サンライズ出版)の中で記されている、九州攻めの際の三成の行動の続きです。  「三成はその後も伊集院忠棟とともに大口進軍の指揮をとる。24日には曽木(そぎ)に至り、川内川の渡河地点あたりに達している」「また、三成は細川幽斎とともに、日向飫肥(おび)領を伊東氏へ引き渡すよう進めてきたが、島津側の対応が悪く、不快を感じている」「さらに、三成は安国寺恵瓊とともに大隅宮内(みやうち)に出張り、秀吉への敵対を続ける島津家中の北郷(ほんごう)時久(一雲)・忠虎父子と面談している」... ...続きを見る

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2017/02/26 11:19
三成の実像1857 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  すなわち、「奉行側に味方していた者たちは、都へ通じるすべての街道を封鎖することを考... ...続きを見る

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2017/02/25 22:04
石田三成の実像1856 中野等氏「石田三成伝」14 九州攻めの際の役割4
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15(1587)5月8日に島津義久が秀吉に降伏した後も、「いまだ不穏な動きをみせる島津歳久(義久三弟)を抑えるため、三成は19日に島津家家老の伊集院忠棟(九州平定ののち剃髪して『幸侃』【こうかん】と号す)とともに祁答院(けどういん)に派遣される。この軍令は、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人(応其【おうご】)充ての秀吉朱印状というかたちで発せられた」と記されています。  伊集院忠棟と三成の関係について、中野氏の同書では、「こののち忠棟(... ...続きを見る

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2017/02/23 21:29
石田三成の実像1855 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割3
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15年(1587)の九州攻めの際、「陣中見舞いをうけた三成は、この陣中から堺南北惣中に礼を述べ、戦況を報じている(大日本古文書『島津家文書』1196号)」と記されています。  三成は天正16年まで堺奉行を務めていましたから、堺からの陣中見舞い、その礼状はその務めの一環と思われます。拙ブログでも前述したように、三成は博多商人の還住を進めていましたから、こういうことからすれば、三成は貿易港としての堺、博多の重要性を意識していたと思われますし、それ... ...続きを見る

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2017/02/22 10:44
石田三成の実像1854 記事「海北友松の自筆受領書発見」2 友松と春日局と三成の子孫との関係 
 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に掲載された「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事ですが、4月11日から京都国立博物館で始まる「海北友松展」の案内も兼ねています。この受領書も展示されます。三成と関わりの深い人物だけに、是非とも行きたいと思っています。  友松の事績について、同記事には次のように記されています。  「友松は近江・浅井家の重臣の家に生まれ、狩野派に学んだ。建仁寺の大方丈の障壁画などを手がけ、寺の縦2メートルの大画面に巨龍2頭をダイナミックに描いた雲龍図... ...続きを見る

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2017/02/21 21:13
石田三成の実像1853 記事「海北友松の自筆受領書発見」1 友松と三成の接点 
 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事が掲載されていました。妙心寺で発見され、「同寺に納めた屏風の制作料についての書状で」、「受領書には友松の自筆で『お気遣いいただき、屏風を制作した報酬として銀子(ぎんす)一貫目並びに銀子二十枚という過分な額を確かに受領しました』なとど記され、落款・印象もあった」と書かれています。  この「受領書の内容は1992年発行の美術誌『國華(こっか)』(朝日新聞社)に紹介されていたが、所在は不明だった。同... ...続きを見る

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2017/02/20 10:41
石田三成の実像1852 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、九州攻めの際の「秀吉の行軍はきわめて悠然としたものであった」と記され、その理由として「西下にことよせて主不在の宇喜多領および毛利領を親しく監察し、とりわけ毛利家に対しては圧力をかけておく必要があったからであろう」と指摘されています。  その途中、厳島社に参詣していますが、このことについて、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、3月「17日廿日市着(『九州御動座記』『同国廿日市迄、但中一日... ...続きを見る

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2017/02/17 11:19
石田三成の実像1851 中野等氏「石田三成伝」12 九州攻めの際の役割
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、九州攻めに関して、天正15年(1587)2月17日付の筑前国上座郡の土豪の宝珠山隆倍に宛てた三成書状が取り上げられ、その現代語訳が掲載されています。  「仰っしゃるように、これまで書状をやりとりすることはございませんでした(ので、はじめての通信となります)。さて、今度黒田孝高(勘解由次官)殿があなたに対し、特別に知行などを充行われるようにと言上されました。早速(秀吉の)お耳にいれ、諒承されました。今後は黒田孝高の意向を疎かにせず、忠功を尽くされるべ... ...続きを見る

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2017/02/16 10:12
石田三成の実像1850 中野等氏「石田三成伝」11 多賀谷重経の取次
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正14年12月3日付の多賀谷重経宛の秀吉書状の内容が記されていますが、次のようなものです。  「石田三成に対する書状を披見した。関東・奥羽の惣無事のことをこのたび家康に指示したので、異議を差し挟むことのないように。もしこれに背く者があれば討伐する。なお、石田三成も申述するであろう」と。  この書状について、中野氏の同書では次のように解説されています。  「冒頭の文言から、三成が多賀谷重経の書状を取り次いでいたことが理解される。恐らく、結城晴... ...続きを見る

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2017/02/15 21:59
三成の実像1849 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」13
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、織田秀信が三成・輝元側に就いた時のことが、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に記され、その記述が取り上げられていることは前述しましたが、「我らがかの地にいた過ぐる日に」という表現があり、これについて、白峰氏の同論考... ...続きを見る

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2017/02/14 21:32
石田三成の実像1848 中野等氏「石田三成伝」10天正14年5月16日付直江兼続宛、25日付連署状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正14年(1586)5月16日付の直江兼続宛木村吉清・石田三成・増田長盛連署状が取り上げられ、現代語訳も掲載されて、その書状の内容について次のようにまとめられています。  すなわち、「三成らは秀吉と家康が縁者となったことを踏まえ、上杉景勝に対して早急な上洛を促している。家康との和議がなった今、東国もほどなく秀吉の支配下に入るであろうから、諸勢力の領域が確定する以前に上洛するのが得策だというのである」と。  秀吉の妹の旭(朝日)姫が家康に輿入れし... ...続きを見る

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2017/02/13 10:19
三成の実像1847 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「日本諸国記」には、福島正則について「この君候は内府様側の人であるから、その領内でもっとも戦さ... ...続きを見る

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2017/02/12 19:04
三成の実像1846 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、反家康勢力の連携についての「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き犯し... ...続きを見る

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2017/02/11 00:03
三成の実像1845 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」11
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、反家康勢力の連携についての「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き... ...続きを見る

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2017/02/10 15:10
石田三成の実像1844 中野等氏「石田三成伝」9 堺奉行就任は西国仕置と関連
 中野等氏の「石田三成」(吉川弘文館)の中で、三成が小西立佐とともに堺奉行に就任したのは、天正14年6月であり、その先行研究として、朝尾直弘氏の論考「織豊期の堺代官」が挙げられています。  三成を堺奉行に任命した秀吉の意図として、中野氏の同書で次のように指摘されています。  九州への出兵を前提とした「政権の西国仕置と密接に関連するとみるべきで」、「堺商人のもつ交易ルートは、そのまま前線の動きを支える兵站補給路として期待され、三成の奉行就任は、その掌握をもくろんだものであろう。また、これまで島... ...続きを見る

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2017/02/09 19:00
石田三成の実像1843 旅行記86 有馬温泉4 伏見城から移築された瑞宝寺の山門・「有馬山」の歌碑
 写真は有馬温泉にある瑞宝寺の山門を3日に撮ったものです。この山門は伏見城の門を移築したものだといわれています。  われわれは有馬籠の店「くつわ」を見た後、坂を上ったところにある炭酸泉源を訪ねました。ここは公園になっており、蛇口をひねると、水が飲めるようになっています。温泉の湯なのでぬくいかと思いましたが、水のように冷たく、鉄分の味がしました。  その後、林渓寺の前を通って、雪国神社から、杖捨坂を出ました。「杖捨坂」の名の由来は、杖を突いて湯治に来た人が温泉につかって、すっかり元気を取り戻し... ...続きを見る

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2017/02/08 16:01
石田三成の実像1842 旅行記85 有馬温泉3 石垣、帯曲輪跡・秀吉の湯殿御殿跡・ねね邸跡・有馬籠
 写真は温泉寺の近く、極楽寺の「太閤の湯殿館」のそばの「石垣・帯曲輪跡」を3日に撮ったものです。その説明掲示板には次のように記されています。  「石垣は、自然石(割ったり削ったりしない石材)だけを用いる野面積(のづらづみ)と呼ばれる石積みで秀吉の活躍した16世紀後半の天正〜慶長年間に見られる特徴的な石垣づくりの技術です。石垣の上は帯曲輪と呼ばれる幅の狭い平坦面になっており、周囲には多聞塀と呼ばれる長屋づくりの塀や、隅の部分には隅櫓状の建物の跡が確認されています」と。  石垣の反対側には、豊太... ...続きを見る

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2017/02/07 22:01
旅行記84 有馬温泉2 親水公園・天神泉源・御所泉源・温泉寺・湯泉神社
 。 写真は有馬川の河川敷の親水公園を2月3日に撮ったものです。有馬川は滝川と六甲川がこの地点で合流しています。親水公園は阪神・淡路大震災があった1995年に作られました。写真に写っている赤い橋がねね橋です。親水公園は下に降りて歩くのがお勧めです。  「太閤橋」のそばの「ゆけむり広場」にある「茶人太閤像」は1582年に設置されましたが、「ねね像」が設置されたのはその15年後のことであり、作者はどちらも新谷英子氏です。「ねね橋」が架けられたのは、1996年のことです。  「太閤像」のそばに滝の... ...続きを見る

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2017/02/06 17:08
石田三成の実像1841 旅行記83 有馬温泉1 ねね像から太閤像へ 天正13年の湯治
写真は有馬温泉の太閤橋の近くのゆけむり広場に建つ「茶人太閤像」を2月3日に撮ったものです。  妻と有馬温泉に一泊してきました。妻は初めて、私は前に行ったことはありますが、三十数年ぶりのことで、その時は同僚たちと車で行き、一泊した後、次の日はコートを借りてテニスに興じたため、温泉街はほとんどぶらつかないままでした。今回は温泉街近辺を三時間半ほどかけてたっぷり散策してきました。  泊まったのは、有馬ビューホテル(「太閤の湯」が併設されています)。3日、ホテルをチェックアウトした後、坂を下り、... ...続きを見る

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2017/02/05 11:04
石田三成の実像1840 中野等氏「石田三成伝」8 天正13年12月28日付の上杉景勝宛書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正13年(1585)12月28日付の上杉景勝宛の三成書状が取り上げられています。秀吉書状の副状(そえじょう)であり、それまでの「三也」という署名ではなく、「三成」と記して実名を改めたと指摘されています。  秀吉の書状は、「上杉景勝が歳暮の使者として、富永備中守を上洛(あるいは上坂)させ」たことに対する「返礼の直書(じきしょ)」であると記され、三成の書状も口語訳されています。  この時期の情勢については、中野氏の同書で次のように記されています。 ... ...続きを見る

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2017/02/04 10:39
三成の実像1839 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」10
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  家康が上杉攻めに向かう時「幾人かの奉行は内府様に従ったが、その歩みは緩慢であった。その一人は(... ...続きを見る

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2017/02/03 18:52
三成の実像1838 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」9
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられていることを拙ブログで取り上げました。  その「日本諸国記」の中に、家康が「(上杉)景勝宛に、貴... ...続きを見る

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2017/02/02 00:06
三成の実像1837 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」8
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられています。  すなわち、「(上杉)景勝は、三年間は領内に留まってもよいとの太閤様の許可を得ている... ...続きを見る

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2017/02/01 18:44
石田三成の実像1836 「長浜城跡・城下町跡」現地見学会3 知善院・外堀・山内屋敷・天守跡
  写真は長浜の知善院の表門を、22日の「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会の際に撮ったものです。長浜城の搦手(からめて)門を移築したと云われています。知善院自体は、浅井氏の小谷城から移した寺であり、長浜城の鬼門(北東)を守護する位置にありました。知善院の本堂の中には、大坂落城の時に持ち出された秀吉の木像が安置されていますが、今回は拝観しませんでした。  現地見学会は、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑(三ツ矢大神宮のところ)を見た後、西に進み(城下町の北限をたどる形で)、少し南下し、知善院にたど... ...続きを見る

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2017/01/31 12:38
石田三成の実像1835 須藤通光書状2 文禄5年のものか・惣構普請 
 三成が長浜町に人夫調達を命じた須藤通光書状ですが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)には、この書状について解説が加えられ、追而書(おってがき)に記されていることについて次のように記されています。  「長浜町は秀吉の城主時代から、諸役免除の特権を得ていたので、三成の人夫徴用を不当だと考えた町民らが、伏見の秀吉に訴えたのである。これを聞いた三成は、秀吉に直訴され面目を失ったと立腹してしまった」、「この後の顛末はわからない」と。  またこの書状が記された時期については、... ...続きを見る

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2017/01/30 10:24
石田三成の実像1834「長浜城跡・城下町跡」現地見学会2 境界石碑・須藤通光書状
 長浜城跡・城下町跡の現地見学会では、「大手門通り」の東の端を北に進み、大通寺の参道をさらに北上して、大通寺の山門のところに出ました。大通寺は長浜城下町の北東に位置しています。山門の前を左折して、長浜城の大手門を移築したとされる台所門に出ました。大通寺の境内の中を通って、城下町の北東の端に建つ、三ツ矢大神宮のところにある、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑のところにたどり着きました。  写真はその石碑を撮ったものです。江戸時代はこの境界碑が長浜に30本建っていましたが、5本しか残っていないため、... ...続きを見る

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2017/01/29 10:15
石田三成の実像1833 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」3 天正19年国割
 22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、秀吉による天正19年(1591)国割について次のように説明されていました。  小田原合戦後、徳川家康を関東に移封し、東海道・東山道に豊臣系大名を配置し、それまで近江にいた諸大名は東海道筋に移されます。具体的には、中村一氏を駿府に、山内一豊を掛川に、堀尾吉晴を浜松に、羽柴秀次を尾張に、田中吉政を岡崎にと。その代わり近江には奉行衆を配置し、近江の豊臣化がさらに進行します。  講義では、奉行衆の石田三成については触れられて... ...続きを見る

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2017/01/27 10:40
松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」2 元亀騒乱を経て近江支配へ、小牧・長久手合戦が画期
  22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、信長と近江との関係は、「元亀騒乱」によって大きく変わり、信長の近江掌握構想は破綻したと説明されていました。その発端は、元亀元年(1570)4月、浅井氏が離反したことであり、その理由について、浅井氏が信長に支配されることを危惧したことが挙げられていました。ついで同年9月には、大坂本願寺の檄文が発せられ、六角氏によって一向一揆を扇動し、同年12月の志賀の陣で、信長は浅井・朝倉に与した延暦寺と対立し、それが翌年9月の延暦寺焼... ...続きを見る

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2017/01/26 18:13
石田三成の実像1831 曳山祭りと羽柴秀勝の墓・ 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」1
 写真は22日、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」が行われた長浜の曳山博物館(講義は伝承スタジオにおいてでした)の看板を撮ったものです。  講義の後、太田浩司氏による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会がありました。これは連続講座「近江の城郭」の第4回の催しで、前回は昨年12月に行なわれた鳥居本公民館での講義と「佐和山城跡」の現地見学会でしたが、これについては拙ブログ記事で内容を取り上げました。  長浜に城を築き町を作ったのは秀吉ですが、「長浜曳山祭り」は秀吉の男子(秀勝)誕生の祝い金... ...続きを見る

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2017/01/25 18:56
三成の実像1830 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」7
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、石田三成失脚後、三成たちによる家康に対する陰謀の画策があったという記述が、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)にあることが記されています。  すなわち、「内府様(徳川家康)はともかく非常に強力で、その政庁における... ...続きを見る

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2017/01/25 10:39
石田三成の実像1829  中野等氏「石田三成伝」7 左吉から治部少輔へ・矢沢綱頼宛の三成書状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「左吉」から「治部少輔」に変わったのが確認できるのは、「宇野主水日記」の天正13年(1585)9月10日の記述であり、14日の条にも、秀吉の有馬湯治に従った面々の中に、「石田治部少輔」の名があることが記されています。  その前の8月には、秀吉は越中攻めに向かいますが、その時の三成の居所を示す史料はないものの、「これまでの三成の動きからして推すと、秀吉に近侍して越中攻めの陣中にあったものと考えたい」と推定されています。  この時に、秀吉、景勝、三成... ...続きを見る

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2017/01/24 19:05
石田三成の実像1828 中野等氏「石田三成伝」6 天正12年の事績・13年の紀州攻め・諸大夫成り
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正12年の三成について、「小牧の陣の前半は、秀吉の陣中に近侍していたようだ」が、「10月の後半以降は、秀吉自身が北伊勢の各地を移動しており、三成は必ずしも行動を共にしていたわけではなさそうである」と指摘されています。  その根拠として、11月27日の「江州蒲生郡今在家村検地帳」に「石田左吉」の署名が残っていることが挙げられており、「この段階の三成としては、みずから検地の場で指揮をとった可能性が高い」と記されています。「この段階」とことわっている... ...続きを見る

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2017/01/23 10:55
石田三成の実像1827  中野等氏「石田三成伝」5 天正11年に発した書状と「宇野主水日記」の記述
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が一次史料として出てくるのは天正11年のことだと記されていることは前述しましたが、1月23日付の淡路の広田蔵丞宛の書状、2月7日付の越後西雲寺宛の木村吉清・増田長盛との連署状、3月13日付の近江称名寺宛の書状、6月28日付の狩野秀治・直江兼続宛の書状、8月16日付の狩野秀治・直江兼続宛の長盛との連署状が挙げられています。  これらの書状から、三成はまだ24歳という若さであるにもかかわらず、増田長盛・木村吉清と共に「対上杉交渉の実務を当初から担... ...続きを見る

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2017/01/22 18:48
石田三成の実像1826 堺めぐり5 千利休屋敷跡の記念碑・利休が暴利をむさぼっていた説への批判
  写真は千利休屋敷内に建つ、利休の事績を記した石碑を6日に撮ったものです。  利休切腹事件の時に、三成は京に戻っていなかったことが、白川亨氏の「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)で指摘されています。これも以前に拙ブログで紹介したことがありますが、「宗湛日記」の天正19年2月5日条に増田長盛、三成、大谷吉継が茶会を開いたという記載があり(11日には宇喜多秀家たちが茶会を開いたという記述もあります)、当時三成は博多におり、「その後、名護屋に赴いたであろうから、3月下旬以降でなければ帰坂できな... ...続きを見る

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2017/01/21 11:13
石田三成の実像1825 中野等氏「石田三成伝」4 昌幸と三成の相婿説3 最初の三也書状・若くして頭角
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、昌幸と三成の相婿説が主張されていますが、昌幸と三成の結婚した年に15年程の大きな開きがあります。両方の妻とも、宇多頼忠の娘であれば、姉妹の間に大きな年齢差があります。この点を指して、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されているのでしょう。  こういう年齢的な不自然さに気づかれた白川亨氏は晩年の著作「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)... ...続きを見る

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2017/01/20 11:01
石田三成の実像1824 中野等氏「石田三成伝」3 昌幸と三成の相婿説2 三成の結婚の時期
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と三成は、共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿説であったという説を唱えられ、宇多氏の本来の姓である尾藤氏は「信州中野郷を本貫とする」と述べられています この点について、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、「尾藤一族は、信州中野牧を本拠地とした武士集団であ」ると記されています宇多頼忠は、「弘治年間(1555〜58)信州から遠江の引佐地方に移動し、それから十年間?その地において今川家に帰属」し、「永禄3年(1560)、今川義元... ...続きを見る

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2017/01/19 18:38
三成の実像1823 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」6
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。  伏見にいる三成に対して、家康は「軍勢を率いてそこに到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約... ...続きを見る

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2017/01/18 10:05
三成の実像1822 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。  『 家康が大坂城に入り三成を襲おうとしたため、「(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごし... ...続きを見る

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2017/01/17 11:52
三成の実像1821 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関しても、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に詳しく記されていますが、的確に事態をつかんでいるところと事実誤認があるところがあることがわかります。  まず次のように記されています。  「... ...続きを見る

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2017/01/16 10:43
石田三成の実像1820 中野等氏「石田三成伝」2 昌幸と三成の相婿説を主張・その否定的な見解
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と石田三成は、妻が共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿であったというかねてからの説が踏襲されています。すなわち、「頼忠の本来の苗字は『尾藤』であった。尾藤家は信州中野郷を本貫とするが、頼忠の兄と目される尾藤知宣(とものぶ)(甚左衛門尉、実名は『知定』などとも)が藤吉郎時代の秀吉に家人として仕えていた」と記され、「頼忠の女子の一人が真田昌幸に嫁いでいる。したがって、昌幸が10歳以上の年嵩だが、三成とは相婿の関係となる」と。  また「真田昌幸の... ...続きを見る

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2017/01/15 12:05
石田三成の実像1819 中野等氏「石田三成伝」1三成の鷹マニアぶりを示す、中納言宛の書状をめぐって
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文治派とされる三成の姿を見直すものとして、三成が鷹マニアだったことを示す、某中納言宛の三成書状が最初に取り上げられています。この書状については、中井俊一郎氏 の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)で触れられており、中野氏の同書の参考文献でも、中井氏の「石田三成からの手紙」が挙げられています。  しかし、中納言が誰であるかについて、中井氏が織田秀信としているのに対して、中野氏は上杉景勝としています 。その理由については、中野氏の同書では示され... ...続きを見る

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2017/01/14 11:23
石田三成の実像1818 堺めぐり4「山上宗二供養塔 一会塚」・南宗寺と大徳寺からわかる利休との関係
写真は堺の南宗寺の塔頭の天慶院の前にある「山上宗二供養塔 一会塚」を5日に撮ったものです。山上宗二は千利休の高弟でしたが、小田原攻めの際、秀吉によって惨殺されました。利休が切腹させられるのは、その翌年のことです。 南宗寺に千利休一門の供養塔があり、山上宗二の供養塔も南宗寺の塔頭の天慶院にありますし、南宗寺を再建した(創建したのは三好長慶)のが三成と親しかった沢庵和尚であったことからしても、利休と三成の関係の親密さがうかがえるようです。  それは京都の大徳寺でも同じであって、利休は大... ...続きを見る

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2017/01/13 10:51
石田三成の実像1817 堺めぐり3 「さかい利晶の杜」・秀吉が利休の娘に懸想した話の疑問点
 写真は堺の千利休屋敷跡のすぐ西隣に建つ「さかい利晶(りしょう)の杜」の施設を撮ったものです。昨年オープンしたばかりで、このような建物ができているのは知りませんでした。千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館などが中に入っていますが、今回は時間がなくて、観覧できませんでした。堺が生んだ二大偉人に関する施設ですから、近々改めて訪ねたいと思います。  千利休屋敷跡との間の道路も新しくなっており、ここが新たな観光スポットになっていることがわかります。 千利休屋敷跡の説明ガイドさんが、利休が切腹させられ... ...続きを見る

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2017/01/12 20:59
石田三成の実像1816 堺めぐり2 公開されている千利休屋敷跡・切腹理由についてのガイドさんの説明
  写真は堺の宿院の千利休屋敷跡にある井戸を5日に撮ったものです。千利休屋敷跡に行ったのは数年ぶりのことですが、驚いたことは、敷地の中に入れ、井戸のそばまで近づけることができるようになっていたことであり、ガイドさんも待機していて、詳しい説明を受けることが出来たことです。以前には柵があって、遠くからしか眺めることしかできませんでした。  ガイドさんの説明によれば、この土地の持ち主の裏千家の配慮によって、公開されるようになったそうです。千利休屋敷が堺にあったのは確かですが、実際この場所であったのか... ...続きを見る

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2017/01/11 10:44
石田三成の実像1815 堺めぐり1 三成と南宗寺を再建した沢庵、大仙公園の茶室、行長ゆかりの松
   写真は堺の南宗寺の拝観入口(入って右に行ったところに受付があります)を5日に撮ったものです。今回は残念ながら、時間の関係で中の拝観はしませんでした。私は今までに何回も拝観しています。  南宗寺は、大坂夏の陣で焼け、沢庵和尚が再建しました。沢庵和尚は三成と親しく、三成が奉行職を解かれて佐和山に隠居後、母の菩提を弔うために佐和山に瑞岳寺を建立した時、春屋宗園らと佐和山に赴いていますし、三成が処刑された後、宗園と共に三成の遺骸を大徳寺三玄院に引き取って手厚く葬っています。  南宗寺には千利休... ...続きを見る

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2017/01/10 11:26
三成の実像1814 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」4
  白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、「(徳川)家康その他の大名たちは、皆が敵対心を捨てて固い友情が結ばれるように何も試みないわけではなかった」と記され、「石田三成と浅野長政の対立が起こった時... ...続きを見る

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2017/01/09 10:12
三成の実像1813 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」3
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政の対立があったという記述があることが指摘されています。石田三成派については、白峰氏の同論考で、次のように記されています。  「石田三... ...続きを見る

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2017/01/08 10:51
三成の実像1812 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」2
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政が対立したという記述があることが記されています。  すなわち、「当初は石田三成と浅野長政は表面上は友好関係(『外見上の友情』)を保っていたが、『憎悪を爆発』させて激... ...続きを見る

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2017/01/07 10:22
三成の実像1811 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」1
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」を精緻に分析して、関ヶ原前後の状況に対して考察が加えられています。その論考を拝読してまず思うことは、外国人宣教師の報告書とは云え、日本の当時の状況をかなり的確に捉えており、史料として重要だということを改めて認識したことです... ...続きを見る

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2017/01/06 09:44
石田三成の実像1810 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」15 公儀を使用したのは三人
  白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、阿部哲人氏の指摘などをもとにして、「西国を二大老・四奉行がまず掌握して、東国は大老の上杉景勝が掌握する、という豊臣公儀(石田・毛利連合政権)のダイナミックな全国支配のスキームを読み取ることができる」と指摘されています。  またやはり阿部氏の指摘に基づいて、「7月17日付長束正家・増田長盛・前田玄以連署状」と「内府ちかひの条々」が、「西国の諸大名だけでなく、東国の諸大名に対しても出されたことに... ...続きを見る

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2017/01/05 19:45
石田三成の実像1809 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点4 いくさのことを知らない三成?
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)では、三成の相手として初芽が出てきて、二人の関係も小説の重要な軸となっています。それはよいのですが、三成の妻子は登場しておらず、その点に不満を覚えます。映画「関ヶ原」でも、原作通り、妻子は登場しないのでしょうか。  もっとも、小説が書かれた時点では、三成の妻子のこと(正室との間に三男三女があったこと。側室については、今でもあまりよくわかっていません)については司馬氏はよく把握していなかったのかもしれません。妻子のことを精力的に調べられたのが故白川亨氏で... ...続きを見る

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2017/01/04 18:50
石田三成の実像1808 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点3 戦いの経緯・島津家の動向
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第五として、関ヶ原の戦いの経緯について取り上げ、その一つとして島津隊は三成に対する遺恨から戦いに加わらなかったと描かれているおかしさについて触れました。  島津隊は動かなかったのではなく、そもそも二番備であり、戦いに参加しようと思っていたら、小早川秀秋が裏切り、勝敗が決してしまっていたということが桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中で指摘されています。小説「関ヶ原」では、秀秋が裏切ったのは正午頃であり、それで西軍が崩れ始... ...続きを見る

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2017/01/03 15:31
石田三成の実像1807 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点2 おびき出され説・問い鉄炮
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第四は、関ヶ原の戦いも、三成方は家康の作戦に乗せられ大垣城から関ヶ原に誘い出されたという展開になっていることです。これも徳川史観に基づいた捉え方であり、これに対して、三成方が関ヶ原の移動したのは、動きの怪しい小早川秀秋が松尾山に入ったためであり、秀秋を牽制することが目的であったという中井俊一郎氏の見解があり、そのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。  問題点の第五は、関ヶ原の戦いの経緯についてです。なか... ...続きを見る

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2017/01/02 18:04
石田三成の実像1806 映画「関ヶ原」公開に対する期待と不安・司馬遼太郎氏の原作の問題点1
 昨年は「真田丸」で三成が重要な役割を果たしたということで、関連の講座・講演やイベントがいくつも行われ、結構の数参加しましたが、今年は岡田准一さん主演(三成役)の映画「関ヶ原」が公開されるということもあって、期待がふくらみます。  映画の内容が原作通りになるかどうかはよく分からないのですが、今回、改めて司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)を読み直しました。拙ブログでも記したように、この小説は自分にとって三成本の原点ともいうべき存在であり、愚直なまでに義を貫いた三成の姿が描かれていて悪くない... ...続きを見る

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2017/01/01 22:18
石田三成の実像1805大河ドラマ探訪470 「真田丸」137「三谷幸喜のありふれた生活・伏線を張る」
11月17日の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の「伏線を張るということ」は、文字通り「伏線」について説明されているのですが、その中で、「真田丸」の三成のことも触れられています。  すなわち、「石田三成が細川忠興に、干し柿を進呈するシーンがあった(これを柿Aとする)。実際に伝えられているエピソードを基に書いたのだが、三成には、柿に関する話が、実はもうひとつある。処刑される直前に、差し出された柿を、お腹を壊すといけないので断る有名なエピソードだ(これを柿Bとする)。柿Aを観た... ...続きを見る

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2016/12/31 13:10
大河ドラマ探訪467 「真田丸」134 九度山探訪2 真田庵・ 信繁は九度山で二男五女をもうける
 写真は真田昌幸・信繁が関ヶ原の戦いの後、暮らしていた屋敷があった真田庵を26日に撮ったものです。賽銭箱に真田家の六連銭の家紋が付いています。奥に見えているのが、善名称院の本堂です。写真に向かって右側には、信繁が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったとの言い伝えがある「雷封じの井」、真田地主大権現を祀るお社が建っています。左側には昌幸の墓や史料館があります。私が訪ねた時には、何人がお参りしていました。  丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、信繁は九度山で「二男五女をもうけている」こと... ...続きを見る

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2016/12/28 10:28
石田三成の実像1804大河ドラマ探訪464 「真田丸」131「歴史人 真田幸村と大坂の陣」三成の記述
 「歴史人 2017年1月号 真田幸村と大坂の陣」に、三成のことが少しだけ出て来ます。  まず、江宮隆之氏の「幸村は、なぜ豊臣に殉じたのか?」の中で、「幸村と豊臣の絆を強めた3人の恩人」として、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成が取り上げられ、三成については次のように記されています。  「秀吉の馬廻衆・近習衆として側近く仕えた幸村は、三成の人格骨柄に深く触れた。豊臣家のために戦い散ったその様は、幸村の生き方にも大きな影響を与えた」と。  「真田丸」でも、信繁が吉継や三成の影響を受けていましたし、... ...続きを見る

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2016/12/25 10:51
大河ドラマ探訪463 「真田丸」130 信繁の馬上筒・最後に正臣さん演じる正信を出した三谷氏の思い
 大河ドラマ「真田丸」最終回では、信繁が馬上筒を使って家康を仕留めようとしたところ、秀忠隊が現れて阻止される場面が描かれていましたが、信繁が馬上筒を使おうとしていたということは、以前の「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていました。昨年の幸村祭(「真田幸村公戦没400年慰霊祭)の時にも「真田幸村公 家康狙撃の銃」として展示されていたことは昨年の5月8日付の拙ブログ記事でも触れましたし、写真も貼付しました。  その時の記事でも記したことですが、銃の上の説明パネルには、次のように書かれていました。... ...続きを見る

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2016/12/24 10:25
石田三成の実像1803 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会3 モチノキ谷の三成屋敷
   写真は三成屋敷があったとされる佐和山のモチノキ谷を撮ったものです。11日に行なわれた下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会の最後に訪ねたところです。  見学会は佐和山山頂から再び西の丸を通って下り、途中から龍潭寺の方に降り、佐和山の西側に下りました。嶋左近の屋敷があったとされる清凉寺の前を通って、西側の山裾に添って南の方向に向かって歩きました。三成の茶室があったとされる仙琳寺の裏側の竹林を経由しましたが、この竹林の竹を伐採して、彦根キ... ...続きを見る

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2016/12/23 18:51
石田三成の実像1802 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会2 本丸の石垣・天守の位置の推定図
  写真は11日に行なわれた下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会のうち、山頂の様子を撮ったものです。向こうの見える盛り上がった部分が天守があったところではないかと、下高氏によって推定されていました。下高氏の推定は、天守だけではなく、本丸を囲む石垣、虎口があった場所にまで及びました。取り囲んでいる石垣の形は、現在発見されているわずかな石垣を線で結んで、CGでその姿が再現され、天守の位置と合わせて現地説明会のレジュメに掲載されていました。  ... ...続きを見る

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2016/12/22 11:58
石田三成の実像1801 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」14 吉川広家は最初三成方
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、慶長5年8月2日付で出された細川幽斎書状が史料として取り上げられていることは前述しましたが、「『秀頼様』の記載の上を一字分空けて闕字にしている」ことから、この時点では「秀頼が最高権力者として見なしている」として、「石田・毛利連合政権が秀頼を直接推戴して政権を運営していること」、「一方で、この時点では家康は世間の後見という立場にすぎない」と指摘されています。  幽斎は田辺城に籠城したため、石田・毛... ...続きを見る

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2016/12/21 10:10
石田三成の実像1800 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」13 8月2日付細川幽斎書状
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、慶長5年8月2日付で出された細川幽斎書状が史料として取り上げられています。この書状の内容について、「細川家が豊臣秀頼から後成敗を受ける理由に対する、細川幽斎の反論として受け取ることができる」と記されています。細川家が御成敗を受ける理由については、慶長5年7月17日付の別所吉治宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状の中の内容が紹介されていました。  すなわち、「@細川忠興はいずれの忠誠もなく、秀吉が... ...続きを見る

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2016/12/19 11:00
石田三成の実像1799 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会1 西の丸の穴についての新解釈
  写真は佐和山の大手口を11日の現地見学会の時に撮ったものです。田畑に水がたまっていましたが、このあたりは湿地帯だったと説明されていました。前に聳え立っているのが三成の居城であった佐和山です。  当日は彦根の鳥居本地区公民館での、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」を10時から1時間にわたって聴講した後、公民館で食事を取り、同文化財課の下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会に参加しましたが、盛... ...続きを見る

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2016/12/18 10:40
石田三成の実像1798  松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」6 秀吉の近江の拠点城郭
 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、秀吉は天正13年(1585)の「小牧長久手合戦後の国割で織田色を排除し」、「秀吉子飼いの武将を近江国内の要所に配置」しますが、それは「徳川家康に対する抑え」のためであったと指摘されていました。  天正18年、北条攻めの後、徳川は関東に移封されますが、「東山道・東海道筋に豊臣系大名を配置」し、「側近の奉行衆で近江を支配」しました。  講演会では、豊臣政権の近江の拠点城郭について、城主の変遷が具体的にたどられていました。この講演の前日に訪ね... ...続きを見る

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2016/12/17 10:45
石田三成の実像1797  松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」5 関ヶ原合戦の経緯3
 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、関ヶ原合戦の経緯が述べられていましたが、昨日付拙ブログ記事の続きです。  佐和山城攻撃は16日から始まりますが、籠城衆は石田正継・正澄らであり、攻撃軍は大手が小早川秀秋、水の手(搦め手)は田中吉政、松原口は石田雅樂助、彦根道切通は石川民部、佐和山城が陥落したのは17日だと説明されていました。  佐和山城攻撃の史料として、9月28日付の伊達政宗宛の「結城秀康書状」と「家忠日記増補追加」が取り上げられていました。前者の書状では、「去十七日二さ... ...続きを見る

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2016/12/16 00:40
石田三成の実像1795 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」3 関ヶ原合戦の経緯1 
 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、関ヶ原の合戦の経緯について述べられていました。  家康が会津攻めのため大坂を出陣したのが慶長5年6月16日、石田三成と大谷吉継挙兵の噂が広まり、奉行衆が徳川家康、毛利輝元に書状で報告し、鎮定を要請したのが7月12日、それを受けて輝元が大坂に入城したのが7月16日。翌17日に「内府ちがいの条々」が出され、ここに至って奉行衆も三成に加担し、西軍が結成されたと説明されていました。  三成がこの時、大坂城に来ていたかの言及はありませんでしたが、司... ...続きを見る

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2016/12/14 21:38
石田三成の実像1794 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」2 関ヶ原合戦の対立軸の形成
 一昨日に行われた、松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦 近江にとっての関ヶ原合戦」の中で、関ヶ原合戦の対立軸の形成として、唐入りに際して、「朝鮮在陣諸将と国内強硬派との対立」があったこと、「前田利家死後の大老衆の主導権争い」があり、それは「徳川VS毛利・宇喜多・上杉」というものであったこと、「豊臣政権内の主導権争い」があり、「東軍・西軍ともに主力は豊臣系大名」であったことが挙げられ、それに関連して「関ヶ原合戦後も豊臣家は大坂で影響力を保持」していたこと、「関ヶ原合戦によって徳川家康... ...続きを見る

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2016/12/13 12:30
石田三成の実像1793 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」1 関ヶ原合戦の従来の見方を否定
 昨日、鳥居本地区公民館で行われた、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦 近江にとっての関ヶ原合戦」ですが、まず関ヶ原合戦に対する従来の見方が示されています。  従来の見方とは、関ヶ原合戦は「秀吉死後の天下人の座をめぐる争い」で、「天下人を目指す徳川家康と、豊臣の天下を守ろうとする石田三成との争い」とするものだが、それは「信長→秀吉→家康とつづく天下人の流れを前提とした理解」で、「秀吉死後の歴史を家康の天下取りへの道と解釈」することであり、それはちょう... ...続きを見る

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2016/12/12 14:45
石田三成の実像1792旅行記82 近江八幡散策 豊臣秀次公像 家臣の策略で切腹?ヴォーリズの建築
  写真は近江八幡の八幡公園に建つ豊臣秀次公像を昨日撮ったものです。今日、鳥居本地区公民館で行われた、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」、及びその後、同文化財課の下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城址、三成屋敷跡などをめぐる現地見学会(4時間余りに及びました)に参加するため、昨日、彦根に泊まりました。今日のイベントも充実したものでしたが、その報告は改めて拙ブログで後述します。  昨日は近江八幡で途中下車し、町中を歩いて回ってきました... ...続きを見る

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2016/12/11 21:24
石田三成の実像1791 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」12 景勝に委ねられた作戦
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、連合政権側から上杉氏に託された役割として、阿部哲人氏の次のような見解が紹介されています。  すなわち、「西軍の一翼を担うことになった景勝には大きく二つの作戦が委ねられた。第一は関東出兵である。家康の本拠である関東を軍事的に攻略することが求められた。第二は奥羽諸将の統率である。」、「景勝は両者(引用者注 伊達政宗、最上義光を指す)を軍事指揮権のもとに統括しようとしたのである。そして、それは広く奥羽... ...続きを見る

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2016/12/10 18:57
石田三成の実像1790 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」11 上杉氏も公儀の構成員 
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、(慶長5年)9月3日付本庄繁長宛直江兼続書状のうち、「天下」や「御公儀」の文言が出ている最初の箇条が引用され、この書状やこれらの文言についての先行研究が紹介され、検討が加えられています。  その結果、公儀=「豊臣政権」という高嶋弘志氏の見解、公儀=「秀頼政権」という高橋明氏の見解が妥当だという評価がされています。  そして、この書状について、阿部哲人氏の見解を考慮して、「『御公儀』の構成員には... ...続きを見る

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2016/12/09 11:24
石田三成の実像1789大河ドラマ探訪461 「真田丸」128 「MEET三成展」のドラマの小道具類
写真は彦根城の開国記念館の紅葉を11月23日に撮ったものです。佐和山でののろし駅伝に参加した後、開国記念館で開催中の「MEET三成展」を見に行きました。「MEET三成展」を見学するのは三度目でしたが、二回目は11月5日でしたから、内容は全く変わっていませんでした。展示物でもう一度じっくり見たのは「真田丸」で使われていた小道具類でした。  四点ありましたが、「内府ちかひの条々」、大谷吉継が諸大名に味方するように促していた書状、三成が吉継の娘である春にお礼に渡していた筆、秀吉の形見の脇差と金子... ...続きを見る

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2016/12/08 17:33
石田三成の実像1788 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」10 吉継の政治的役割2
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、大谷吉継の政治的役割が論じられていますが、それに関して、水野伍貴氏と石畑匡基氏の見解が取り上げられています。  まず水野氏については、「すでに慶長4年(1599)10月段階で大谷吉継が奉行衆に準ずる格で登用されていて、その後も中央政治で起こる重大事件には必ず登場し、奉行衆に準じた働きをしている」と記され、その出典は水野氏の「秀吉死後の権力闘争と会津征討」であることが註に掲載されています。  石... ...続きを見る

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2016/12/07 21:47
大河ドラマ探訪460 「真田丸」127太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回8  家康に協力した片桐且元
 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回の中で、「片桐且元はどうして徳川方に協力せざるを得なかったのか?」ということについても取り上げられ、秀頼から且元の大坂城退去が命じられたことが大きいと指摘されていました。  拙ブログでも触れたように、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)でも、且元が大坂城から退去したことによって、家康が戦いを起こす口実となったと記されています。  太田氏の講座では、今年発見された且元の書状に関する京都新聞の記事がレジュメに掲載され、講座の中でも触れられていました。... ...続きを見る

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2016/12/06 11:18
石田三成の実像1787 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」9 大谷吉継の政治的役割
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、大谷吉継の政治的役割について、考察されています。  「大谷吉継が豊臣公儀(石田・毛利連合政権)の構成員であった一人であったことを明確に示している」ものとして、(慶長5年)7月20日付の松井康之宛大谷吉継書状と、7月30日付の真田昌幸・真田信繁宛大谷吉継書状が挙げられています。  まず前者の書状ですが、「『(慶長5年)7月17日付松井康之宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状』の副状としての性格を... ...続きを見る

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2016/12/05 10:14
石田三成の実像1786 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」8 7月29日付昌幸宛書状
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、(慶長5年)7月29日に発給された、いずれも真田昌幸宛の3通の書状について、考察が加えられていますが、興味深いものです。その書状は宇喜多秀家書状、毛利輝元書状、長束正家・増田長盛・前田玄以連署状です。  宇喜多秀家書状と毛利輝元書状は、「内容の文も同じ」ながら、宇喜多秀家書状は「文末が『猶自治部少可被申入候』と記されているのに対し」、毛利輝元書状では、「文末が『猶従年寄衆可被申入候』と記されてい... ...続きを見る

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2016/12/04 11:25
石田三成の実像1785 琵琶湖一周のろし駅伝 参加者全員で「えいえいおー」・手作り弁当をいただく
写真は11月23日、佐和山で琵琶湖一周のろし駅伝ののろしが上がった時に撮ったものです。のろし駅伝は今年で15回を数え、今年は33箇所の中世城跡をのろしでつなぎました。近江八幡の瓶割山から10時にスタートし、時計回りに次々とのろしが上げられ(むろん、隣の山にのろしが上がったのを目で確認した上でですが)、佐和山にのろしが上がったのは11時半過ぎでした。参加者全員で「えいえいおー」と叫びました。  それにしても関係者の準備や必要機材を山頂に持ち運ぶことは大変だといつも思いますし、頭が下がります。甲... ...続きを見る

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2016/12/03 11:07
石田三成の実像1784 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」7 島津忠恒宛二大老連署状
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で取り上げられている「(慶長5年)8月朔日付島津忠恒宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状」ですが、白峰氏が作成された「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には、その書状の内容について、次のように記されています。  「『天下之儀』は『古暦』より申し入れるので(詳しくは)述べない。御人数(軍勢)について国中残らず召し連れて上洛するように指示する。玉薬・兵糧等のことは『公儀』より申し付けるの... ...続きを見る

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2016/12/01 10:18
石田三成の実像1783 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」6 二大老・四奉行の役割分担
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、布谷陽子氏の二大老・四奉行の役割分担に関する見解についても、検討が加えられ、独自の見解が示されています。  まず布谷氏の見解について、「@二大老…軍令を発令する、四奉行…その軍令の詳細を伝達する、という分担があり、A二大老…同じ大老の前田利長に対する勧誘工作をおこなう、四奉行…基本的に諸大名に対する勧誘工作をおこなう、という分担があった」というものだとまとめられています。  まず@点目について... ...続きを見る

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2016/11/29 10:29
大河ドラマ探訪457 「真田丸」124 太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回5 犬伏の密議?小山評定?
 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」第三回で、「真田家が東西両軍に分かれた場所は犬伏か?」ということについても触れられ、上野板鼻・下野天明という記述もあることが述べられていました。  そのことを示すものとして、「落穂集」に、真田昌幸は天明に陣を張り、そこに犬伏にいる信幸を呼び寄せたという記述があること、「信濃史料」の中の「但馬出石仙石家譜」に、会津攻めの際、千石秀次が来るのを、昌幸が上州板鼻で待っていた時、夜に変心し引き返したという記述があることが挙げられていました。板鼻は天明より手前... ...続きを見る

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2016/11/28 17:47
石田三成の実像1782 高木優榮氏「三成の関ヶ原転進は予定の作戦」 山中村に残る三成書状の写し
 山田喜雄氏から関ヶ原町歴史民俗資料館元館長の高木優榮氏の「三成の関ヶ原転進は予定の作戦」(『新・歴史群像シリーズ@』【学研】所収)のコピーをお送りいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。  山田氏とは、今年の三成祭でお会いしました。その前日に、山田氏は高木氏の案内で関ヶ原町の山中を訪れ、その際、いただいたものだそうです。  山中には、三成が郷土に宛てた書状の写しが残っており、その書状の写しは、家康が三成方を関ヶ原におびき出したのではなく、三成方が関ヶ原に移動することは予定の行動 だ... ...続きを見る

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2016/11/27 11:15
石田三成の実像1781 大河ドラマ探訪456「真田丸」123 太田氏の講座4 三成の家康襲撃計画否定
 太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座 第三回」で、「石田三成の家康襲撃計画はあったのか?」ということについても、触れられていました。この襲撃計画については、「真田丸」でまるまる一回分を使って描かれていましたが、拙ブログ記事で以前、否定的な見解を述べました。太田氏も「当代記」にのみ記載されている事件であり、否定的な見解でした。  その当代記に書かれている記述が、講座のレジュメに掲載されていました。敦賀市立博物館の図録「大谷吉継と西軍の関ヶ原」からの抜粋ですが、暗殺計画に関する部分の口語訳は... ...続きを見る

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2016/11/26 11:14
石田三成の実像1780 旅行記81 湖東の西明寺の紅葉 奉納絵馬は佐和山合戦を描いたものではない
  写真は湖東三山のひとつ、紅葉が見ごろの西明寺の五重塔を22日に撮ったものです。  23日の佐和山での琵琶湖一周のろし駅伝に参加するために彦根に一泊しました。前日は昼前に彦根駅に着き、荷物をホテルに預け、昼食を取ってから、シャトルバスで西明寺、金剛輪寺を拝観してきました。百済寺にも行きたかったのですが、時間的に無理でした。次回に期したいと思います。シャトルバスが運行されているのは、私も今まで知らなかったので、両寺とも初めて訪れました。交通の便が悪くなかなか行けないところです。湖東三山をめぐる... ...続きを見る

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2016/11/25 10:20
大河ドラマ探訪455 「真田丸」122 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回3 秀吉の遺言状
 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」の中で、「豊臣秀吉の遺言状は存在したのか?」という話題に対して、「浅野家文書」「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書」に遺言状が残っており、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の記述が取り上げられ、講座のレジュメにも掲載されていました。その記述は、「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書」が上下段に並べて比較されている部分であり、どちらも8月5日付のもので、結論的に言えば、「重い病の床につき、この10日余り後に死を迎える秀吉の様子を見れば、下段の... ...続きを見る

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2016/11/24 10:58
石田三成の実像1779 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」5 慶長5年9月の連署状
白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、石田・毛利連合政権の発給文書について、時系列別に検討されていますが、慶長5年9月には、「9月13日付多賀秀種宛増田長盛・毛利輝元連署状」が発行されたことについて考察されています。増田や毛利と「同じく大坂城に在城していたはずの前田玄以は連署していない」ことについて、「前田玄以は京都所司代でもあった関係上、常時大坂城に在城していなかった可能性は考えられる」と指摘される一方、布谷陽子氏の見解も紹介されてい... ...続きを見る

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2016/11/22 19:04
石田三成の実像1778 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」4 二大老・四奉行発給書状
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、慶長5年7月の三成挙兵後、毛利輝元と宇喜多秀家の二大老と長束正家・増田長盛・前田玄以・石田三成の四奉行が発給した連署状は、8月1日付の木下利房宛のもの、同日付の蒔田広定宛のもの、8月2日付の真田昌幸宛のものの3通しかないこと、二大老が発給した連署状は、7月17日付の前田利長宛のもの、8月1日付の島津忠恒宛のもの、8月4日付の松井康之宛のもの、8月5日付の鍋島勝茂・毛利勝永宛のものの4通しかないこと、... ...続きを見る

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2016/11/21 12:15
石田三成の実像1777 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」3 反家康勢力の結成
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、毛利輝元が国元を出発する7月15日より前に「輝元が反家康の中核になることを決断した」と指摘されています。  その根拠として、7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状が取り上げられ、「毛利輝元、宇喜多秀家、三奉行、小西行長、大谷吉継、石田三成が相談して『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方している」という内容であり、「それに島津義弘も加わるということなので、7月15日の時点で、二大老・三奉行+小西行長・大... ...続きを見る

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2016/11/20 11:25
石田三成の実像1776 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」2 宇喜多秀家参拝の目的
 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、布谷陽子氏は「『西軍』としての二大老・四奉行体制というとらえ方をしているが」、白峰氏は「政権(豊臣公儀)の枠組みというとらえ方をしており、この中で主導的役割を果たしたのは、二大老の中では毛利輝元であり、四奉行の中では石田三成であることは明らかであるので」「当該機の政権の枠組みについて石田・毛利連合政権というとらえ方をして」います。  白峰氏は、大老や奉行の発給文書から、7月12日の時点で、「石田・... ...続きを見る

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2016/11/19 10:24
石田三成の実像1775 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」10 三成の人望
大河ドラマ「真田丸」では、秀吉の死後、関ヶ原の戦いに至るまで、三成対家康という構図でした。三成を嫌う人々が家康につくという展開でしたから、「人望がない」三成に従う武将が少ないという描き方であり、そういう点に不満を覚えました。むろん、吉継は三成に協力していましたが、味方が少ない三成を助けるという形でした。  水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」では、おわりに三成の「人望」という点について述べられていました。  江戸時代に記された「常山紀談」の「世の人石田殿をば無礼なりとて、... ...続きを見る

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2016/11/17 12:09
石田三成の実像1774 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」9 挙兵した三成の目的
 宇喜多秀家が7月5日に豊国社に参詣することで反家康の決起表明をしたかどうかについてですが、7月12日付の永井長勝宛の増田長盛書状が本物であるかという問題にも関わっています。大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)にその書状が引用されており、その書状について次のように記されています。  「『慶長年中卜斎記』が録するところの、7月12日付で増田長盛が上方の情勢を家康に報じるべく、その側近(永井直勝)に宛てた文書である。大谷吉継が美濃国樽井に病のため留まっていることと、石田三成が挙... ...続きを見る

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2016/11/16 21:05
石田三成の実像1773 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」8 反徳川闘争
 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、関ヶ原の戦いに向けての動きについて、慶長5年6月16日、家康が上杉征討軍を率い、大坂を出発した後、三成が挙兵に向けて動き出し、大谷吉継、真田昌幸、上杉景勝は挙兵計画が出来上がってから連携をとり始めたと説明されていました。  三成と上杉景勝との間にかねてより密約があったかどうかについては、見解が分かれていますが、水野氏は三成が挙兵してから上杉と連絡を取ったという見解を取っており、確かにそれまで密約があったとする史料は見つかっていません... ...続きを見る

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2016/11/15 10:50
石田三成の実像1772 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」7 家康暗殺計画事件
 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、家康暗殺計画事件の処分について、述べられていました。すなわち、前田利長は牽制軍を派遣され、征討軍を組織され、結局母の芳春院(まつ)を人質に出したこと。浅野長政は武蔵に蟄居し、三男の長重を人質を出したこと。大野治長は下総に蟄居、土方雄久は常陸に蟄居、細川忠興は三男の忠利を人質に出したこと。加藤清正も牽制軍を派遣されたこと。  しかし、前田家と縁戚関係にある宇喜多秀家に対しては干渉していませんし、利長と上杉景勝が盟約を結んでいるという噂... ...続きを見る

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2016/11/14 10:28
石田三成の実像1771 水野伍貴氏の講演「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」6 個別撃破が家康の策
 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、慶長5年の家康の上杉攻めは、三成を誘うためだったという従来の説が否定されていました。その説とは、家康が上方を留守にすれば、三成が挙兵するから、この際、敵対勢力をまとめて掃討するというもので、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)などでもそのような描き方がされています。  しかし、三成が家康の留守を衝いて挙兵に及ぶと当時の人々が考えていた一次史料は存在しないと、講演で指摘されていました。  三成が挙兵を周囲の者に明かしていなかった... ...続きを見る

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2016/11/13 11:32
石田三成の実像1770 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」5 三成襲撃事件2
 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関して、「三河物語」には、「最後には石田治部少輔(三成)一人に責任をかけて、寄り合って治部(三成)に腹を切らせようとした」という記述があることが取り上げられていました。  これと同様の記述が、「1599年度日本年報」にもあることも示されていました。  「時が経つにつれて、治部少輔(三成)のもとを離れた軍勢や武将たちの数の増大によって家康は強大になり、勝者のように、こう言うようになった。治部少輔(三... ...続きを見る

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2016/11/12 11:10
石田三成の実像1769 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」4 三成襲撃事件
 石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、七将による石田三成襲撃事件についても言及されていました。七将は、「細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長」であり、彼らは慶長の役の際に秀吉に処分を受けたことに対して三成に恨みを持った者だけでなく、そうでない者も含まれているので、この事件は恨みだけでなく権力闘争の様相を呈していると説明されていました。  まず、処分を受けた者ですが、蔚山城籠城戦の際、敵を追撃しなかったことで、蜂須賀、黒... ...続きを見る

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2016/11/11 11:30
石田三成の実像1768 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」3 三つの勢力
石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、秀吉死後の勢力関係について、三つの勢力に分けて説明されていました。  まず、一つ目の勢力として、石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の四奉行と毛利輝元の勢力、彼らは秀吉死後10日後の8月28日に盟約を結びました。  二つ目の勢力は徳川家康であり、細川忠興、長宗我部元親、島津龍伯(義久)など諸大名との結びつきを図り、伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、加藤清正、黒田長政ら諸大名と婚姻関係を結びました。  三つ目の勢... ...続きを見る

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2016/11/10 10:51
石田三成の実像1767 水野伍貴氏の講演2 白峰旬氏の「イエズス会日本報告集」の五大老五奉行の考察1
 三成祭の際、石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、秀吉の意図した五大老・五奉行制とは、「秀頼の意向を代表する役割は、五奉行の側にあり、五大老は諸大名の代表として、その施策を承認し、支えてゆく」ことだったとまとめられていました。  それを示すものとして、水野氏の講演では、「1598年度日本年報」の記述が紹介されていました。  すなわち「主君なる己が息子のことを特別に面倒を見てやり、また家族のことや、さらには日本全土のことを司って、重要な事項のすべてを家... ...続きを見る

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2016/11/09 10:43
石田三成の実像1766 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」1 五奉行と五大老とは
 石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」ですが、水野氏の講演を拝聴するのは初めてでした。もっとも、以前に拙ブログ記事で取り上げたように、水野氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号所載)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件後、蟄居した三成の動向について、家康寄りであり、その根拠として前田利長らに家康暗殺の嫌疑がかけられた時、三成が家康の意向を受けて、利長の上洛を阻止するために越前に出兵したという記述が島津家史料にあることを挙げられていました。... ...続きを見る

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2016/11/08 10:45
石田三成の実像1765 太田浩司氏の「真田丸」講座・妙源寺の法要・石田三成祭・水野伍貴氏の講演
写真は長浜市石田町で行われた三成の法要の直前の様子を撮ったものです。写真に向かって右側に石田一族供養塔がありますが、そばの紅葉が鮮やかでした。   4日から彦根に2泊して、三成の法要や関連イベントに参加してきました。当初は4日の昼頃に彦根入りして、三成の居城であった佐和山城に登る予定でしたが、初めて公開されている京都の聖ハリトリス教会の大聖堂を拝観した(イコン【聖像】が20数枚立ち並んだイコノスタスの荘厳さに心打たれました)ため、彦根入りが夕方になり、佐和山登山は今回は断念しました。 ... ...続きを見る

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2016/11/07 15:14
石田三成の実像1764 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」1 布谷陽子氏が指摘した諸点
 白峰旬氏は三成が挙兵し、「内府ちかひの条々」が出されて以降、関ヶ原の戦いまで石田・毛利連合政権が成立していたと主張されており、その見解については「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で初めて知り、拙ブログ記事でも紹介しましたが、白峰氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)で、その発給文書を時系列データベース化することにより、そこから読み取れる論点や、石田・毛利連合政権の歴史的意義について考察されています。  まず布谷陽子氏の研究ノート「関ヶ原合... ...続きを見る

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2016/11/06 23:43
石田三成の実像1763 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」6
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の最後に次のように締めくくられています。  「今後は、『旧記雑録後編三』収載の関ヶ原の戦いに関する島津家家臣の史料を詳細に検討・考察した前掲・桐野作人『関ヶ原 島津退き口』と共に、本稿で指摘できた諸点についても検討材料に加えて、関ヶ原の戦いの本戦当日(9月15日)の状況を再検討していく必要があろう」と。  桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」については、これまで拙ブロ... ...続きを見る

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2016/11/05 08:25
石田三成の実像1762 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」5 激戦の様子
  白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の中で、島津家家臣史料の検討によって、白兵戦の実態についてわかることとして、次のようにまとめられています。  「@『(家康方軍勢の)猛勢を間近くまで寄せ付けて一戦すべし』、『敵勢が間近くまで攻め寄せた時』とあるので、一方的に敵(家康方軍勢)が攻め寄せてきたことがわかり、最初から防戦だった、ということを示している、A島津勢では敵(家康方軍勢)を十分近くまで引き付けてか... ...続きを見る

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2016/11/04 10:00
石田三成の実像1761 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」4 白兵戦の実態
白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の中で、島津家臣史料の成立年代がわかるのは、寛文3年(1663)、寛文4年、寛文元年、万治2年(1659)、明暦3年(1657)であることが明らかにされています。  その作成経緯について、「関ヶ原の戦いから50年以上経過し、関ヶ原の戦いに参戦した島津家家臣が生きているうちに、その記録を提出させて薩摩藩の記録をまとめて保存しようとしたことに起因していると考えられる」と... ...続きを見る

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2016/11/03 11:16
石田三成の実像1760 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」3 早くに総崩れ
白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)では、「勝敗が決するまでの戦闘時間の経過」について、「15日早朝の戦い(家康方軍勢と小早川秀秋の軍勢による挟撃)で大谷吉継が戦死し、その後、巳の刻(午前10時頃)頃に家康方軍勢が石田三成方本隊を攻撃して、それから時間的に早い段階で石田三成方本隊の陣が総崩れになったことになる」と記されています。  「石田三成方本隊の陣が総崩れになった」という点については、島津家家臣史... ...続きを見る

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2016/11/02 11:01
大河ドラマ探訪452 「真田丸」119 「三谷幸喜のありふれた生活」方広寺鐘銘事件・清韓の意図と誤り
 朝日新聞に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」の「799 人間ドラマは細部に潜む」の中で、「方広寺鐘銘事件」のことが取り上げられています。  昔から「都合のよい四文字があったものだな」という疑問を三谷氏は持っていたが、今回「真田丸」で「驚愕の事実」が判明したと云います。  すなわち、「考証の先生のお話によれば、実際は『君臣豊楽』も『国家安康』も、そもそも豊臣方があえて選んだ言葉というのだ。『国家安康』に至っては、家康へのサービスだったらしく、文章を考えた清韓というお坊さんの『喜んで貰... ...続きを見る

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2016/11/01 10:41
石田三成の実像1759 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」2 移動理由
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)では、島津家家臣史料の記載箇所が列挙され、その内容が検討されていますが、三成方が大垣から関ヶ原へ移動したルートについては、「某覚書」の記載が紹介されています。  すなわち、「石田三成をはじめ島津義弘そのほか西国の軍勢が(14日の)夜中に大垣を立ち、南宮山下を通って、関ヶ原へ出ることになった」などと。  こういうルートを通ったことについては、オンライン三成会編「三成伝... ...続きを見る

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2016/10/31 18:49
大河ドラマ探訪451 「真田丸」118 信繁が老いを嘆いた書状の原本発見・老いた姿・大坂五人衆
 真田信繁が老いを嘆いたことを記している書状の原本が110年ぶりに発見されたという記事が25日付の新聞に出ました。原本が発見されたというのは画期的なことであり、わくわくした感動を覚えました。もっと早く見つかっておれば、「真田丸」展にも展示されていたかもしれません。  朝日新聞によると、丸島和洋氏が「実見」し、「内容や花押(サイン)などから、関ヶ原合戦での敗北後、九度山(和歌山県)に幽閉されていた1614年ごろに記された自筆の書状と鑑定した」ということです。  書状の内容については、「義兄にあ... ...続きを見る

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2016/10/30 11:09
石田三成の実像1758  白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」1 終了時間
  白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)では、島津家家臣史料の記載箇所が列挙されていますが、14ページに及ぶものであり、白峰氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)に比べて数倍の量になっています。  それらの史料の内容を検討した結果、まず9月14日から15日の気象条件・天候条件について次のように記され... ...続きを見る

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2016/10/29 11:05
石田三成の実像1757 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」3
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」には、われわれが知っている従来の布陣図とは、全く異なる新たな布陣図が掲載されていますが、関ヶ原エリアでは、大谷吉継が布陣し、前から家康方軍勢の攻撃を受け、背後から小早川秀秋の攻撃を受けたと記されています。  その図には、吉継は「開戦前に山中エリアから最前線の関ヶ原エリアへ移動して布陣」し、秀秋は「開戦前に松... ...続きを見る

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2016/10/28 10:35
石田三成の実像1756 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」2
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)には、島津家家臣史料から、次のようなことがわかると指摘されています(この論考では、島津家家臣史料の具体的記載が3ページにわたって記され、そこからわかる三成方軍勢の布陣の位置関係の記載が箇条書きにまとめられ、さらに矛盾する記載が除外され、整理されています)。  「家康方の先手の軍勢は、宇喜多秀家と石田三成の陣(備)を突き崩してから、島津義弘の陣(... ...続きを見る

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2016/10/27 10:25
石田三成の実像1755 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」1
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章には、「史跡めぐりのモデルコース」を載せていますが、各陣跡の位置は通説に従っていますし、関ヶ原町観光協会発行の本「関ヶ原ー名所古跡ー」などを参考にしました。  私は実際に各武将がその位置に布陣したと素朴に信じていましたが、そうではないことを、白峰旬氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で知りました。さらに高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」には、今の布陣位置になった経緯について述べられていますが、その記述は白... ...続きを見る

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2016/10/26 00:34
石田三成の実像1754大河ドラマ探訪450「真田丸」117「真田丸」展7 「関ヶ原合戦図屏風」4
 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展に、展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、拙ブログ記事でも取り上げているように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されており、その続きです。  関ヶ原合戦の当日の描写ですが、宇喜多勢を破る福島勢が描かれ、次のように解説されています。  「決戦場の天満山付近の情景。屹立する福島勢の『山道』の幟旗と、散乱する... ...続きを見る

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2016/10/25 10:59
石田三成の実像1753大河ドラマ探訪449「真田丸」116 「真田丸」展7 「関ヶ原合戦図屏風」3
 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展に、展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、拙ブログ記事でも取り上げているように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されており、その続きです。  杭瀬川の戦いが行われたとされる9月14日の様子について、西軍が八幡宮で祈願しているところが描かれています、その解説文に次のように記されています。  「境内にいるの... ...続きを見る

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2016/10/24 10:13
石田三成の実像1752 大河ドラマ探訪448「真田丸」115 「真田丸」展5 「関ヶ原合戦図屏風」2
 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、江戸時代初めに描かれているだけに、実際に戦いが行われた時とはあまり年数が経っていません。他の図屏風は、江戸時代後期に描かれていますから、決定的に時期が異なっています。それだけに、合戦の実相を後世のものより正しく伝えていると云えますが、家康(あるいは福島正則)が描かせたものですから、自分たちに都合のよいように描いている可能性もあり、その点は考慮して見てゆく必要性があります。  昨日付の拙ブロ... ...続きを見る

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2016/10/23 10:51
石田三成の実像1751大河ドラマ探訪447「真田丸」114 「真田丸」展4 津軽「関ヶ原合戦図屏風」
 大阪歴史博物館で開催されている「真田丸」展で、同館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」が展示されていましたが、家康の養女・満天姫が津軽藩二代藩主の信枚に嫁ぐ際、持参したものです。すでに信枚の正室であった三成の三女・辰姫に見せびらかすような行為ですが、辰姫は大舘に暮らしていましたから、この図屏風を見る機会はなかったのではないでしょうか。満天姫は信枚の正室になり、辰姫は側室に降格されます。  それは、ちょうど、本多忠勝の娘である小松姫が家康の養女という資格で信之に嫁ぎ正室となったのに合わせて、「真田丸」で... ...続きを見る

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2016/10/22 17:50
石田三成の実像1750  関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント3 馬上姿を追って・西軍勝利
 写真は関ヶ原合戦祭2016の武者行列の際の、三成に扮している山本耕史さんの馬上姿を16日に撮ったものです。なにしろ大変な人出であり、最前列に回り込めませんでしたから、決定的ないい写真が撮れませんでした。正面から撮れたと思ったものも、逆光で山本さんの姿が黒く写っていたり、ファンサービスで馬でぐるりと回っているところで、シャッターを押し、後ろ姿になっていたりしてしまいました。  上の写真の山本さんの姿も、向こうの道沿いの人々の方を向いて手を挙げているので、はっきりとした顔は写っていないのが残念で... ...続きを見る

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2016/10/21 13:20
石田三成の実像1749  関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント2 三成の極端な台詞
  写真は15日に行なわれた関ヶ原合戦祭の山本耕史さんのトークイベントの様子を撮ったものです。司会者は歴ドルの小栗さくらさんです。  小栗さんが、ネットによる「真田丸」の好きな人物ランキングで、第一回でも第二回でも石田三成が第一位に選ばれていると明かしていました。二位、三位は直江兼続、真田信幸(第一回と第二回では逆の結果)でした。山本さんは、直江兼続の物まねを披露し、会場の人々を沸かしていました。  三成はまっすぐな性格で、なんでもずばすばとものを言い、豊臣家にあくまで忠義を尽くした姿が評価... ...続きを見る

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2016/10/20 21:38
石田三成の実像1748 関ヶ原合戦祭 山本耕史さんのトークイベント1 三成の扮装で登場・武者行列も
写真は関ヶ原合戦祭2016の際の、石田三成隊の一行を撮ったものです。中央に座っているのは、「真田丸」で三成を演じた山本耕史さんです。写真が鮮明でないのが残念ですが、写真を撮るためにずらりと並んでいたので、一度しか写せませんでした。  この日は、山本さんのトークイベントが朝10時15分から笹尾山であったので、前夜は大垣に泊まり、9時20分に関ヶ原駅に到着しましたが、そこから会場まで歩く人々の姿が多く、シャトルバスに乗ろうと並んでいる人々の列も長く伸びていました。笹尾山の会場に着いたら、一杯の人... ...続きを見る

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2016/10/19 18:24
三成の実像1747白峰氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」4石田方は山中、秀秋は関ヶ原
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、藤本氏が(慶長5年)9月17日付の吉川広家自筆書状案の引用箇所について意訳したところを、白峰氏が検討し、その誤読部分が指摘されています。その詳細は省略しますが、藤本氏の誤読部分が次のように訂正されています。  「山中への先手(の予定)は、福島正則、黒田長政、そのほか加藤嘉明、藤堂高虎という上方より(上杉討伐のために東国へ)下っ... ...続きを見る

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2016/10/18 10:59
三成の実像1746白峰旬氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」3 大軍ではなかった三成方
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、「山中」を「ある特定の呼び名と限定的に考える必要はな」く、「関ヶ原の戦闘も含めて、合戦全体を包括的に『山中合戦』と呼んでいた」という藤本氏の指摘に対しても、「関ヶ原の戦い直後から『関ヶ原』と『山中』の呼称の使い分けが行われている」と白峰氏は反論を加えられています。  すなわち、「『山中』の呼称が使用される一方で、「関ヶ原」と記... ...続きを見る

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2016/10/17 10:43
石田三成の実像1745 白峰旬氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」2 笹尾山布陣は俗説
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、慶長5年9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状をめぐって、藤本氏は「石田軍が布陣したのは戦場の北寄りの笹尾山付近」と記されていますが、白峰氏はそのことは「一次史料では全く確認できず単なる俗説にすぎない」と指摘され、三成が笹尾山に布陣したことを否定した見解として、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」、乃至政彦氏の「戦国の陣形」... ...続きを見る

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2016/10/16 21:16
受贈御礼 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」1 家康は関ヶ原当日夜に佐和山に
 白峰旬氏から玉稿を多数ご恵贈賜りました。この場を借りて厚くお礼を申し上げます。  このうち、愛知中世城郭研究会発行の「愛城研報告 第20号」に発表された「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」には、関ヶ原の戦いに対する白峰氏の新見解が改めて示されています。  拙書というのは、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)のことであり、藤本氏の批判というのは、「関ヶ原合戦の松尾山城と大谷吉継の陣営」と題する論考ですが、この藤本氏の論考... ...続きを見る

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2016/10/15 17:00
大河ドラマ探訪446「真田丸」113 幸村に改名?片桐且元が信繁に入城を促す?
 大河ドラマ「真田丸」第40回「幸村」は、信繁が流されていた九度山に、明石全登、さらには片桐且元が現れて、大坂入城を促し、信繁は最初は断るものの、きりに勧められ、秀吉をはじめ、今まで関わってきた人々の姿(そのなかには三成や信繁の姿もありました)や言葉を思い出して、出陣を決意し、「幸村」という名を新たに選ぶという展開になっていました。  信繁が自ら「幸村」と名乗ったかどうかについては、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「一般に知られた『幸村』は江戸時代の創作である。最晩年まで、信... ...続きを見る

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2016/10/14 22:36
石田三成の実像1744 大河ドラマ探訪442「真田丸」109 三谷幸喜氏が片岡愛之助さんにお詫び
 9月29日付の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活796」の「次は砂漠かジャングルで」の中で、大河ドラマ「真田丸」で関ヶ原の戦いがほとんど描かれなかったことについて、述べられています。  「主人公の真田信繁が見たり聞いたりした事以外は、極力描かない。それが僕の決めたルールです」  「小早川秀秋の裏切りに怒る石田三成の姿も、冷静に事態を捉え、そして死ぬ覚悟で秀秋軍に突っ込んでいく大谷刑部の勇姿も、皆さんが頭の中で容易にイメージ出来るように、これまで細かく細かく、彼らの描写をしてきた... ...続きを見る

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2016/10/10 10:41
石田三成の実像1743 大河ドラマ探訪441「真田丸」108 信幸が改名したのは家康の命令?
 大河ドラマ「真田丸」では、真田信幸が、関ヶ原の戦いの後、家康に昌幸の「幸」の字を捨てるように言われ、「信之」に名前を改めるという描き方がされていました。  この点について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで実名を『信幸』と称し、翌6年以降に『信之』と改名する」と記されています。 信之と名乗った最初の文書について、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、次のように記されています。  慶長6年「8月5日の判物において『信之... ...続きを見る

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2016/10/09 11:43
石田三成の実像1742大河ドラマ探訪440「真田丸」107 「真田丸」展1 昌幸ら宛の三成書状
 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で、三成関係のものが何点か展示されていました。関ヶ原関連のものが主であり、慶長5年8月5日付真田昌幸・信幸・信繁宛の三成書状、前田幹雄氏が描いた三成の肖像画、内府ちがいの条々(三成の名は記されていませんが、原案を作ったのは三成だと考えています)。  この三成書状については、拙ブログ記事で何度も取り上げましたが、「真田丸」展の図録には次のように記されています。  「石田三成が、真田昌幸(房州)や信幸(豆州)、信繁(左衛門介)に送った書状。本状の段階では... ...続きを見る

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2016/10/08 10:46
三成の実像1741大河ドラマ探訪439「真田丸」106 木土博成氏の講演3 折紙書状・首が落ちる地蔵
 大阪歴史博物館で2日に開かれた、木土博成氏の講演「真田丸」で、年不詳の7月28日付の西山左京宛の真田信之書状が取り上げられ、原文、釈文が史料に載っています。特に原文は用紙1枚に印刷され、上下2段に書かれた書状を真ん中で折って、さらにそれをいくつかに折って、宛名が上に来るようにして、当時の折紙書状がどういうものか、具体的に説明されていました。  「真田丸」展の図録には、この書状について次のように解説されています。  「花押より見て真田信之が松代藩主となってからの寛永年間の書状。宛名の西山左京... ...続きを見る

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2016/10/07 10:58
大河ドラマ探訪438「真田丸」105  木土博成氏の講演「真田丸」2 焼酎を求める信繁書状
 2日に大阪歴史博物館で学芸員の木土博成氏による講演「真田丸」が開かれましたが、高野山の蓮華定院所蔵の年不詳の6月23日付の、左京宛の信繁書状が取り上げられていました。この書状は、大河ドラマ「真田丸」第39回「歳月」の「真田丸紀行」でも少し紹介されていましたが、「信繁が焼酎を求めた書状からは、仕送りに頼っていた暮らしがうかがえます」と説明されていました。  講演会では、原文、釈文がレジュメに掲載され、書状の一部を読み下し、解説されていました。  「真田丸」展の図録には、この書状について、次の... ...続きを見る

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2016/10/06 10:58
大河ドラマ探訪437「真田丸」104 大阪歴史博物館での木土博成氏の講演1 大坂夏の陣図屏風の信繁
 2日に大阪歴史博物館で学芸員の木土博成氏による講演「真田丸」が開かれ、抽選で当たったので行ってきました。大阪府教職員互助組合が主催するもので、木土氏の話によると、2倍近い倍率だったそうです。それで選ばれたのはラッキーでした。もっとも、「真田丸」で昌幸を演じた草刈正雄さんのトークイベントの際は、10倍以上の応募があったそうです。  講演の後、博物館の常設展、特別展「真田丸」を見ましたが、講演自体は70分ほどで、信繁の生涯や事蹟を語るというものではなく、特別展「真田丸」に展示されているいくつかの... ...続きを見る

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2016/10/05 18:25
大河ドラマ探訪436「真田丸」103信繁と秀次の娘との子の「御田の方」3真田家再興のために妙慶寺建立
 佐竹義宣の弟の宣家は亀田藩の藩主になりますが、その経緯について、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」書について次のように記されています。  「数年後、佐竹家に家督継承問題が発生。秀忠の指名により亀田藩藩主の岩城義隆(佐竹義宣の甥)が久保田藩藩主となる。空席となった亀田藩の藩主を重隆が勤めることとなり、『直』の夫宣家が番代となり亀田藩を治めることとなった。その後、宣家には官位が与えられ正式に藩主として認められるようになり、名も岩城宣隆と改める。  これによって側室だった『直』も正室となった」と... ...続きを見る

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2016/10/04 10:38
大河ドラマ探訪435「真田丸」102 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」2・「真田丸」では描かれず
 真田信繁と秀次の娘(隆清院)の間に生まれた「直」(御田の方)ですが、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」の「御田の方 年譜」の中で、慶長9年(1604)に生まれたと記されています。とすれば、当然、九度山に流された信繁に一緒に暮らしたことになります。昨夜放送された大河ドラマ「真田丸」第39回で、隆清院(「真田丸」では「たか」)が大坂の陣の直前の慶長19年にルソン島から戻ってきていましたが、そういう描き方では、「直」(御田の方)は無視された形です。前述したように、信繁と隆清院の間には、慶長20年には... ...続きを見る

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2016/10/03 10:35
石田三成の実像1740 大河ドラマ探訪434「真田丸」101 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」1
 「真田丸」では、真田信繁は秀次の娘を側室にしたものの、ルソン助左衛門を通じてルソンに逃すという描き方がされ、その後の姿については今のところ描かれていません。  実際は、信繁と秀次の娘の間には「おたあ」という女子が生まれ、彼女は後に佐竹義宣の弟の宣家に嫁いでいます。このことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも記しました。宣家は岩城宣隆と名を改め、「おたあ」は、岩城家の世継ぎを生んだと。秀次の娘が救われたのは、三成の存在を抜きにしては考えられないという白川亨氏の見解も取り上げ... ...続きを見る

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2016/10/02 18:45
石田三成の実像1739 旅行記81東北12 石田重成が落ち延びて暮らした津軽の深味・八幡宮・屋敷跡
写真は津軽の深味八幡宮の鳥居を9月18日に撮ったものです。奥に拝殿があり、三成の次男の子孫である杉山家関係のものがいろいろと展示されていました。前にも拙ブログ記事で述べたように、三成の孫に当たる吉成が、蝦夷地出陣の時に使ったと思われる陣幕もありました。  深味は、大坂城から逃れた三成の次男・重成が杉山源吾と名前を替えて隠棲した場所であり、神家が世話しました。神家は上方に住んでいたことがあって、会話に不自由しなかったと、神家の子孫の方が語っておられました。  片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる... ...続きを見る

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2016/10/01 10:34
石田三成の実像1738 旅行記80東北11 長勝寺の三門・強力なリーダーシップを発揮した津軽信義
 写真は長勝寺の三門を18日に撮ったも のです。津軽藩二代藩主の信枚が寛永6年(1629)年に建立しました。奥に見えているのが本堂ですが、本堂も信枚が慶長16年(1620)に造営しました。書院造の建物です。  向かって右側に小さく嘉元鐘が写っていますが、嘉元元年(1306)に鎌倉幕府執権の北条貞時が寄進したものです。その奥に庫裏の一部が写っていますが、庫裏は文亀2年(1502)に津軽の祖の大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所を移築したものです。津軽為信は、大浦為則の娘と婚姻し、為則の婿... ...続きを見る

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2016/09/30 18:19
石田三成の実像1737 旅行記79東北10 長勝寺の満天姫の御霊屋・満天姫の事績と三成一族との因縁
写真は弘前の長勝寺にある、家康の養女で津軽信枚の正室として嫁いだ満天姫の御霊屋を18日に撮ったものです。杉山家当主、息子さんと最勝院・弘前八幡神社で別れてから、訪ねました。  長勝寺には、御霊屋が五つ並んでおり、津軽為信らの藩主に交じって、満天姫の御霊屋があります。家康の養女とあって葵の紋が付いており、藩主並みの扱いがされています。  杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、満天姫の業績として、辰姫の生んだ「信義を、... ...続きを見る

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2016/09/29 10:31
石田三成の実像1736 昌幸の田んぼアート 大河ドラマ探訪433「真田丸」100 清正は暗殺か?
 写真は「真田丸」の草刈正雄さん演じる真田昌幸を表した「田んぼアート」を19日に撮ったものです。写真に向かって左側に、山本耕史さん演じる石田三成の「田んぼアート」があります。むろん、われわれは上の展望台から見下ろしているのですが、上から見てきちんとした武将の姿にするのには、相当高度なレベルが必要とされるのではないでしょうか。  「真田丸」第38回「昌幸」のラストシーンで、昌幸が死ぬ場面が描かれていました。昌幸・信繁が九度山に流されてからの10年余りのことを一回分で描くのは無理がありますが、この... ...続きを見る

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2016/09/28 18:24
石田三成の実像1735 旅行記78東北9 信義が寄進した最勝院の五重塔・杉山家の顕彰碑・信義の事績
 写真は弘前の金剛山最勝院の五重塔を、隣りの弘前八坂神社の境内から18日に撮ったものです。  写真を撮っている後ろには、杉山家12代龍江の顕彰碑が建っています。ここへは、杉山家当主と息子さんの案内で訪ねました。菩提寺である宗徳寺でお会いして、境内の代々の墓を案内してもらった後、行きました。  この顕彰碑について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、次のように記されています。  「杉山家は代々、弘前藩の重臣を務め、藩政を支えた。... ...続きを見る

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2016/09/27 10:26
石田三成の実像1734 旅行記77東北9 三成の孫の杉山吉成の墓・吉成の事績
  写真は弘前の宗徳寺にある、三成の次男・杉山源吾の息子である吉成の墓を撮ったものです。杉山家当主の杉山丕氏や息子さんの案内で訪れました。残念ながら、杉山源吾自身の墓は境内にはありません。吉成の墓は、杉山家代々の墓とは少し離れたところにあります。宗徳寺の杉山家の墓の写真は、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも掲載されており、代々の墓に「豊臣」の姓が刻まれていることが記されています。肉眼で「豊臣」の字が確認できる墓もありますし、消えかかってよくわからないものもありました。  杉... ...続きを見る

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2016/09/26 17:27
石田三成の実像1733 旅行記76東北8 三成の三女・辰姫の貞昌寺の墓・23年後に大舘から移送
 写真は弘前の貞昌寺にある、三成の三女・辰姫の墓を18日に撮ったものです。  辰姫のことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「辰姫」の章で詳しく記されていんますし、この墓も写真入りで紹介されています。私も一度お参りしたいと思っていましたが、ようやく果たしました。  「あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二」の中に、辰姫について次のように記されています。  「文禄元年〜元和9年(1592〜1623)  弘前藩二代藩主津軽信枚の側室。豊臣秀吉の正室・北政所の... ...続きを見る

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2016/09/25 10:49
石田三成の実像1732 旅行記75東北7 革秀寺の津軽為信の御霊屋・為信の事績 と三成
  写真は弘前の革秀寺にある津軽為信の御霊屋を18日に撮ったものです。弘前城を見学した後に訪ねましたが、この御霊屋も本堂も修理中でした。この御霊屋に、三成の次男である重成(杉山源吾)が大坂城から持参した秀吉の木像が安置されています。  為信の御霊屋について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)に次のように記されています。  「御霊屋は土塁に囲まれ、岩木山を背に弘前城のある東を向いて建てられている。円柱の柱などには漆が塗られ、扉には津軽家... ...続きを見る

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2016/09/24 10:46
石田三成の実像1731 旅行記74東北6 石田重成が運んだ秀吉の木像が祀られていた弘前城の館神
写真は弘前城の館神(たてがみ)跡を18日に撮ったものです。秀吉の木像を安置していた場所であり、弘前城のパンフレットには、「ごく限られた人だけが出入りできる場所でした」と記されています。  写真の手前、左右に見えるのが、鳥居の礎石であり、奥に見えているのが本殿の柱でした。秀吉の木像を運んできたのが、三成の次男の重成でした。その木像を津軽家は、江戸時代、ご神体として祀ってきたのですから、大胆なことですし、重成に対する津軽家の厚遇ぶりがわかります。重成は杉山源吾と姓名を替えますが、重臣として取り... ...続きを見る

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2016/09/23 12:10
石田三成の実像1730 旅行記73東北5 弘前城・三成の子の辰姫の墓、杉山家代々の墓にお参り
 写真は弘前城を18日に撮ったものです。城の向かって左側の奥の方に、岩木山が見えています。  弘前城を訪ねるのは、三十数年ぶりです。独身時代に、勤務していた高校の国語科のやはり独身の同僚と二人で夏休みを利用して訪ねました。あの時は、文学を訪ねる旅であり、太宰治、宮沢賢治、石川啄木などのふるさとやゆかりの地を訪れました。その時は、津軽や弘前が三成やその子孫と関わりの深い場所であることは知りませんでした。  今回はオンライン三成会の人々と訪ねたわけですが、午前中は弘前城を回り(ここもボランティア... ...続きを見る

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2016/09/22 10:36
石田三成の実像1729 旅行記72東北4 三成のものと伝わる、秋田の帰命寺の墓
  写真は秋田の帰命寺にある、三成のものと伝わる墓を17日に撮ったものです。この墓のことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「羽後・秋田」の章に詳しく書かれています。この章及び「大谷吉継」の章を担当した佐藤誠氏に、今回の東北旅行で初めてお会いしました。「三成伝説」が最初に出版されたのは、2009年のことですが、それ以前もそれ以後もネット上のつながりだけで、直接お会いしたことはありませんでした。  17日はオンライン三成会の人々と秋田で合流しましたが、佐藤氏の案内で午前中は千秋... ...続きを見る

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2016/09/21 08:55
石田三成の実像1728 旅行記71東北3 田んぼアート 大河ドラマ探訪432「真田丸」99 三成最期
   写真は青森県南津軽郡田舎館村で開かれている、大河ドラマ「真田丸」で山本耕史さん演じる三成の姿を表した「田んぼアート」を昨日撮ったものです。真田昌幸の「田んぼアート」も隣に作られていました。  オンライン三成会の有志の人々と17日に秋田、18日・19日に弘前三成や関連人物の遺跡などを訪ねましたが、この「田んぼアート」もその一つです。それらの旅行の詳細な報告は改めて拙ブログで行いたいと思います。  大河ドラマ「真田丸」第37回「信之」が放送された18日の夜は、三成が登場する最後の場面とあ... ...続きを見る

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2016/09/20 16:58
石田三成の実像1727 カラー版「決定版 三成伝説」発行・担当部分で加筆訂正したところ
 写真はこの9月15日に新たに出版された、オンライン三成会編「決定版 三成伝説」(サンライズ出版)を昨日撮ったものです。これは2009年に出した「三成伝説」と同様、カラー版のものです。モノクロ版で、サイズを少し小さくした「改装版 三成伝説」を2011年に出版していますが、今回、体裁を元通りにしたわけです。9月15日出版というのは、むろん、関ヶ原の戦いが起こった日に合わせています。もっとも、旧暦と新暦とは日がひと月余り違っていますが。旧暦で9月と云えば、季節としては秋の終わりの月であり、今と季節感... ...続きを見る

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2016/09/19 17:28
石田三成の実像1726 旅行記70東北旅行2 佐竹義宣夫人の墓? 久保田城跡2 天守も石垣も作らず
 写真は秋田の佐竹義宣夫人であった正洞院と思われる墓を16日に撮ったものです。「思われる」と記したのは、これがはっきり義宣夫人の墓だとはそばに書かれていませんし、墓に書かれた文字も消えかかっており、よく読めないからです。ただ、「佐竹義宣夫人(正洞院)の墓入口」と書かれた碑が建っており、半ば藪になっている道をたどっていくと、今度は道にシートが敷かれており、そこを登っていくと、上の写真のところに行き着きました。  正洞院は那須氏の娘であり、義宣に嫁ぎましたが、24歳の時に謎の自殺を遂げたとされてい... ...続きを見る

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2016/09/18 17:07
石田三成の実像1725 旅行記69東北旅行1 久保田城跡1 三成の盟友、佐竹義宣に贈られた手水鉢
 写真は秋田の千秋公園にある茶室の手水鉢を昨日撮ったものです。  一昨日から秋田に来ています。明日から三連休を利用して、オンライン三成会の有志の人々と秋田や弘前の三成ゆかりの場所を回ることになっていますが、自分は先に飛行機で秋田入りしました。秋田は三成の盟友であった佐竹義宣が関ヶ原の戦いの後、常陸から転封になった地であり、秋田にある帰命寺に三成のものと伝わる墓があります。  また津軽は、関ヶ原の戦いの後、三成の二男の重成が落ち延びた地であり、この地で杉山源吾と名を替え、津軽藩で重く用いられま... ...続きを見る

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2016/09/17 09:01
石田三成の実像1724 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」2 嶋左近の新史料・若江八人衆の奮戦
 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」(『歴史人』9月号所収)の「島左近」で、新しく発見された天正18年7月付の嶋左近書状についても触れられ、「左近は三成の『外交官』として重用されていた一面が窺えるという」と記されています。また「島左近」のタイトルの小見出しにも、「『三成に過ぎたるもの』と称された歴戦の猛将にして、外交にも絡む敏腕軍師」と記されていますが、そういう新史料の発見が取り入れられた形になっています。  この書状には「嶋」と署名されていますから、タイトルも「嶋左近」とした方がよいと思います... ...続きを見る

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2016/09/16 09:22
石田三成の実像1723 大河ドラマ探訪432「真田丸」98 ガラシャの自害をめぐって・三成の入城時期
 大河ドラマ 「真田丸」では、本当は信繁の妻の一人であった「きり」をいろいろな人物と絡ませていますが、少々やり過ぎの感があります。秀次も出奔する時に、きりの様子を見に来ていましたし(秀次はきりを側室にする意思を示していました)、きりは細川ガラシャの最期も見届けていました。  細川ガラシャが家臣に槍で突かせたというよく知られた場面も出てきましたが、これが史実であるかはわからないということが、金子拓氏の「記憶の歴史学」(講談社選書メチエ)で指摘されており、そのことは以前に拙ブログで取り上げしました... ...続きを見る

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2016/09/15 00:12
石田三成の実像1722  江宮隆之氏「三成と家臣団の絆」1 信頼できる家臣を得るために 
 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」(『歴史人』9月号所収)で、「豊臣秀吉に仕えた際の『自分一人(ゼロからの出発)』に始まった石田家臣団が、関ヶ原の時点では5000人以上になり、しかもすべてが三成の『義』のために奮戦した」と記されています。  三成の思いとして、「信頼できる家臣が欲しい。そのためには、自分が与えられた禄のすべてを費やしてもよい」と述べられ、「常に『良き家臣』『信頼できる相談相手』になり得る人材を探し求め」、その結果「一本釣りした猛将・勇将の類(たぐい)もあれば、改易になった大名た... ...続きを見る

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2016/09/14 10:39
石田三成の実像1721 大河ドラマ探訪431「真田丸」97 犬伏の密議前後の描き方・昌幸の加増要求
 大河ドラマ「真田丸」第36回「勝負」は、第二次上田合戦を中心に描かれていましたが、びっくりしたのは、関ヶ原に家康と三成・吉継が布陣する場面が少しあっただけで、佐助が真田昌幸・信繁や家臣たちの前で関ヶ原の戦いの結果を報告するという流れになっていたことでした。むろん、次回に時間を遡って関ヶ原の戦いの様子や大谷吉継の最期も描かれるのではないかと思われますし、その後の三成の処刑の場面も出てくるはずです。しかし、ドラマとしては、先に結果を明らかにしてしまうのは、いくらその結果が周知の事実とはいえ、興ざめ... ...続きを見る

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2016/09/13 21:24
京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」2 豊後橋近くの太閤堤跡・向島城の遺構を示す段差 
 NHKで放送された「ブラタモリ 伏見」では、木幡山伏見城跡をタモリさんらは梅林秀行氏の案内によって歩いていましたが、梅林氏の「京都の凸凹を歩く」(青幻舎)では、残念ながら木幡山伏見城は取り上げられていません。  「巨椋池」の章で、秀吉がすべての道を伏見に通じるようにした巨大工事の痕跡が取り上げられています。当時は伏見城の南に大きな巨椋池があり、その池の上に新たな大和街道を作り、巨椋池を東西に分断していました。その新たな大和街道が太閤堤と呼ばれているものです。小倉堤ともいいます。  京阪宇治... ...続きを見る

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2016/09/12 10:18
石田三成の実像1720 大河ドラマ探訪430「真田丸」96 三成挙兵で、吉継が主導権を発揮?
大河ドラマ「真田丸」第35回「犬伏」では、前回の最後から時間を少し遡って、三成が家康に対して挙兵することを吉継に呼びかける場面が描かれていました。もっとも、「真田丸」では通説とは違って、三成が垂井まで吉継を訪ねたものの、吉継が返事を保留したので、三成が一晩吉継のところに泊まるという展開になっていました。  三成が挙兵した際の詳細については、一次史料が残っていないため、後世の編纂ものに頼るしかないのが実情です。よく言われるのが、吉継は負けるとわかっていた戦いに、三成への友情のために殉じたとい... ...続きを見る

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2016/09/11 14:53
石田三成の実像1719 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」4 三成を隠居させた家康の意図
 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、「家康は、秀吉によって罰せられた武断派武将を取りなすことで、自己の人脈をふやしていった」と記され、三成襲撃事件のことにも触れられています。  小和田氏の同書では、武断派が三成を襲撃しようとした際、三成が家康屋敷に逃げ込んだとする通説は間違いで、伏見城の治部少輔丸であったと記されており、「真田丸」でもそのように描かれています。正しい見解がようやく受け入れられてきたことには嬉しく思いますし、評価できます。三成のことが好... ...続きを見る

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2016/09/10 11:25
石田三成の実像1718 「歴史人」渡邊大門氏の「三成『黒幕説』の真偽を検証する」 清正蟄居?
 「歴史人」9月号に渡邊大門氏の「三成『黒幕説』の真偽を検証する」が掲載されています。三成が策謀したとされる数々の事件に、それが事実であるかどうかを検証したものですが、千利休切腹事件、豊臣秀次一族抹殺事件、加藤光泰怪死事件、蒲生氏郷毒殺疑惑、加藤清正蟄居事件、小早川秀秋左遷事件について、それぞれさまざまな角度から論じられ、その大半の三成黒幕度は低くなっています。それには大いに共感できますが、ただ加藤清正蟄居事件だけは、三成黒幕度が95パーセントになっており、納得できませんでした。  そもそも清... ...続きを見る

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2016/09/09 10:55
石田三成の実像1717 「歴史人」童門冬二氏の「石田三成の『義』とは何か?」2 私物化?三成の美徳
 「歴史人」の童門冬二氏の「石田三成の『義』とは何か?」の中で、徳川家康への嫌悪感が三成の行動原理となったと述べられています。  同書には、死の直前の秀吉と三成との間に次のような会話があったのではないかと想像されています。  「佐吉(三成の幼名)よ、世の風向きは家康に向いてきたな」  「そのようです。しかし私は絶対に風には乗られません。あらゆる手を使って妨げます。場合によっては家康を葬ります」  「たのむぞ、わしの願いは秀頼を天下人にすることだ」と。  「真田丸」では、死ぬ直前の秀吉が... ...続きを見る

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2016/09/08 10:38
石田三成の実像1716大河ドラマ探訪429「真田丸」95太田氏「『真田丸』講座二」7 官途・秀次切腹
 8月27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、戦国時代の官途は、みんな朝廷から正式にもらったのかという点が取り上げられ、大名の家臣は私称が多いということが指摘されていました。  このことにな関して、講座の資料で取り上げられていたのは、講談社総合編纂局「戦国ものしりガイド」の「武将の叙位任官」の部分でした。  その中で、室町期以降、「幕府や朝廷の関知しない私的な官途・受領の名のりが増加していった。戦国期においても、大名自身の官途は旧来のやり方に則って... ...続きを見る

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2016/09/07 18:00
石田三成の実像1715大河ドラマ探訪428「真田丸」94太田氏「『真田丸』講座二」6 秀吉の秀頼溺愛
8月27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、米原正義氏の「千利休のすべて」(新人物往来社)が取り上げられたことは前述しましたが、米原氏の同書では、利休は切腹したのではなく、生きていたということが結論付けられています。その根拠となっているのは、利休切腹の翌年の文禄元年の5月6日付で、秀吉が大政所の侍女に宛てた親書の「きのふりきうの茶にて御せんもあかり」という記述です。米原氏の同書では、「秀吉が利休を切腹させたことを後悔していると解釈する」桑田忠親氏、林... ...続きを見る

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2016/09/06 10:40
石田三成の実像1714 大河ドラマ探訪427「真田丸」93 太田氏「『真田丸』講座二」5 売僧の利休
 8月27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、沼田領裁定について「真田丸」で描かれていたように、北条方、徳川方、真田方を呼び出して秀吉の前で裁判の形で裁定が下されたわけでないことを、天正17年11月24日付の豊臣秀吉朱印状をもとに説明されていました。このことは、拙ブログ記事で取り上げたことがありますが、その書状の中で、北条側の板部岡江雪斎を秀吉が呼び出して、沼田領の三分の二を北条氏に割譲し、三分の一を真田昌幸が引き続き支配するということを告げたことが記... ...続きを見る

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2016/09/05 10:31
石田三成の実像1713 大河ドラマ探訪426「真田丸」92 三谷幸喜氏「石田三成の『ミニ関ヶ原』」
 大河ドラマ「真田丸」第34回「挙兵」は、三成が家康襲撃計画を断念し、しばし謹慎ののち、政務に復帰するものの、前田利家の直後に起こった武断派七将による三成襲撃事件が起こり、その仲裁に当たった家康によって、三成は奉行職を解かれ、佐和山に蟄居させられていました。その後、家康は「天下人」のように専横を極めるわけですが、「真田丸」では、家康が前田利長を家康暗殺を謀った罪で屈服させる場面は描かれず、いきなり話は一年後に飛び、直江状に怒った家康が、会津攻めを決定し、家康が大坂を発った後に、大坂城には宇喜多秀... ...続きを見る

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2016/09/04 11:54
石田三成の実像1712 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」3  早くから対立はあったのか
小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、三成ら吏僚派と加藤清正・福島正則ら武断派との軋轢が、朝鮮出兵以前からあったように記されています。天正16年4月15日の聚楽第行幸の際、秀吉家臣団のトップに従ったのが三成であることに、武断派武将らにとってはおもしろくなかったと思われると述べられていますが、彼らの心中はわからないものの、吏僚派と武断派と対立が以前からあったという捉え方に基づくものです。  小和田氏の同書では、秀吉が三成を評価していたことがわかる点とし... ...続きを見る

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2016/09/03 10:14
石田三成の実像1711 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」2  戦いも知らない三成?
 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、文禄の役の際、奉行として渡海した三成に対して、清正らが「戦いも知らない」と言ったというふうなことが記されていますが、「戦いを知らない」ということは当たりません。それまでの戦いにおいて三成や吉継がもっぱら兵站奉行を務めたことは事実ですが、北条攻めの際、三成は総大将として館林城、忍城を攻めています。文禄の役の際も、戦況を眺めていただけではなく、幸州山城の戦いでは負傷もしています。  また碧蹄館の戦いでは、三成が戦略を立... ...続きを見る

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2016/09/02 07:48
石田三成の実像171 0 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」1 讒言説や地震加藤説の踏襲
 小和田哲男氏の「家康との政争 『武断派はなぜ三成を憎んだのか?』」(『歴史人』9月号所収)でも、加藤清正が三成によって講和交渉を妨害したと秀吉に報告されたため、帰国させられ謹慎処分になったものの、慶長大地震の時にいち早く家臣を連れて伏見城に登城したので、秀吉に喜ばれ、謹慎が解かれたという通説がそのまま記されています。  拙ブログ記事でたびたび触れているように、この通説については、さまざまな点から疑問が呈されています。熊本日日新聞社発行の「加藤清正の生涯」には、慶長大地震が起こった直後の閏7月... ...続きを見る

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2016/09/01 10:21
石田三成の実像1709大河ドラマ探訪425「真田丸」91 太田浩司氏「『真田丸』講座二」3忍城攻め1
 27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、 忍城の水攻めは「真田丸」で描かれていたように、水攻めは三成が思いついたことではなく、秀吉の命令だったことを、当時の一次史料をもとに解説されていました。  そのうち7月6日付の上杉景勝・前田利長・木村常陸介・山崎堅家宛の豊臣秀吉朱印状について、次のように解説(行田市郷土博物館発行の図録「石田三成と忍城水攻め」より)されています。  「小田原城が開城し、北条氏政らの切腹と引き換えに、籠城した諸兵の助命を認め、... ...続きを見る

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2016/08/31 08:13
石田三成の実像1708大河ドラマ探訪424「真田丸」90 太田浩司氏「『真田丸』講座二」3忍城攻め1
 27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、沼田領裁定について「真田丸」で描かれていたように、北条方、徳川方、真田方を呼び足して秀吉の前で裁判の形で裁定が下されたわけでないことを、天正17年11月24日付の豊臣秀吉朱印状をもとに説明されていました。このことは、拙ブログ記事で取り上げたことがありますが、その書状の中で、北条側の板部岡江雪斎を秀吉が呼び出して、沼田領の三分の二を北条氏に割譲し、三分の一を真田昌幸が引き続き支配するという裁定を秀吉が下したことが... ...続きを見る

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2016/08/30 09:39
石田三成の実像1706 太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」1 嶋左近書状1
  昨日長浜で行われた太田浩司氏による「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」を第一回に引き続いて聴きに行きました。ドラマと史実の違いをいろいろな史料をもとに論じるもので、今回も大いに勉強になりました。  まず新たに発見され、三成重臣の嶋左近の書状について触れられていました。嶋左近は「真田丸」の21日の放送で初めて出てきていましたが、槍の稽古に励み勇猛な武将を彷彿とさせる登場ぶりでした。恐らく関ヶ原の戦いで、奮戦する嶋左近の姿も描かれるのではないでしょうか。しかし、嶋左近の書状から見ら... ...続きを見る

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2016/08/28 11:21
石田三成の実像1705  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」11 三成の再評価
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、谷口央氏は関ヶ原の戦いにおいて、福島正則がキャスティングボードを握っていると指摘されていました。家康は正則と池田輝政をセットにし、黒田長政・藤堂高虎を後につけ、またそれぞれの城に番衆を置き、負けた場合を想定していたことも明らかにされていました。  家康の着実さ、不安ぶりが伝わってきますが、西軍ももしもの場合を想定して、三成が佐和山に戻って、いろいろと手配したのではないでしょうか。  関ヶ原が戦場になったことについて、外岡慎一郎氏は三... ...続きを見る

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2016/08/27 10:05
石田三成の実像1704 大河ドラマ探訪423「真田丸」89 家康襲撃計画?3 三成上屋敷が描かれず
 大河ドラマ「真田丸」で、伏見城の地図が出ていましたが、おかしな点がありました。三成は伏見城内の治部少輔丸にいたのに対して、家康は自分の上屋敷にいました。家康屋敷の隣には宇喜多秀家の屋敷があり、そこから信繁ははしごを渡して家康を攻撃しようと言っていました。家康屋敷、宇喜多秀家屋敷の位置はそれでいいのですが、「真田丸」で描かれていなかったものの、家康の上屋敷のすぐ南には三成の上屋敷がありました。三成は普段は上屋敷におり、政務がある時には治部少輔丸に登城していたものと思われます。  だから、三成... ...続きを見る

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2016/08/26 11:07
石田三成の実像1703 大河ドラマ探訪422「真田丸」88 家康襲撃計画?2 惣無事を自ら破る?2
 「真田丸」では、三成による家康襲撃計画(私はそういうものはなかったと思っていますが)、三成の依頼を受けた真田信繁が直江兼続に、上杉が三成に与力するよう頼んでいましたが、兼続は最初きっぱりとそれを断っていました。「真田丸」では、三成と兼続の親しさがもう一つ出ていない気がします。この前年、上杉氏が会津に転封になった時、三成は兼続とともにその差配に携わり、連名で掟書を出しています。大河ドラマ「天地人」の時には、.兼続と三成の親しさが前面に出ていましたが、「真田丸」では、信繁が主人公になっているため... ...続きを見る

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2016/08/25 11:03
石田三成の実像1702 大河ドラマ探訪421「真田丸」87 家康襲撃計画?1 惣無事を自ら破る?1
 大河ドラマ「真田丸」第33回「動乱」は、三成が家康屋敷を襲撃しようとするものの、結局は断念するまでの経緯を中心としてストーリーが展開していました。それは慶長4年1月21日のこととして描いていました。  家康による秀吉の遺命違反問題をめぐって、家康と三成らが対立したのは事実ですが、このことについて、尾下成敏氏の「前田利家の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、次のように記されています。  「1月19日、家康と毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田玄以・浅野... ...続きを見る

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2016/08/24 10:22
石田三成の実像1701  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」10 真田家の選択・秀忠の遅参をめぐって
11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、いろんな観点から、谷口央氏、鳥津亮二氏、外岡慎一郎氏による話し合いが行われました。司会は太田浩司氏です。  まず真田家が関ヶ原の戦いの際、東西に分かれたことについて、谷口氏は、分かれる家と分かれない家があり、真田家は昌幸が上田、信幸が沼田と所領が分かれており、家臣団も別々だったから可能だったと指摘されていました。このことについては、7月にやはり長浜で行われた黒田基樹氏の講演会でも言及されていました。外岡氏も真田家はそれぞれが独立してい... ...続きを見る

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2016/08/23 10:37
石田三成の実像1700 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」9 外岡慎一郎氏の講演2 敦賀から関ヶ原へ
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の、外岡慎一郎氏のスポット講演で、吉継は伏見城攻略の折、吉継が伊勢・近江国境に築いた城の守将になっており、家康を迎え撃つつもりだということが8月1日付の黒田如水書状に記されていることが紹介されていました。伏見城が落城したのは、8月1日です。  7月30日に、吉継は真田父子に書状を書いていますが、この時は大坂にいました。  吉継は前田利長越前進攻への対応として、敦賀に向かっています。前田軍は3日に大聖寺城を陥落させますが、金沢に撤退す... ...続きを見る

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2016/08/22 10:41
石田三成の実像1699 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」8 外岡慎一郎氏の講演1 吉継合力という見方
11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の、外岡慎一郎氏によるスポット講演は「大谷吉継の関ケ原合戦における立場」という題名が示す通り、吉継がなぜ三成の挙兵に賛同したのかなどや、関ヶ原の戦い前後の吉継の動向に絞って述べられていました。  佐和山の三成に呼ばれた吉継が、三成の説得に応じたということが一般には知られていますが、それが記されているのは軍記類であり、三成が首謀者で、吉継はそれに合力したという捉え方ははたして正しいのかという疑問が示されていました。それに対して、吉継が主体的に... ...続きを見る

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2016/08/21 10:43
石田三成の実像1698 大河ドラマ探訪420「真田丸」86 秀吉死後も横柄さは変わらないという描き方
 大河ドラマ「真田丸」第32回「応酬」は、秀吉の死後直後から、家康が秀吉の遺命に違反した問題までを中心として物語が展開していました。真田信繁が秀吉の馬廻だったというのは史実として確かめられていますが、その後、「真田丸」で描かれているように三成のそばに仕えていたのかどうかについては、私自身、寡聞にしてよく知りません。  「真田丸」で、三成が家康に負けじと、屋敷に味方になりそうな人々を呼んでもてなそうとした時や、朝鮮半島から帰った加藤清正ら武将をもてなす時も、三成は途中で中座して細川忠興や清正の不... ...続きを見る

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2016/08/20 10:59
石田三成の実像1697  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」7 鳥津亮二氏の講演3 関ヶ原までの行長
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の、鳥津亮二氏の講演会で、関ケ原合戦前後の行長の動向について説明されていましたが、昨日の拙ブログ記事の続きです。  8月上旬、三成らと「美濃口」に布陣。行長の兵2900、行長の「与力四人」の兵4000(『備口人数』、真田家文書)  この「真田家文書」の「備口人数」が、長浜市長浜城歴史博物館発行の図録「石田三成と西軍の関ケ原合戦」に掲載されています。これは8月5日付の真田昌幸宛の石田三成書状に記されたものであり、次のように解説されてい... ...続きを見る

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2016/08/19 10:23
石田三成の実像1696  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」6 鳥津亮二氏の講演2 行長最後の上洛
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ヶ原合戦」の中の鳥津亮二氏のスポット講演で、関ヶ原合戦前後の行長の動向について述べられていましたが、昨日付の拙ブログ記事の続きを記します。  小西行長は慶長4年閏3月上旬、前田玄以・増田長盛・長束正家の使者の指示を受け、島津忠恒を伏見に送る(『種子島家譜』)。  この後、行長は8月から翌年1月にかけて、肥後に在国し、領内統治の一方で、島津家内で起こった庄内の乱の対応に当たっています。これについては「内府」=家康からの指示をうけてのことだが、行長自... ...続きを見る

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2016/08/18 10:47
石田三成の実像1695  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」5 鳥津亮二氏の講演1 小西行長の動向
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、鳥津亮二氏のスポット講演「小西行長と関ヶ原合戦」がありました。鳥津氏の講演会は数年前、堺で聴いて以来です。今回はスポット講演で20分足らずの時間しかなく、「小西行長ってどんな人?」「慶長4年から慶長5年・関ヶ原合戦における動向」「行長はなぜ西軍だったのか」の3点に絞って説明されていました。  講演会のレジュメには、行長の略歴が掲載されていますが、永禄元年(1558)生まれですから、三成より2才年上です。行長は豊臣政権で船の調達などを務... ...続きを見る

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2016/08/17 10:45
石田三成の実像1694  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」4 谷口央氏の講演4 政権維持は不可能?
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の、谷口央氏による基調講演の中で、むすびとして次のような点が挙げられていました。  @宇喜多氏、島津氏、伊達氏(長宗我部氏、毛利氏も含めて)など多くの家で御家騒動が起こったが、豊臣政権への臣従化の結果であり、特に西軍諸将は、豊臣政権に頼っていた家が多かったこと。  A御家騒動もしくは不戦の家の特徴は、旧来からの領地を持ち、そこから移動しなかった大名家中が多かったこと。上述の各大名はいずれもそうだったといいます。  B御家騒動は豊臣政権... ...続きを見る

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2016/08/16 18:52
石田三成の実像1692 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」2 谷口央氏の講演2 朝鮮出兵と民衆・取次
 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の谷口央氏の講演で、「朝鮮出兵と民衆」と題して、宇喜多領、毛利領、佐竹領の実態を記した史料を挙げながら、「高麗陣夫」の農民の負担が大きくなり、逐電が相次ぎ、荒れた土地が増えたことが明らかにされていました。その結果、民衆の政権離れが進んだと述べられていました。  三成が危惧したのは、こういうことではなかったでしょうか。安定した平和な社会を作るのに奔走していた三成にとって、朝鮮出兵は害になるだけだとわかっており、それだけからこそ当初から出... ...続きを見る

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2016/08/14 11:17
石田三成の実像1691 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」1谷口央氏の講演1 太閤検地の実態
 11日に長浜ロイヤルホテルで、シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」が行われ、聴きに行きました。谷口央氏による基調講演、鳥津亮二氏、外岡慎一郎氏によるスポット講演の後、彼らをパネラー、太田浩司氏をコーディネーターとしたシンポジウムが行われましたが、敦賀の学生団体と長浜の「すずめの学校のみなさん」による、それぞれ大谷吉継、石田三成の生涯をコンパクトにまとめた紙芝居も上演され、多彩な内容でした。  谷口氏の講演は「関ヶ原への道ー西軍諸将を中心にー」と題するもので、「なぜ短期間で豊臣政権は崩壊したのか」... ...続きを見る

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2016/08/13 10:49
石田三成の実像1690 「歴史人」童門冬二氏の「石田三成の『義』とは何か?」1 三成の忠誠心?
 「歴史人」九月号に石田三成のことが特集されています。「忠義か?野望か?なぜ石田三成は豊臣家に殉じたのか?」と題するもので、学者や作家などがいろいろな角度から三成の実像に迫っています。その中心は三成の名誉回復でありその点は大いに評価できますし、ここまで三成が見直される時代がきたことに感慨を覚えます。もっとも、書かれている内容については、その通りと納得できるものがある一方、これは違うと疑問を感じるものもありました。相変わらず従来からの捉え方がされているものもあります。  まず童門冬二氏の「あくま... ...続きを見る

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2016/08/12 10:20
石田三成の実像1689 大河ドラマ探訪419「真田丸」85 家康暗殺計画をめぐって 
 大河ドラマ「真田丸」31回「終焉」で、死ぬ前の秀吉は、三成に対して「家康を殺せ」と命じていました。三成は真田昌幸に家康暗殺を頼み、その意を受けた出浦昌相が家康屋敷に忍び込むものの、その侵入に気づいた真田信幸が、そのことを告げたので、昌相は暗殺に失敗し、本多忠勝に斬られ、真田屋敷に逃げ帰るものの瀕死の重傷を負うという展開でした。  この時の家康暗殺計画はむろん、フィクションですが、後に起こったとされる家康暗殺計画の伏線かもしれず、ひょっとして、真田家お抱えの佐助なども家康を暗殺しようとする場面... ...続きを見る

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2016/08/11 21:48
石田三成の実像1688大河ドラマ探訪418「真田丸」84秀吉の死 小日向氏と山本氏のインタビュー記事
 大河ドラマ「真田丸」31回「終焉」の、秀吉の最期はインパクトがありました。絶やさないようにと言ってあったろうそくの火が消え、家臣を呼び出す呼び鈴が下にころがっており、それを取ろうとしてばたっと倒れ、そのまま息絶え秀吉の目から涙が一筋れるという描き方でした。  「歴史人9月号」に石田三成のことが特集されていますが(その内容については追々拙ブログ記事で取り上げていきたいと思います)、秀吉を演じた小日向文世さんのインタビュー記事が掲載されています。その中に、秀吉の最期についても触れられています。 ... ...続きを見る

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2016/08/10 18:09
石田三成の実像1687大河ドラマ探訪417「真田丸」83 秀吉遺言状をめぐって 家康が作成させた覚書
 大河ドラマ「真田丸」第31回「終焉」は、秀吉の最期を中心にドラマが展開していました。8月5日付で秀吉が五大老宛てに書いた、秀吉のことをよろしく頼むという有名な遺言書は、「真田丸」では、家康が秀吉に無理に書かせたという展開になっていました。それを知った三成・大谷吉継・真田信繁が、秀吉のもとに行き、その遺言書に奉行衆にも相談するようにとの文言を書き加えさせていました。  この遺言書は、昨年行われた「大関ヶ原展」で展示され、その時の図録にも掲載されています。「豊臣秀吉自筆遺言状案」と題され、山口の... ...続きを見る

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2016/08/09 10:35
京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」1 指月伏見城跡の高低差が示すもの
 倒壊した伏見城は指月の丘に建っており、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を建てますが、「真田丸」では、地震が起こる前の時点で、昌幸が木幡山に目を付け、ここに出城をこしらえたら、伏見城を落とせると言っていました。ここのあたりはフィクションだということは拙ブログ記事で前に述べましたが、確かに木幡山は指月の丘よりは高く、木幡山から指月の丘を攻撃するのはたやすかったのではないでしょうか。結果的に木幡山伏見城は堅固な城に仕上がり、慶長5年、三成が家康に対して挙兵した際も、西軍が木幡山伏見城を攻めますが、... ...続きを見る

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2016/08/08 10:30
石田三成の実像1686 大河ドラマ探訪416「真田丸」82「秀吉チルドレンそれぞれの正義」7 確執?
 文禄の役で、清正が漢城に戻ったのは文禄2年2月末のことですが、それまで咸鏡道にとどまり、奉行らの撤退命令に応じませんでした。  秀吉が明攻めを命じたことを後悔し、朝鮮半島の支配確立が最重要課題と位置付けたという内容の、清正宛の秀吉朱印状が、熊本日日新聞社発行の「加藤清正の生涯」に掲載されていますが、その解説に次のようなことが記されています。  「石田三成は『漢城への撤退命令を何度も出したが、清正は戻ってこなかった』と秀吉に報告。別の奉行も清正と同じ部隊の鍋島直茂宛ての書状で『咸鏡道での清... ...続きを見る

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2016/08/07 10:49
石田三成の実像1685 大河ドラマ探訪415「真田丸」81「秀吉チルドレンそれぞれの正義」6文禄の役
NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」では、文禄の役で渡海した三成・大谷吉継・増田長盛が名護屋の諸将に内々で記した三奉行連署状案が取り上げられ、三成たちがこの戦いの状況について、「兵糧が底をつきかけている」「兵士の数が足りない」などという記述があり、唐入りの続行は困難だと主張し、清正ら武将らの苦境を報告し秀吉を必死に説得しようとしたといわれていると解説されていました。  この書状については、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)や、名護屋... ...続きを見る

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2016/08/06 11:47
石田三成の実像1684大河ドラマ探訪414「真田丸」84「秀吉チルドレンそれぞれの正義」5名護屋城 
 NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」の中で、山本耕史さんは熊本の清正の菩提寺である本妙寺を訪ね、猿の石像にまつわる逸話を、住職さんから聞いていました。清正が論語を読んで参考になるところに、朱筆を引いていた時に、清正が座をはずして戻ってくると、猿が朱筆で本をめちゃくちゃにしていたが、清正はそれを怒らず、「勉強がしたいという心がけが感心じゃ」と猿を抱いて頭をなでながらほめたと。  山本さんは熊本城の設計やこの話を聴いて、三成にとってライバルの清正がかわいらし... ...続きを見る

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2016/08/05 11:30
石田三成の実像1683 大河ドラマ探訪413「真田丸」79 秀吉の亡くなった年は三成は大半上方にいず
 大河ドラマ「真田丸」の第30回 「黄昏」では、慶長の役に出陣する加藤清正が、三成同席のもと秀吉に対面する場面がありました。三成が「殿下の前で涙は見せるな」と清正に言ったのに対して、清正はうなずきながらも、「秀頼のことをよろしく頼む」と言われて泣き崩れる場面がありました。情けに厚い清正の姿が浮き彫りになっていましたが、かつて清正が三成に向かって「おまえには情けっていうものがないんだよ」と言っていた場面と呼応していました。三成は冷徹な人物という設定ですが、時に熱くなることもある場面も用意されていま... ...続きを見る

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2016/08/04 15:48
石田三成の実像1682 大河ドラマ探訪412「真田丸」78 信幸や兼続との親しさが描かれていない不満
 大河ドラマ「真田丸」の「黄昏」で、秀吉が上杉景勝と直江兼続に会津に転封を命じる場面が出てきました。「真田丸」には、「天地人」の時と違って、三成と兼続が仲がよかったというところは今のところ出てきません。この後、会津転封に関して、三成も会津に出向き、兼続と連署して、禁制を発しています。この後、三成は上杉氏の旧領である越後へ出向き、代官として藤井堰の掟を発しています。三成が佐和山に戻って来たのは5月3日のことです(典拠『義演日記』 中野等氏「石田三成の居所と行動」所載)から、その間、三成は上方にいま... ...続きを見る

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2016/08/03 10:54
石田三成の実像1681 大河ドラマ探訪411「真田丸」77 清正は蟄居していず・明との交渉決裂の真実
 大河ドラマ「真田丸」第30回「黄昏」では、文禄5年閏7月13日に起こった伏見大地震から、明との交渉決裂、慶長の役の開始、醍醐の花見、秀吉の病床、形見分けなどを中心にドラマが展開していました。  伏見大地震が起こって、清正が大坂から伏見に駆け付けたという描き方になっていましたが、清正が蟄居中ということは一言も出てきませんでした。これは最新の研究成果が反映しているからだと思われます。  以前拙ブログ記事でも取り上げたことですが、熊本日日新聞社編の「加藤清正の生涯」の中で、地震直後の閏7月15日... ...続きを見る

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2016/08/02 10:34
大河ドラマ探訪410「真田丸」76 「知恵泉 戦国武将・宇喜多秀家と豪姫」3
 NHKで放送された番組「知恵泉 世界一の夫となるには?戦国武将・宇喜多秀家と豪姫を」で、秀家が慶長3年(1598)、27才の若さで五大老に選ばれたことに触れられていましたが、この異例な出世には、実力が評価されただけではなく、秀家と豪姫の互いの愛情を隠さない二人のストレートな愛情表現が深く関係したかもしれないと解説されていました。  そういう見方は極端かもしれませんが、秀吉が豪姫の夫である秀家に期待していたのは確かであり、それが五大老の抜擢につながったのでしょう。  この点について、大西泰正... ...続きを見る

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2016/08/01 10:40
大河ドラマ探訪409「真田丸」75 「知恵泉 戦国武将・宇喜多秀家と豪姫」2 浪費家?改宗を命じる?
 大河ドラマ「真田丸」では、これから関ヶ原の戦いへ向かってドラマが進んでいくにつれ、秀家が登場する機会が増えてくるのではないかと想像されます。  NHKで放送された番組「知恵泉 世界一の夫となるには?戦国武将・宇喜多秀家と豪姫を」で、昨日付の拙ブログ記事で秀家が秀吉に鷹や竹を多数の贈答や戦役の出費などが、家臣の中には領国経営の負担になると不満を述べる者がいたことなとが取り上げられていました。  猿楽については、番組では取り上げられていませんでしたが、猿楽についても、多額の出費がされていました... ...続きを見る

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2016/07/31 11:06
大河ドラマ探訪408「真田丸」74 「知恵泉 世界一の夫となるには?戦国武将・宇喜多秀家と豪姫」1
 大河ドラマ「真田丸」で、宇喜多秀家が最初に登場していたのは、秀吉の子の鶴松が危篤の際のことで、三成が豊臣一族を集めて、今後のことをよろしく頼むと言っていた時でした。拙ブログ記事で記したように、三成がこういうことを言ったかどうかは史料的に確認されていず、ドラマ的な描き方だと思われますが、この天正19年の時点で、秀家は豊臣一族と認識されていたという捉え方がされていたことになり、これは正しい見方だと思われます。  秀家が秀吉の姻戚になったのは、秀吉の養女である豪姫と婚姻を結んだからですが、秀家と豪... ...続きを見る

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2016/07/30 11:40
石田三成の実像1680  「片岡愛之助の解明!歴史捜査」2 統治能力・忍城の水攻めはできなかった
 BSで放送された「片岡愛之助の解明!歴史捜査 豊臣に命を捧げた戦国武将 石田三成の実像を追え」は、三成の姿が江戸時代に歪められたことがテーマの中心でした。その一つに「石田軍記」が挙げられ、拙ブログで前に取り上げたように、家が貧しくて寺に預けられた記述が間違いであることが確かめられていました。「石田軍記」には、千利休切腹事件や豊臣秀次切腹事件が三成の策謀によるものであると記されていることにも触れられていましたが、番組ではその検証はされていませんでした。しかし、これらの事件への三成の関与が事実では... ...続きを見る

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2016/07/29 16:27
石田三成の実像1679 大河ドラマ探訪407「真田丸」73 「秀吉チルドレンそれぞれの正義」4
 NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」において、山本耕史さんは龍譚寺の境内に建っている石田三成像に対面していました。落ち着いて、もの静かでありながら、力強さも感じられる姿に、自分が演じている三成像は間違っていなかったという感想を述べていました。  番組の中の山本さんと加藤清正を演じている新井浩文さんとの対談の中で、山本さんは新井さんが声もでかく演技を自由にやれていいと話していました。それに対して、山本さんは三成を演じるのは大変だと話し、新井さんも大変に見え... ...続きを見る

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2016/07/28 16:52
石田三成の実像1678 「ちちんぷいぷい」「片岡愛之助の解明!歴史捜査 」1 顕彰会理事長の話
 毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」の「昔の人は偉かった」のコーナーで、河田直也アナウンサーとくっすん(楠雄二朗さん)が長浜駅から米原市の伊夫岐(いぶき)神社まで18キロを歩いていました(7日放送)が、途中、石田町の石田会館に寄っていました。  今回の旅は「百人一首完全制覇を目指せ」というシリーズで、百人一首ゆかりの地を巡るという内容ですが、三成が出てくるとは思いませんでした。ゴールの伊夫岐神社で藤原実方の和歌「かくとだにさしも伊吹のさしも草さしもしらじなもゆる思ひを」が紹介され、その歌意が説明... ...続きを見る

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2016/07/27 18:21
石田三成の実像1677 大河ドラマ探訪406「真田丸」72 秀吉の老い・伏見大地震をめぐって
 大河ドラマ「真田丸」第29回「異変」では、秀吉の老いの兆候がいろいろ表れるところを中心にドラマが展開していました。秀吉が寝小便をして、それを隠すべく、三成と信繁が密かに処理する場面がありましたし、秀吉が三成たち奉行衆に今後のことを任せると言いながら、今度は家康を呼んで今後のことは諸大名の合議に任せると言い、しかもそれが2回繰り返されていました。三成はそのことを取り繕うべく、家康に「大事なことだから念を押されたのです」と言い訳していましたが、三成はその後で秀吉の前ではっきりとおかしな言動の内容を... ...続きを見る

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2016/07/26 12:21
石田三成の実像1676 大河ドラマ探訪405「真田丸」69 「秀吉チルドレンそれぞれの正義」3
 NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」において、三成演じる山本耕史さんは、三成の居城であった佐和山城に登っていましたが、三成が32才の時に秀吉によって佐和山城を与えられ、加増の話もあったもののそれを断り秀吉のそばで仕える道を選んだこと、今は石垣がわずかに残るだけで、東軍によって破壊されたと説明されていました。 もっもも、32才の時にというのは、佐和山城の代官に任命されただけで、正式に佐和山城主となるのは、これより4年後の36才の時だという説もあります。ま... ...続きを見る

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2016/07/25 11:02
石田三成の実像1675 大河ドラマ探訪404「真田丸」70 「『秀吉チルドレン』それぞれの正義」2
 「真田丸第二幕まるわかり 『秀吉チルドレン』それぞれの正義」で、三成演じる山本耕史さんは、三献茶の逸話が残る観音寺を訪ねて、住職さんからその逸話をうかがっていました。欲しいものを言われなくてもきちんと出せる三成の気配りに秀吉が感得したこと、初めて会う人、しかも城主という偉い秀吉に対して臆せず堂々とそういう茶の振る舞いができたことなどを住職さんは話し、その話に山本さんは感心していました。  むろん、三献茶の話は江戸時代に書かれた書物に出てくることなので、真偽の程はわかりませんし、舞台も観音寺と... ...続きを見る

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2016/07/24 10:58
石田三成の実像1674 大河ドラマ探訪403「真田丸」69 「38年ぶりの呂宋助左衛門」
 拙ブログ記事で、「真田丸」に松本幸四郎さん演じるルソン助左衛門が登場したことに対して、三谷幸喜氏の「黄金の日日」へのリスペクトが感じられるという意味のことを記しましたが、このことについて朝日新聞夕刊に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」の「38年ぶりの呂宋助左衛門」(7月21日付)に次のようなことが述べられています。  「僕がもっとも夢中になった大河ドラマ『黄金の日日』の主人公だ。高校2年生だった僕は、『黄金〜』が放送されていた1978年を、助左衛門(通称助左)と共に駆け抜けたような... ...続きを見る

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2016/07/23 10:58
石田三成の実像1673 大河ドラマ探訪402「真田丸」66 「秀吉チルドレンそれぞれの正義」1 
 NHKで放送された「真田丸第二幕まるわかり 『秀吉チルドレン』それぞれの正義 拡大版」で、三成演じる山本耕史さんが、長浜城、三献茶の舞台とされる観音寺、三成の居城であった佐和山、ふもとの龍澹寺、清正の居城であった熊本城、文禄・慶長の役の前線基地であった名護屋城跡(この時は片桐且元を演じる小林隆さん、豊臣秀次を演じる新納慎也と一緒に)などを訪ねていました。  一方、加藤清正を演じる新井浩文さんが、津軽に逃れた三成の二男重成の末裔である杉山丕(はじめ)氏と会い、代々の墓がある宗徳寺、津軽為信の墓... ...続きを見る

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2016/07/22 12:17
石田三成の実像1672 大河ドラマ探訪401「真田丸」65 秀次切腹2 その前後・娘を側室にした信繁
 大河ドラマ「真田丸」では、秀次が勝手に自害したことに対して、秀吉が立腹して、切腹は謀反の罪で自分が命じたことにし、秀次の首を三条河原にさらし、妻子を処刑することを三成に命じていました。三成は異議を唱えそうな表情をしていましたが、秀吉は「おまえができないのなら、俺がじきじきにやるまでだ」と言い放っていました。  矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)では、秀次の切腹という「想定外」の事態を受けて、秀次の罪状を後付けして、妻子の惨殺にまで及んだということが記されていますが、「真田丸」でもそ... ...続きを見る

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2016/07/21 18:26
石田三成の実像1671 大河ドラマ探訪400「真田丸」64 秀次切腹1「三谷幸喜のありふれた生活」 
 大河ドラマ「真田丸」では、黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で示唆されていたように、豊臣秀次の切腹は秀吉が命じたものではなく、自分の意思で自害したという描き方になっていました。その見解は、矢部健太郎氏によって唱えられたものですが、この新説について、朝日新聞に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」の7月14日付の「関白・秀次の最期を思う」の中で次のように記されています。  「秀吉は甥の秀次を死なせるつもりはなかったし、秀次に死ななければならない理由もなかったという新しい説だ。  新しい... ...続きを見る

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2016/07/20 18:06
石田三成の実像1670 大河ドラマ探訪399「真田丸」63 黒田基樹氏の講演9 昌幸宛三成書状
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、慶長5年7月30日付の真田昌幸宛三成書状が取り上げられていましたが、この書状については、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中でも論じられています。  三成は8月5日、6日、10日と立て続けに昌幸(信幸や信繁の名も含んでいるものもありますが)に書状を出しています。講演会では、「三成は昌幸に、@上杉景勝との連絡の確保、A信濃徳川方大名領の経略、を求める。その対価として、信濃・甲斐2ヶ国の充行、美濃からの援軍派遣を示す... ...続きを見る

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2016/07/19 10:33
石田三成の実像1669 大河ドラマ探訪398「真田丸」62黒田基樹氏の講演8 三成より誘いの書状
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、「関ヶ原合戦での真田家と石田三成」について述べられていましたが、まず慶長5年(1600)7月21日、会津攻め従軍のため下野佐野の犬伏・天明に在陣していた真田家のもとに、三成から家康討伐を働きかける書状が届き、前後して三奉行が連署した「内府ちかひの条々」が届いたと説明されていました。  昌幸はすぐさま応諾を返事、次男信繁とともに会津攻めの軍から離脱し上田城に戻ったものの、嫡子信幸はそのままとどまりましたが、その際、三者の間でいわゆる「犬伏の... ...続きを見る

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2016/07/18 10:32
石田三成の実像1668 大河ドラマ探訪397「真田丸」61 黒田基樹氏の講演7 信幸宛書状4
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、信幸宛の三成書状について触れられていましたが、三成の信幸に対する心遣いがよく感じられる書状もあります。その例として、講演会では、6月9日付のものが挙げられていましたが、レジュメではその書状が次のように現代語訳されています。  「最近は忙しくて連絡もできなかった、織田秀信(羽柴岐阜中納言)が病気療養のため上野沼田領内の草津(群馬県草津村)に湯治に行きたいということで、秀信から、沼田領の留守居衆に、その通行に便宜するようにとの書状一通を出... ...続きを見る

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2016/07/17 11:13
石田三成の実像1667 大河ドラマ探訪396「真田丸」60 黒田基樹氏講演6 信幸宛書状3
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、信幸宛の三成書状について詳しく述べられていましたが、取次を通じてなければ他の大名などに連絡が取れないことにも触れられていました。  鷹を贈ってもらったお礼を述べた年月欠の6日付の書状の後半に次のように記されています(講演会のレジュメに載っている現代語訳による)  「秀吉の病気のためずっと詰めているので、屋敷に帰ることもできない、と状況を伝え、本多忠勝も来訪してきたことについて、こうした事情なので、会って用件を聞くことができなかった... ...続きを見る

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2016/07/16 11:48
石田三成の実像1666大河ドラマ探訪395「真田丸」59 黒田基樹氏講演5 慶長3年5月28日付書状
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、真田信幸宛の三成書状が取り上げられていましたが、年次が明らかになったもう一通の三成書状は慶長3年(1598)5月28日付のもので、講演会のレジュメには次のように現代語訳されています。  「昨日下向しようと思っていたところ、決定にはならなかったので、面会して話しをしたいこと、しかし客が来ているので、詳しい話しは残しておきたい」と。  下向とは、この場合九州への下向です。  中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要... ...続きを見る

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2016/07/15 18:28
石田三成の実像1665大河ドラマ探訪394「真田丸」58 黒田基樹氏講演4 慶長2年8月20日付書状
 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、真田信幸に宛てた私的な三成書状13通について取り上げられ、詳しく論じられていました。  これらの三成書状は、長浜城歴史博物館発行の図録「特別展覧会 石田三成 第2章」で取り上げられ、2000年に行なわれた展覧会で実物を見たことがありますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でもこの書状について取り上げられています。  13通の書状のうち、月日が記されているものが3通、日付だけが記されているものが8通、日付のないも... ...続きを見る

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2016/07/14 11:25
石田三成の実像1664 大河ドラマ探訪393「真田丸」57 黒田氏「真田家と石田三成」3 取次として
 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、真田家の取次は最初が秀吉の側近で三成の妻の伯父に当たる尾藤左衛門尉(天正14年11月21日付の秀吉朱印状の添状)、次に浅野長吉(長政)と石田三成(天正17年11月21日付の秀吉朱印状の添状から)、最後は石田三成のみ(天正18年4月29日付の秀吉朱印状から)が務めたとが述べられていました。  ちなみに、天正14年11月21日付の秀吉朱印状について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「秀吉は真田昌幸に赦免を通達し、改めて上洛を命じた」と記... ...続きを見る

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2016/07/13 10:45
石田三成の実像1663 大河ドラマ探訪392「真田丸」56 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」2 
 7月10日に長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、真田家の初代は幸綱、2代目は信綱(幸綱の長男)、3代目は昌幸(幸綱の三男)、4代目は信之(昌幸の長男)だと説明されていました。初代は一般的には幸隆と把握していますが、幸綱が正しいと指摘されていました。このことは、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)にも記されています。  信綱の娘が清音院殿であり、信幸と結婚しましたが、それが「真田丸」では「こう」という名前になっていると、「真田信之関係系図」(黒田氏『真田信之 真田家を... ...続きを見る

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2016/07/12 11:09
石田三成の実像1662 大河ドラマ探訪391「真田丸」55 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」1 
 昨日、長浜の湖北文化ホールで行われた黒田基樹氏の講演会「真田家と石田三成」を聴きに行ってきました。JR河毛駅から西に歩いて10分程のところにあります。近くにコンビニも飲食店もないので、あらかじめ山科駅のコンビニで弁当を買い、車内で食べました。  12時18分に駅に着き、少し時間があったので、駅の北東方面を少しぶらつき、谷田神社に立ち寄りました。駅の東側には、小谷山、虎御前山が聳えていますが、講演会の終わりも電車の時間まで時間があったので、小谷山のそばまで行きました。時間があれば、ゆっくり登っ... ...続きを見る

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2016/07/11 11:05
石田三成の実像1661 坂口裕子氏「古橋村の伝承 石田三成」 3 捕縛を村人が悲しみ哀悼
 坂口裕子氏の「古橋村の伝承 石田三成」 ですが、「古橋に『金屋(かなや)橋』という名の橋がある。関ケ原合戦後、ここに『三成捕縛に協力すれば金をやる』との『高札』が建てられたと伝えられる」と記されています。  オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にもこの橋のことが記されています(「三成伝説」では『金谷橋』と記載されています)が、「金やる橋」と言ったことからそう呼ばれるようになったと説明されています。  坂口氏の同書には、「古橋は、徳川幕府から村に落人が、かくれられない様に、屋敷... ...続きを見る

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2016/07/10 18:53
石田三成の実像1660 坂口裕子氏「古橋村の伝承 石田三成」 2 匿った与次郎との接点・ニラ粥
 能面師真弓能の坂口裕子氏の「古橋村の伝承 石田三成」ですが、前にも拙ブログ記事で触れたように、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・古橋」の章に、古橋に伝わる三成にまつわる伝承がいろいろ書かれているものの、坂口氏の同書で新たに知ったこともありました。  関ヶ原の戦いで敗れ逃走していた三成が捕縛された状況については、いろいろな史料に別々のことが記されており、実際のところどうだったのかは、よくわかっていないということが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出... ...続きを見る

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2016/07/09 12:27
石田三成の実像1668 大河ドラマ探訪390 「真田丸」54 三成・吉継は朝鮮出兵に反対の立場 
 大河ドラマ「真田丸」第25回「瓜売」は、文禄の役のあたりのことが描かれていました。秀吉が朝鮮、明を攻めると言い出したことを聴いて、大谷吉継は「ようやく日の本からいくさがなくなったというのに、殿下は鶴松様を亡くされておかしくなってしまわれたのではないか」と怒ったのに対して、真田信繁は「それが違うのです」と言い、おかしくなったわけではない秀吉の真意を説明していました。  すなわち、「太平の世になったからこそ、明を討たねばならぬのだ。人に仕事を与えねばならぬ。人は仕事がなくなるとろくなことを考えぬ... ...続きを見る

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2016/07/07 11:54
石田三成の実像1667 「鶴瓶の家族に乾杯」 山本耕史さんの大垣、関ヶ原ぶっつけ本番旅
 4日の夜にNHKで放送された「鶴瓶の家族に乾杯」で鶴瓶さんと山本耕史さんが大垣を訪ねていましたが、一番面白かったのは、最後の最後に山本さんが関ヶ原まで一人足を延ばして、笹尾山の三成陣跡を訪ねた時に、たまたま出くわした三成ファンの26才の男性とのやりとりでした。  上まで一緒に登ったまではよかったものの、その男性が「○○こうじ」と名乗ったのに対して、山本さんも自分も同じ「山本こうじ」だと言った途端、初めてその男性は堀北真希さんと結婚した相手と気づき、堀北真希の熱烈ファンだった彼は、結婚報道に傷... ...続きを見る

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2016/07/06 20:14
石田三成の実像1666 今回発見された嶋左近書状二通2 北条攻めに参陣・「清興」の署名が証すもの
今回、発見された嶋左近の書状二通ですが、勇猛な武将としてだけではなく、官僚としても有能だったということがわかる内容のものでした。それは、2008年に発見された三成書状が、「年貢の率は嶋左近、山田上野、四岡帯刀に命じたので、その指示で行なえ。三人は不正がないように誓詞まで出している」という内容のものであることからも、嶋左近が領国経営に手腕を発揮していることがうかがえますが、今回の嶋左近の書状の発見はそのことを裏付けるとともに、他の大名との取次的な役割をも果たしていたことがわかる貴重な発見です。 ... ...続きを見る

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2016/07/05 10:38
石田三成の実像1665 今回発見された嶋左近書状二通1 京都新聞記事「嶋左近=有能な官僚」
 今回、三成の重臣であった嶋左近の書状が二通発見されました。このことに関して、京都新聞に、「嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、新人物像浮かぶ 滋賀・長浜」と題する記事が掲載されました。  その記事によると、次のようなことが記されています(抜粋)。  「左近の書状が完全な形で見つかるのは初めて。検地の方法を指示するなどの内容で、長浜城歴史博物館博物館などは『猛将とされる左近だが、官僚としての能力もあったことが裏付けられた』としている」、  「東京大史料編纂所の村井祐樹助教が昨年11月、大阪府... ...続きを見る

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2016/07/04 10:52
石田三成の実像1664 特別展「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」2 奥の谷から出土した桐紋銅製紐金具
 滋賀県立安土城考古博物館の特別展示「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」に、佐和山城遺跡出土遺物が展示されていましたが、その中に「桐紋銅製紐金具」がありました。展示解説シートには、「桐紋銅製紐金具」について次のように説明されています。  「銅板を五三桐にかたどり、花や葉を蹴彫(けりぼり)で表現しています。さらに、葉は葉脈の部分が無地ですが、その間を魚々子(ななこ)で表現しています。表面に着色などの痕跡は観察できませんが、本来、鍍金(ときん)などが施されていた可能性があります。左右の花と左側の葉が欠損し... ...続きを見る

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2016/07/02 21:22
石田三成の実像1663 大河ドラマ探訪389「真田丸」53 利休切腹と鶴松の死3 利休木像・鶴松葬儀
 一般的には利休の木像が大徳寺山門の上に安置されたことが、利休切腹事件のきっかけとなったとされており、大河ドラマ「真田丸」でもその線に沿って描かれていましたが、大徳寺の僧が木像を持て余しているという描き方でした。しかし、木像の安置は大徳寺が利休に感謝して行ったことが、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)に記されています。  すなわち、「当時の住持である春屋は、寄進をしてくれた利休に感謝の念を抱いたようで」、天正18年(1590)12月「5日に行なわれた落慶法要の前後、春屋は金毛閣の梁... ...続きを見る

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2016/07/01 11:02
石田三成の実像1662 大河ドラマ探訪388「真田丸」52 利休切腹と鶴松の死2 鶴松平癒の水ごり
 千利休切腹事件に三成が関わっていないことを示す根拠の一つとして、三成と大徳寺の特別な関係ということも挙げられます。大徳寺の春屋宗園は、三成の参禅の師であり、三成は宗園のために三玄院を建立しましたし、関ヶ原の戦いで敗れて処刑された三成が三玄院に手厚く葬られたのも、宗園らによってでした。  利休の罪状として言われているのが、大徳寺三門に置かれた利休の木像ですが、大徳寺に難癖をつけるようなことを三成がするはずがありません。もっとも、大河ドラマ「真田丸」では、大徳寺の僧侶も利休の木像の扱いを持て余... ...続きを見る

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2016/06/30 11:12
石田三成の実像1661 大河ドラマ探訪387「真田丸」51 利休切腹と鶴松の死1 利休の呪い?
大河ドラマ「真田丸」第25回「別離」は、鶴松の重体の場面から千利休切腹事件にさかのぼるという手法が取られ、鶴松の死は、利休の呪いだという捉え方がされていました。 利休の切腹は天正19年2月28日のことであり、鶴松の死は8月5日のことです。  利休の呪いだという捉え方が当時されていたのか寡聞にして知りませんが、鶴松はもともと病弱だったということが、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に記されています。すなわち、鶴松が生まれたのは天正17年5月27日ですが、10月には病気のため「薬師が... ...続きを見る

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2016/06/29 11:22
石田三成の実像1660 坂口裕子氏「古橋村の伝承 石田三成」1 姉川の戦いを逃れて三珠院に入寺
 昨日付の拙ブログ記事で取り上げた、2000年に長浜城歴史博物館で行われた特別展覧会「石田三成 第2章」に展示されていた、慶長9月16日付で近江国伊香郡の12ヶ村に出した家康禁制ですが、その図録の解説に次のようなことも記されています。  「12ヶ村の中には三成が捕らえられた古橋も含まれ、本書自体も古橋の庄屋宅に伝来したことを考えれば、西軍敗退の直後から、三成が母親の出身地である同村へ逃亡することは、家康側として察知していたのかもしれない」などと。  オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ... ...続きを見る

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2016/06/27 10:55
石田三成の実像1659 安土城考古博物館の特別展「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」 連署書状・家康禁制
 滋賀県立安土城考古博物館で開かれていた特別展示「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」に、石田三成等連署書状が展示されていました。慶長2年(1597)1月11日付のもので、草津市の観音寺などに宛てたものです。五奉行のうち浅野長政を除く4名が署名しています。  この書状の内容について、次のように解説されています。  「文禄3年(1594)から始まった伏見城増築普請資材の小竹を舟奉行である観音寺に運ばせ、それを坂本(大津市)で朽木元綱に受け取らせるよう指示をしています」と。  前にも拙ブログ記事で取り上... ...続きを見る

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2016/06/26 11:40
大河ドラマ探訪385「真田丸」49 信繁は小田原城に使者として行ったのか?
 大河ドラマ「真田丸」では、小田原城攻めで信繁を活躍させるべく、使者として小田原城に乗り込んでいました。「軍師官兵衛」の再現を見るような思いであり、「軍師官兵衛」では、官兵衛が小田原城に乗り込んで降伏を促していました。  この点について、16日付の朝日新聞のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」の「最新の歴史研究が支えに」の中で、そういう展開にした経緯について次のように記されています。  「官兵衛は秀吉の命を受けたオフィシャルな交渉係。その裏では、徳川家康らも密かに開城交渉をしていたらしい。官兵... ...続きを見る

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2016/06/25 11:03
石田三成の実像1658 大河ドラマ探訪384「真田丸」48 忍城開城の時期・その経緯
 大河ドラマ「真田丸」第23回「攻略」で、忍城の開城には、北条氏政の甲を利用した真田昌幸の作戦(血の付いていない甲を籠城している忍城の人々に見せることによって、氏政が家臣を見捨てて自分だけ助かったと思わせるというもの)が功を奏したという描き方がされていました。しかし、実際には、当時小田原城にいた忍城城主の成田氏長が、忍城に籠城している人々に降伏を促し、それに応じて開城しています。忍城が開城したのは、一般的には小田原城が開城後の7月14日ないし16日頃とされており、「真田丸」でも小田原開城後の14... ...続きを見る

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2016/06/24 10:56
三成の実像1657 大河ドラマ探訪383「真田丸」47 「歴史街道」3 山本耕史さんのインタビュー2
 「歴史街道 石田三成と大谷吉継」に掲載されている山本耕史さんのインタビュー記事の中で、「今回の三成は、今までの多くの三成像の中で最も熱い男である」という三谷幸喜氏のアドバイスの言葉が紹介されていました。  「真田丸」で、三成の「熱い男」ぶりが今後どのように描かれるか見ものです。北条攻めにも反対していたぐらいですから、朝鮮への侵攻についても、主君の秀吉を批判する場面が出てくるのでしょうか。聚楽第落首事件の時のように。  インタビュー記事でも、「ドラマの中でも、三成は内に秘める熱さゆえ、徐々に... ...続きを見る

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2016/06/23 11:02
大河ドラマ探訪382「真田丸」46「真田丸を3倍楽しむ講座」8 鉄火起請 三成の実像1657 水裁判
 12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で触れられていた話題の一つに、「越後で行なわれていた鉄火起請は、本当に当時の慣行か?」という問題が取り上げられ、「中世村落の紛争解決の手段として鉄の火起請」が行われていたことと説明されていました。  「真田丸」では、第12回で信繁が景勝と共に、上杉領内を回っていた時に、漁師たちが浜の領有権を主張し、奉行の立会いのもと、鉄火(焼けた鉄の棒を運んだ方が勝ち)で決着をつけようとしていて、信繁がそれをやめさせようとして機転を... ...続きを見る

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2016/06/22 10:44
石田三成の実像1656 林昭男氏の講演会「石田三成と佐和山城」2 発掘調査による本丸の破城ぶり
11日に滋賀県立安土城考古博物館で行われた林昭男氏の「石田三成と佐和山城」は、前述したように、佐和山城跡の発掘調査の成果の報告が主でしたが、その前に佐和山城の立地、歴史、縄張りと構造について述べられていました。この点に関しては、以前の林氏の報告でも触れられていました。  3月26日に彦根で「三成フェス」が行われ、私もそれに参加しました。実はその次の日に佐和山城の本丸の発掘調査の現地説明会がありましたが、それには残念ながら参加できませんでした。しかし、今回の林氏の講演会で、その調査結果を知るこ... ...続きを見る

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2016/06/21 12:20
三成の実像1655大河ドラマ探訪381「真田丸」45 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」7惣無事 
 12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で触れられていた話題の一つに、「平野長康は、本当に馬廻り衆の筆頭なのか?」という問題も出されていたことを一昨日付の拙ブログ記事で取り上げました。  16日付の朝日新聞のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」の「最新の歴史研究が支えに」の中で、「『賤ヶ岳の七本槍』を六人までは言えるが、平野長康が思い出せない」と記されています。そういう人物を信繁の上司に持ってくるところに、三谷氏の目の付け所の面白さを感じます。  そのコラム... ...続きを見る

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2016/06/20 10:46
石田三成の実像1654 大河ドラマ探訪380「真田丸」44 三成の描き方26 忍城攻めの史実との違い
大河ドラマ「真田丸」第23回「攻略」で、三成が忍城攻めをする場面が描かれていましたが、その経緯や時系列が史実とは違っていました。  三成が秀吉のもとを離れて館林城に向かい、館林城を開城させたのは5月30日のことですが、「真田丸」では、この時点でまだ三成は秀吉のもとにおり、館林城攻めは全く描かれていませんでした。  三成は6月4日に館林を発って忍城へ向かい、5日以降に忍城を囲んでいます(中野等氏「石田三成の居所と行動」藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収・中井俊一郎氏「石... ...続きを見る

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2016/06/19 15:45
石田三成の実像1653 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」4 吉継がいつも大坂城の御文庫にいるわけ
 12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で触れられていた話題の一つに、「大谷吉継は、なぜいつも大坂城の御文庫にいるのか?」ということが取り上げられていました。もっとも、これは5月までの放送分に限られた話題であり、先日放送された第23回「攻略」では、吉継が秀吉に三成を忍城攻めに派遣するよう要請していました(この回の三成の描き方については後述します)。  この問いに対する答えを聞いて、会場に笑いが起こりました。その答えとは、「吉継を演じる片岡愛之助さんが忙しくて... ...続きを見る

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2016/06/17 18:01
石田三成の実像1652 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」3景勝を出迎えた場所・落首事件をめぐって
12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で、「真田丸」のオープニング映像の城は備中松山城をモデルにしたものだと明かされていました。山城であること、天守が二層であることが選ばれた理由だと述べられていました。  ドラマと史実の違いをテーマにした、具体的な話としては八つ取り上げられていましたが、三成に関連したことから云えば、「真田丸」では上杉家の上洛を三成が迎えたのは倶利伽羅峠付近の寺だとして描かれていましたが、実際は森本であり、倶利伽羅峠とは10キロも離れていると... ...続きを見る

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2016/06/16 10:45
三成の実像1651 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」2「真田家と近江人脈相関図」「こう」の重要性
 太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第1回真田家と豊臣家の人びと」では、ドラマと史実の違いがテーマになっていましたが、2時間の時間があっという間にすぎるほど、興味深い内容でした。  今回は1月から5月までの放送内容に関する話が主でした。  まず真田信幸の夫人だった「こう」が離縁され、信幸は本多忠勝の娘の小松姫を妻に迎えるものの、侍女として残る不自然さについて言及されていました。当時は一夫多妻制の時代ですから、「こう」を離縁せず、小松姫を妻に迎えても問題はなく、ましてや侍女と... ...続きを見る

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2016/06/15 21:25
石田三成の実像1650 彦根・長浜の「MEET三成展」・太田浩司氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」1
 12日は彦根のホテルを後にして、開国記念館で開かれている「MEET三成展」を見に行きました。大河ドラマ「真田丸」の写真パネルが多く展示されていましたが、佐和山城の発掘調査で出土品もありました。三成の衣装も展示されていましたが、「真田丸」のものではなく、「天地人」と「江」で使われていたものでした。実際、まだ三成演ずる山本耕史さんのドラマ収録は終わっていないはずですから、「真田丸」の衣装の展示はまだ無理だと納得しました。  映像コーナーがあり、「真田丸」の三成の出演場面、東京で行われた三成の「出... ...続きを見る

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2016/06/14 10:33
石田三成の実像1649  林昭男氏の講演会「石田三成と佐和山城」1・安土城考古博物館の特別展示1
6月11日に、滋賀県立安土城考古博物館で行われた、林昭男氏による講演会「石田三成と佐和山城」を聴きに行きました。昼前に安土駅に着き、駅前で昼食を取ってから、駅の南に出て、東に向かって歩くルートを取りましたが、30分ほどでした。  受付の1時まで30分余りの時間があったので、まず博物館を見学しました。「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」という特別展示がされており、三成に関係したものでは、慶長3年1月11日付の草津の観音寺などに宛てた石田三成等連署書状、年不詳6月14日付の石田三成・増田長盛水論裁判... ...続きを見る

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2016/06/13 10:12
石田三成の実像1648 「歴史街道 石田三成と大谷吉継」2 山本耕史さんのインタビュー記事1
 「歴史街道」七月号に掲載されている山本耕史さんのインタビュー記事ですが、「真田丸」の三成役にかける思いがよく出ていました。  山本さんが三成の故郷に行ったことにも触れられていましたが、三成祭の法要に参加され、その時に間近に山本さんのお顔に拝したことについては拙ブログ記事で記しました。三成の地元を訪ねた時の思いについて、インタビュー記事で次のように述べられています。  「とても心に残ったのが、地元の方々が、四百年くらい昔に生きていた人のことを、それこそ、ついさっき会ったようにお話しされていた... ...続きを見る

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2016/06/12 18:59
石田三成の実像1647 「歴史街道 石田三成と大谷吉継」 中井俊一郎氏の論考 堺の堀を埋めた意味 
 「歴史街道」七月号に「石田三成と大谷吉継 信繁を変えた男たちの義」が特集されています。堺雅人さんや山本耕史さんのインタビュー記事をはじめ、歴史研究者や作家の文章が掲載され、三成タクシーや古橋伝説のことも取り上げられており、多彩な内容になっています。  その中に、オンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏の「天下の貨物の七割は浪華に…堺の変革、博多の復興で新たな都市空間へ」が載っています。  その文章の中で、堺奉行として三成が果たした役割について論じられています。三成はまず堀(環濠)を埋めました... ...続きを見る

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2016/06/11 09:14
石田三成の実像1646 大河ドラマ探訪379「真田丸」43 三成の描き方25 沼田裁定をめぐって 
 大河ドラマ「真田丸」第22回「裁定」は文字通り、「沼田裁定」を中心として展開し、秀吉が北条攻めを決めるというところまでが描かれていました。「沼田裁定」は、時代劇版の裁判が繰り広げられるという形になっており、三成が裁判の進行役を務めていました。北条氏を代表して板部岡江雪斎、真田氏の代表として真田信繁、徳川氏の代表として本多正信が当事者として裁判に参加し、三成が沼田領がこれまで誰に属していたか、その歴史的経緯を片桐且元に図を用意させて説明させ、当事者に振って、意見を陳述させていました。このあたりは... ...続きを見る

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2016/06/10 10:51
石田三成の実像1645  「知恵泉 石田三成」5 処刑される時の様子・発掘調査に基づく復元像
 「知恵泉 石田三成」で、三成が処刑された京の六条河原、首がさらされた三条大橋、三成の遺骸が葬られた大徳寺三玄院が紹介されていました。もっとも、三玄院は拝観謝絶ですから、門前が映っているだけでしたが、明治時代の三成の墓の写真が出ていました。  番組では、石田三成顕彰会の「石田三成公一代絵巻」の「三成処刑の図」が取り上げられ、三成がぴいんと背筋を伸ばして、最期まで自分の意思を貫き通そうとした強さを感じると説明され、三成が僧侶の念仏を断り、最後に言ったとされる「あの世で太閤殿下に会うのが楽しみだ」... ...続きを見る

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2016/06/09 21:04
石田三成の実像1644 「知恵泉 石田三成」4 「誰にでもわかる明快なプレゼンをせよ」2
 「知恵泉 石田三成」の中で、三成の知恵として、「誰にでもわかる明快なプレゼンをせよ」が取り上げられていましたが、その例として挙げられていたのは、昨日付の拙ブログ記事で取り上げたように、「掟書」と「内府ちかひの条々」でした。「掟書」については、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)などの中で詳しく論じられています。  番組では、「掟書」を所蔵している成菩提院の住職さんが次のように語っていました。  「(三成)は農民... ...続きを見る

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2016/06/08 17:56
三成の実像1643 「知恵泉石田三成」3 「金や地位に対して潔癖であれ」2「明快なプレゼンをせよ」1
 Eテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉 劣勢を覆すには?〜石田三成『関ヶ原の戦い』への道」の中で、三成が発揮したの知恵の第1点目の「金や地位に対して潔癖であれ」ということに関して、三成が島左近を召し抱えたことが取り上げられていました。三成が四万石の領主だった時に、猛将で有名だった左近を、半分の二万石で召し抱えたという逸話が紹介されていました。三成が水口城の城主だったということは述べられていませんでしたが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも、三成が水口四万石の領主になった形... ...続きを見る

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2016/06/07 15:43
石田三成の実像1642 「先人たちの底力 知恵泉 石田三成」2 「金や地位に対して潔癖であれ」1 
 5月31日にEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」で「石田三成」が取り上げられていたのは、三成復権につながるものがあり、その点は大いに評価できます。  しかし、三成についての捉え方に旧態依然としたものがあり、清正への讒言もそうですが、いくさの際、三成が現場で指揮するより、食糧の調達や輸送を得意とする事務方タイプであり、三成はいくさが苦手だったと紹介されていました。もっとも、関ヶ原の戦いでは、三成ら西軍の布陣は、後にドイツ軍参謀が西軍の勝利を予想した見事なものだったということにも触れられ... ...続きを見る

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2016/06/06 16:19
石田三成の実像1641 「先人たちの底力 知恵泉 石田三成」1 三成の告げ口による清正蟄居?
 5月31日にEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」で石田三成が取り上げられていました。「劣勢を覆すには?」というテーマであり、地位も石高も人気もない三成がどうやって不利な状況を覆して、家康を脅かすまでになったのかという点について切り込んでいました。  三成が地位も石高も家康に比べると格段に劣っていたのは事実ですが、人気もないという点に関しては、異議があります。番組でも「嫌われ者の三成」という言い方がされ、人より組織を優先し、几帳面な性格からちょっとしたミスも上司の秀吉にすぐ報告するせい... ...続きを見る

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2016/06/05 11:25
石田三成の実像1640 大河ドラマ探訪378「真田丸」42 三成の描き方24 北条攻め4 惣無事令2
 大河ドラマ「真田丸」で三成が口にしていた「惣無事」ですが、「惣無事令」について、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)では、次のように説明されています。  「天正13年(1585)に関白となった秀吉が、諸大名に対して発した交戦停止令である。大名間の交戦を『私戦』として、秀吉の『公』の権限で禁止したもの。島津氏や北条氏に対する『征伐』は、この命令に対する違反が口実となった」と。  「惣無事令」についての最近の研究成果を踏まえた論考は、昨日付の拙ブログ記事で取り上げたよう... ...続きを見る

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2016/06/04 11:05
石田三成の実像1639 大河ドラマ探訪377「真田丸」41 三成の描き方23 北条攻め3 惣無事令
 大河ドラマ「真田丸」では、天正17年の段階で、北条氏政が上洛の条件に沼田領を渡すよう要求していましたが、実際は北条氏規が天正16年8月に上洛した時に、秀吉に沼田の帰属問題の解決を提起したということが、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)の中に記されています。  「真田丸」では、この問題に関して北条側の代表として板部岡江雪斎が上洛していました。それは事実ですが、その理由について、齋藤氏の同書では、「氏規上洛時に申し立てた際、事情に詳しい家臣の上洛が秀吉から求められていたためである」と記さ... ...続きを見る

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2016/06/03 18:36
石田三成の実像1638 今福匡氏「毛利勝永」8 文禄の役の際の動向・漢城で吉成と三成の接点
 今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)には、文禄の役の際の毛利吉成・勝永の動向についても記されています。  吉成は渡海組の四番手となっており、そのうち島津義弘は一万人、吉成、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊の兵合わせて四千人から成り立っていました。なお、三成は奉行として名があり、名護屋に配置され、舟奉行としての役目を果たしていました。  吉成ら第四軍は4月17日に釜山に着き、黒田長政ら第三軍と合流し、陥落した首都漢城へ入り、会談の末、第四軍は朝鮮半島東部の江原道経略が任せられました。 ... ...続きを見る

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2016/06/02 20:37
石田三成の実像1637 今福匡氏「毛利勝永」7 毛利輝元が上洛した時に勝永11歳で接待
 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、毛利勝永が政治的な舞台に登場したのは、毛利輝元が天正16年(1588)に上洛した時だと記されています。その時、勝永は11歳でした。三成は29歳ですから、18歳年上になります。  輝元が大坂に着いたのは7月19日ですが、「出迎えの使者として、毛利吉成は、黒田官兵衛、毛利兵吉、森勘八とともに輝元の御座船を見舞っている(『輝元公上洛日記』)。翌20日巳の刻(午前10時頃)、吉成は輝元を大坂の自邸に招待している」と記されています。この時の輝元をもてなすための... ...続きを見る

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2016/06/01 09:51
石田三成の実像1636 大河ドラマ探訪376「真田丸」40 三成の描き方22 北条攻めをめぐって2
 大河ドラマ「真田丸」では、三成は秀吉に命じられて北条攻めの準備を進めるものの、北条氏の上洛を促す書状をもう一度送ると言っていました。   実際の北条の上洛問題は複雑な経過をたどりましたが、ドラマではそれが単純化されていました。  秀吉及び家康に上洛を促された北条側は、北条氏規が上洛して、秀吉に対面します。天正16年8月22日のことです。このあたりのことは「真田丸」では描かれていませんでした。  「真田丸」では、家康が北条氏政に会って、直接上洛を促していましたが、実際には天正16年5月2... ...続きを見る

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2016/05/31 16:50
石田三成の実像1635 大河ドラマ探訪375「真田丸」39 三成の描き方21 北条攻めをめぐって
 大河ドラマ「真田丸」第21回「戦端」は、北条攻めをするかどうかをめぐってドラマが展開していました。秀吉に北条攻めを勧めていたのは千利休であるのに対して、三成や大谷吉継はその戦いに反対しており、三成は大谷吉継や真田信繁を前に、「利休は殿下に取り入るために、殿下の喜ぶことしか耳に入れぬ」と批判していました。北条攻めをめぐって、利休と三成・吉継が対立するというのは、ドラマ的な設定であり、ここも利休切腹事件の伏線になっているという印象を持ちました。  利休は秀吉に向かって「殿下は今、お捨て様もお生ま... ...続きを見る

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2016/05/30 21:55
石田三成の実像1634 今福匡氏「毛利勝永」6 関ヶ原合戦前後の動向5 毛利吉成は清正説得に九州へ
 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、勝永の父である吉成の事績についても、詳しく記されており、いろいろと新しい知見を得られました。  関ヶ原合戦の際、勝永は伏見城陥落に活躍し、その後、安濃津城攻めに加わり、関ヶ原に転身しました(南宮山?)が、吉成の方は伏見城陥落後、奉行衆の意向を受けて加藤清正を説得するため九州に下向したと。もっとも、吉成自身は自らは熊本に行かず、小倉にいて、使者を派遣したことが、9月7日付の本多正信・西尾吉次宛の加藤清正書状の中に記されています。すなわち、「清正のもとへ... ...続きを見る

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2016/05/29 11:36
石田三成の実像1633 大河ドラマ探訪374「真田丸」38 三成の描き方21 落首事件をめぐって3
大河ドラマ「真田丸」で描かれていた落首事件ですが、尾藤道休の首を差し出して、三成は秀吉にこれ以上の処分は不要だと秀吉に諫言していましたが、実際は処分が続いたことが福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に記されています。  本願寺から道休の首が差し出されたのは3月1日ですが、「2日は牢人の『武衛ケンユウ』と尾藤道休の居宅近くに住む町人らが捕らえられた。3日も関係者の捕縛は続き、4日には光佐・本願寺坊官以下、諸侍・町人・家主にいたるまで科人を隠匿しない旨の起請文の作成が求められ、3月2日付けで血... ...続きを見る

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2016/05/27 11:09
石田三成の実像1632 大河ドラマ探訪373「真田丸」37 三成の描き方20 金くばりをめぐって
 大河ドラマ「真田丸」では、三成は落首事件の際、秀吉にこれ以上の処分は無用だと諫言したため、秀吉に切腹を命じられそうになったところを、北政所に命を救われ、感謝の言葉を述べていましたが、北政所は「京・大坂の人たちが喜ぶことを、何でもいいから考えてください」と依頼し、三成は「かしこまりました」と答えていました。その時、信繁が金くばりを思いつくという展開になっており、ここも大河ドラマでありがちのことながら、主人公の手柄にされていました。  金くばりについては、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)... ...続きを見る

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2016/05/26 16:26
石田三成の実像1631 大河ドラマ探訪372「真田丸」36 三成の描き方19 落首事件をめぐって2 
 大河ドラマ「真田丸」で描かれていた聚楽第の落首事件ですが、大河ドラマ「江」でこの事件のことが描かれていた時に拙ブログ記事で触れたように、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に、事件の内容、経緯について具体的に記されています。典拠は「言経卿記」「鹿苑日録」「多聞院日記」などです。その処分の実態は、「真田丸」で描かれていた以上にはるかに残酷なものでした。  まず門番17名が死罪になりましたが、「真田丸」では2月25日の夜に磔になったと説明されていましたが、実際は「2月29日に鼻を削ぎ、3月1日... ...続きを見る

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2016/05/25 18:18
石田三成の実像1630 大河ドラマ探訪371「真田丸」35 三成の描き方18 落首事件をめぐって1
 大河ドラマ「真田丸」第20回「前兆」は、茶々の懐妊、それを揶揄する落首の事件、捨て(鶴松)の誕生までを中心として描かれていました。  特に落首事件に関しては、大河ドラマ「江」でも描かれていましたが、「江」とは違うのは、「真田丸」の主人公だから当然のこととは云え、真田信繁が活躍する場面が与えられていたことでした。落首を書いた犯人探しを、刀狩で忙しい三成に代わって行っていましたが、むろん、信繁がそういうことをしたというのはドラマ的な脚色です。信繁が知恵を働かせて細かなところに目を付けて犯人を推理... ...続きを見る

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2016/05/24 10:51
石田三成の実像1629 「ブラタモリ 伏見」 伏見は首都だったということを巡って
 NHKの番組「ブラタモリ」で伏見を回っていましたが、大半は自分も何度も歩いている馴染みのあるところだったものの、城下町があったあたりの道の段差には自分自身、目をとめていなかったので、いろいろ勉強になりました。  「ブラタモリ」では、伏見は日本の首都だったという題で、伏見を実際に歩くことによって、秀吉がなぜ伏見を首都にしたのか、どのようにして首都にしていったのかが明らかにされていました。  大坂城が豊臣家のプライベートな家であったのに対して、伏見城が豊臣政権のオフィシャルな場所であったとする... ...続きを見る

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2016/05/23 10:52
石田三成の実像1628 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」7 木食上人による迅速な情報伝達機関
 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、秀次切腹の急報を伝えたのは、福島正則たち使者ではなく、高野山の木食応其上人であり、真言宗の諸寺院を経由して京へ届けられたが、「それは、伏見城や御所ではなく、東寺である」と指摘されています。  秀次が切腹したのは7月15日の午前ですが、翌日には京にその情報が伝わっていました。それがわかるのは、「御湯殿上日記」「兼見卿記」「言経卿記」などの日記の記述です。木食上人による迅速な情報伝達機関があった例として、矢部氏の同書では、秀次事件の三年前の木食... ...続きを見る

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2016/05/22 10:58
石田三成の実像1627 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」6 秀次切腹前後で起請文の作成方針変化
 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)には、7月12日付の石田三成・増田長盛連署血判起請文と、秀次が切腹した後の、血判起請文の違いについて、「起請文の作成方針が『個別』から『集団』へと変化した、ということである」と指摘されています。  7月12日付の石田三成・増田長盛連署血判起請文には宛名がありませんが、同じ日付を持つ、連署血判起請文と同じように1300字を超える神文を持つ「毛利家文書」の「霊社上巻起請文案」があり、その筆跡が西笑承兌のものであること、及び紙質から、「毛利家に送られた... ...続きを見る

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2016/05/21 21:17
石田三成の実像1626 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」5 「秀次高野住山」令 自決手段の剥奪
 大河ドラマ「真田丸」で、秀次事件がどのように描かれるか、大いなる関心があります。少なくとも、三成が画策したという、江戸時代からの捉え方は踏襲してほしくありません。「真田丸」では秀次は凡庸な人物として設定されているようで、三成が秀次を手玉にとるような描き方をされないかと懸念しています。  矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」では、秀吉は秀次が高野山で暮らすように命じたものの、秀次自身が身の潔白を証明するために切腹したという見解が示されていますが、7月12日付で秀吉が発したと思われる「秀次高野住山」... ...続きを見る

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2016/05/20 10:58
三成の実像1625大河ドラマ探訪370「真田丸」34 三成の描き方17 九州攻めの清正の官僚的な面 
 前述したように、大河ドラマ「真田丸」では、秀吉ら20万人に及ぶ大軍勢による九州攻めがすっ飛ばされ、加藤清正が兵糧の調達などの任務で九州に派遣されていました。それは決まっていた人事なのに、三成が信繁に清正を九州に行かせると恩着せがましく言う場面を設けているところは、清正が三成のことを誤解する伏線の一つになっている気がしました。また大谷吉継が、信繁に事実を話すところは、ここでも吉継が三成の誤解を生みやすい言動をカバーする、取り持ち役としての役割を与えられている気がしますし、そういう人物設定は今後も... ...続きを見る

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2016/05/19 18:35
三成の実像1624 大河ドラマ探訪369「真田丸」33 三成の描き方16 豊臣政権を崩壊させた茶々?
 大河ドラマ「真田丸」では、茶々が秀吉の妻(ドラマでは側室)になったのは天正15年のこととして描かれていましたが、この時期について福田千鶴氏の「江の生涯」(中公新書)には、「天正14年(1586)正月までに茶々は祝言をあげ、関白秀吉の妻になった」と記されています。  その根拠は、堀秀政が秀吉の右筆(ゆうひつ)であった安威了佐(あいりょうさ)に宛てた書状にある「御祝言」という文言であり、秀吉の茶々との「御祝言」だと指摘されています。こういう福田氏の見解については、以前、大河ドラマ「江」の茶々の結... ...続きを見る

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2016/05/18 18:03
石田三成の実像1623 大河ドラマ探訪368「真田丸」32 三成の描き方15 堺の大坂への強制移住?
 大河ドラマ「真田丸」で、松本幸四郎さんが「黄金の日日」」以来、38年ぶりに呂宋助左衛門を演じることになりました。松本さんの好演に期待が高まりますし、懐古の念にとらわれるかもしれません。しかし、一番の関心事は、なんといっても、三成との関係です。「黄金の日日」では、拙ブログ記事でもたびたび触れているように、友達同士として描かれ、堺奉行の三成も、助左衛門と協力して(時には対立もしながら)堺の発展に尽くす人物として描かれていました。その関係が「真田丸」でも踏襲されるのかどうか、大いに気になるところです... ...続きを見る

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2016/05/17 11:24
石田三成の実像1622 今福匡氏「毛利勝永」5 関ヶ原合戦前後の動向4 南宮山に布陣したかは不明2
 昨日付の拙ブログ記事で触れたように、今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、毛利勝永は南宮山に布陣したかは不明だと指摘されています。  今福氏の同書には、福岡市博物館所蔵の「関ヶ原戦陣図屏風」が取り上げられていますが、同図屏風では、「『毛利豊前守』は、松尾山の東側、藤川(藤古川)沿いに布陣して」いるものの、他の関ヶ原合戦の布陣図には、その位置には何の武将名も記されていないと記されています。  関ヶ原合戦の布陣図については、前にも拙ブログ記事でも触れたように、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」... ...続きを見る

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2016/05/16 10:35
石田三成の実像1621 今福匡氏「毛利勝永」4 関ヶ原の戦い前後の動向3 南宮山に布陣したかは不明
 昨日付の拙ブログ記事で触れたように、今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、勝永と同様、関ヶ原の戦い前の伏見城攻めで活躍した鍋島勝茂に宛てた8月5日付の感状に、三成の名前があることが記されています。  この感状から、三成の動向がわかります。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、「8月5日大坂城を出て佐和山に戻り、8月9日美濃垂井に出陣」と記されています。  8月5日付で三成は真田昌幸にも書状を書いており、これらの感状・書状を出した... ...続きを見る

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2016/05/15 10:46
石田三成の実像1620 今福匡氏「毛利勝永」3 関ヶ原の戦い前後の動向2 伏見城攻めでの活躍
 大河ドラマ「真田丸」で、岡本健一さんが毛利勝永役に決まりましたが、どのような活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。ドラマでも関ヶ原の戦いの時に登場してくるのでしょうか。大坂の陣につながるドラマの伏線として、出てきてほしいものですが。  毛利勝永は伏見城攻めに加わりましたが、今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、その活躍ぶりが具体的に記されています。  三成も7月29日に佐和山を出て、伏見城攻めに加わっています(中野等氏「石田三成の居所と行動」)から、毛利勝永との接点はあったわけです... ...続きを見る

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2016/05/14 12:20
石田三成の実像1619今福匡氏「毛利勝永」福本日南「大阪城の七将星」2 関ヶ原の戦い前後の動向1
 毛利勝永も父親の毛利吉成も関ヶ原の戦いの時は西軍につきました。  このことについて、福本日南「大阪城の七将星」では、次のように記されています。  「父の壱岐守勝信は本国小倉の城にたて籠り、豊前守勝永はこの時23歳であったが、藩兵を率いて東上し、伏見の攻城にも参加し、転じては美濃の南宮山まで押し出して東軍に対抗したが、不幸にして西軍はこの関ヶ原に大敗した」と。  今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、関ヶ原前後の勝永と父の吉成の動きについてもっと具体的に記されています。  まず、7月... ...続きを見る

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2016/05/13 16:46
石田三成の実像1618 今福匡氏「毛利勝永」福本日南「大阪城の七将星」1 父吉成が小倉城主になるまで
 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)を読みましたが、毛利勝永について新たな知見をいろいろと得られました。毛利勝永については、大正10年に出版された福本日南の「大阪城の七将星」の「毛利勝永」を、有川淳一氏が抜き刷りして本にされたものを以前ご恵贈賜り、勝永の事績や大坂夏の陣の活躍ぶりなどを知ることができました。  今福氏の同書は、さまざまな史料などを駆使し、ゆかりの地にも足を運び、精力的な調査をし、勝永や父親の吉成(勝信)の実像に迫っています。  吉成も勝永も関ヶ原の戦いの際は、西軍に属しまし... ...続きを見る

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2016/05/12 17:38
石田三成の実像1617 大河ドラマ探訪367「真田丸」31 三成の描き方14 信幸と親しくなるのか?
 大河ドラマ「真田丸」で、信繁と三成との関係が今後どうなってゆくのか気になりますが、合わせて信幸と三成の関係も今後変化してゆくのか、しないままなのかも注目しています。  信幸と三成の最初の出会いは、昨日付の拙ブログで触れたように最悪であり、信幸の挨拶も三成は遮りましたし、昌幸と信幸が持参した秀吉への献上品である毛皮を臭いと言って、臭わないように後ろの方に押し込んでおきましょうと入れるよう家臣に指示していました。秀吉と対面できず、秀次と三成に無礼な扱いを受けた信幸は立腹し、「殿下のお言葉がない限... ...続きを見る

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2016/05/11 21:49
石田三成の実像1616 大河ドラマ探訪366「真田丸」30 昌幸の上洛の時期 三成の描き方13
 大河ドラマ「真田丸」第18回「上洛」は文字通り、真田昌幸の上洛を中心として描かれていました。昌幸が上洛したのは天正15年2月のこととしていました。  昌幸の上洛の時期については、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の年表には、「天正15年(1587)3月 昌幸、上洛して豊臣秀吉に臣従し、『豊臣大名』となる」と記されています。  一方、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、天正15年の項に、「3月1日九... ...続きを見る

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2016/05/10 22:03
大阪探訪138 天王寺公園にあった図書館 大坂の陣52 方広寺鐘銘事件の前に家康は戦い準備
  写真は天王寺公園の芝生広場からあべのハルカスを4月29日に撮ったものです。広場は、家族連れで大いに賑わっていました。  かつては天王寺公園の中に図書館があり、子供の時からたびたび通っていました。最初、行った時には、大人たちに交じって入口に並んでいたところ、係員が児童館は別のところだと言ってくれて、そこまで案内してもらったことを思い出します。大学生の頃は、テレビドラマの「細うで繁盛記」の原作本である花登筐氏の「銭の花」全巻を読みたくて、何回か通ったものでした。他の花登作品(大阪の根性物が主... ...続きを見る

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2016/05/09 16:09
三成の実像1615 大河ドラマ探訪365「真田丸」29 宮川花子さんの期待・西村さん「黙れ!小童」 
 4月29日付の朝日新聞記事に、大河ドラマ「真田丸」の特集記事があり、真田信幸の末裔の教授やコラムリストなどのコメントが掲載されましたが、その中で漫才師の宮川花子さんのコメントが特に目を引きました。その一部を紹介します。  「何と言っても三谷さんの愛というか、どんな小さな役にも見せ場があるでしょ。ああいう脚本なら、主役級の俳優でも『どんな役でもいいから出たい』と思う。豪華なキャストになるのは当然でしょう。  ツッコミどころは満載よ。42歳の堺雅人さんが15歳の設定で演じたり、農民と武士が同じ... ...続きを見る

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2016/05/05 11:13
大阪探訪137 黒田藩蔵屋敷長屋門 大河ドラマ探訪364「軍師官兵衛」109  左手の逸話の出典不明
写真は天王寺公園内にある黒田藩蔵屋敷長屋門を4月29日に撮ったものです。もとは中之島にありましたが、昭和8年にここに移築されました。   写真を撮った背に大阪市立美術館があり、写真の左側に慶沢園があります。長屋門の向こう(南側)に芝生広場があり、レストランなども設けられており、昔の天王寺公園の雰囲気とは大分違っていますが、長屋門から大阪市立美術館、茶臼山へと続くエリアは私が子供の頃とほとんど変わっていません。美術館の前には階段があり、そこを下りると動物園になっていますが、そのあたりの雰囲... ...続きを見る

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2016/05/04 13:54
石田三成の実像1614 大河ドラマ探訪363「真田丸」28 馬廻衆であったとの根拠 三成の描き方12
 大河ドラマ「真田丸」では、信繁は豊臣方の人質ではなく、上杉景勝の初上洛に付いていき、秀吉に気に入られ、そのまま馬廻衆に取り立てられたという設定になっています。  前にも拙ブログ記事で取り上げたように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、信繁は人質ではなく、秀吉の直参衆だったと指摘されています。その根拠は、「大鋒院殿御事蹟稿」の記述であり、「文禄の役において信繁は、昌幸・信幸と同じく肥前名護屋に参陣している。その時の身分は、『馬廻(うままわり)』と記されている」と丸島氏の同書に... ...続きを見る

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2016/05/03 15:20
石田三成の実像1613 大河ドラマ探訪362「真田丸」27 三成の描き方11真田討伐中止・大政所人質
 大河ドラマ「真田丸」第17回「再会」は、秀吉が家康に真田攻めを命ずるものの、それは家康の顔を立ててやるためで本意ではなく、すぐに中止するという描き方がされていました。三成もそのことを重々承知しており、秀吉に真田家を討伐しないように嘆願した信繁に対して、討伐が中止になり家康が上洛した時に、三成が信繁に向かって「真田家と徳川のこと、決していくさにはせぬと言ったではないか。物事の裏を読め。素直なままでは生きてはいけぬ」と意見していました。  まず秀吉の真田攻めがポーズであったというドラマの捉え方で... ...続きを見る

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2016/05/02 11:56
石田三成の実像1612 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」4 「御湯殿上日記」の記述・木食上人の急報
 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)を読んでいて感じるのは、われわれが当たり前のことのように思っていたことが、事実とは限らず、考え直す必要があるのではないかと思い知らされたことです。  秀次は秀吉の命を受けて高野山に追放されたということもそうであり、矢部氏の同書では、秀次が自ら出奔した可能性が指摘されています。  秀次が高野山に向かったのは7月8日ですが、矢部氏の同書では、その時点で秀次を追放するとの秀吉側の命令書などは存在していないことが述べられ、秀次の出奔についての詳しい記述が... ...続きを見る

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2016/04/30 14:48
三成の実像1611大河ドラマ探訪360「真田丸」25 三成の描き方10 堺奉行4 正澄がルソン壺仲介
 26日付の拙ブログ記事で、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店) で取り上げられている、天正16年12月20日付の石田正継定書を紹介しましたが、正継は、政務で忙しい息子の三成に代わって、堺奉行を務めていました。  目下、大河ドラマ「真田丸」で描かれているのは天正14年の時点ですが、翌天正15年には九州攻めがあり、三成は兵站奉行として従軍し、九州でもいろいろ活躍していますから、その間、正継が堺奉行を代理で務めました。  三成の兄の正澄も、三成、大谷吉継などの後、堺奉行を務めますが、ルソン助左衛... ...続きを見る

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2016/04/29 22:06
三成の実像1610 大河ドラマ探訪359「真田丸」24三成の描き方9 堺奉行3 玉造とフランク三浦
 昨日の関西テレビの番組「よーいどん」の「となりの人間国宝さん」のコーナーで、織田信成さんが、真田幸村で盛り上がる玉造の町を歩いていました。「真田丸」のジオラマが置いてある店の人に、「真田幸村と織田信長はどちらが強いんですか」という無茶な問いを発していました。店の人は時代が少し違うとことわりながらも、「織田信長」と答えていました。  以前、信成さんは同番組で安土を初めて歩いていましたが、信長ゆかりの地ということでハイテンションになっていました。信成さんの関西での町ぶらロケは、町で出会う人... ...続きを見る

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2016/04/28 11:22
石田三成の実像1609 大河ドラマ探訪358「真田丸」23 三成の描き方8 堺奉行2 利休との仲
 大河ドラマ「真田丸」では、堺奉行になった三成が、千利休を邪魔な者として捉え、排除したいという描き方になっていますが、そういう捉え方には疑問を感じます。むろん、ドラマの展開として、三成の利休に対する考えが変わる可能性もありますが、どうも利休切腹事件まで尾を引きそうな予感がしています。  白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、三成と利休の仲が悪くなかったことを示す証拠が、いろいろと挙げられています。  まず三成が利休の娘の「お三」の婿である満代屋宗安(鵙屋宗庵)と特に親しく、茶会に... ...続きを見る

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2016/04/27 11:00
石田三成の実像1608 大河ドラマ探訪357「真田丸」22 三成の描き方7 検地枡・治部少枡・堺奉行
 大河ドラマ「真田丸」の制作統括者の屋敷陽太郎氏は、3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」で三成のいい面も悪い面も描き、三成の実施した政策についても触れると言っておられましたが、「政策」については、第15回「秀吉」で、太閤検地に関する場面がありました。秀吉が全国で一律の検地を実施するのはどうすればよいかと問い、信繁が検地枡を統一したものにすればよいと答え、秀吉は予想通りの答えが返ってきたのに満足し、統一した検地枡を使って検地を実施するよう三成に命じていました。信繁を絡ませてくるのは、... ...続きを見る

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2016/04/26 15:18
石田三成の実像1607 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」3 7月3日の訊問・道三の天脈拝診怠業事件
 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、秀次事件の一連の経緯も記されていますが、まず「7月3日 石田三成ら4名、秀次謀反について訊問(『大かうさまくんきのうち』)」と記されています。  「大かうさまくんきのうち」は矢部氏の同書でも指摘されているように、二次史料ですから、三成が訊問に行ったことは一次史料から裏付けられません。  ただし、矢部氏の同書には、「関白秀次と太閤秀吉と、去る3日より御不和」という記述が、「言経卿記」の文禄4年7月8日条にあることが挙げられています。  秀... ...続きを見る

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2016/04/25 10:38
京都探訪284 石田三成の実像1607 「禅ー心をかたちにー」展1 三成と交流が深かった高僧の像も
 写真は京都国立博物館の平成知新館で行われている展覧会「禅ー心をかたちにー」の掲示用オブジェを15日に撮ったものです。書かれている絵は、狩野山楽の筆になる「龍虎図屏風」の「虎図」です。妻と共に見て来ましたが、結構賑わっていました。三階から二階、一階と見て回りましたが、その量の多さと質の高さに圧倒されました。時期によって、展示物の入れ替えがあります。  京都だけでなく、全国各地から集められた禅宗の名僧の肖像画、仏像、書画、工芸品なとが展示されていました。「禅宗の成立」「臨済禅の導入と展開」「戦国... ...続きを見る

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2016/04/24 11:36
石田三成の実像1606 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」2 写しが二通ある「秀次高野住山」令
 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、江戸時代に秀次事件の捉え方が「秀次謀反説」から「三成讒言説」に替わったことについて論じた阿部一彦氏の見解が紹介されています。  すなわち、「『大かうさまくんきのうち』(『太閤軍記』)や『川角太閤記』などは『秀次謀反説』を採ったが、『甫庵太閤記』では明確に『三成讒言説』へと変化した」と。  「甫庵太閤記」の中に、文禄4年7月13日付の、秀次の切腹を命じた、木食上人宛の三成ら五奉行連署状が記されていますが、矢部氏の同書にはこの書状のおかしな点... ...続きを見る

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2016/04/23 11:06
石田三成の実像1605 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」1 秀吉に常には近侍していず・讒言説の最初
  矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)は、秀次の切腹が秀吉の命令に反して、無実であることを証明するために行ったという見解を論じたものです。この見解については、矢部氏の「関ケ原合戦と石田三成」や矢部氏の講演会で述べられており、拙ブログでも取り上げましたが、より詳しく論じられており、いろいろと新らしい知見が得られました。  まず三成について、次のように記されています。  「『奉行衆』『吏僚派』といわれる彼は、頭は切れるがどことなく陰湿で、日頃から秀吉に誰彼の悪口を吹き込むようなキャラク... ...続きを見る

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2016/04/22 17:17
石田三成の実像1604  大河ドラマ探訪356「真田丸」21 三成の描き方6 大谷吉継との親密さ2
 「真田丸」第15回の中で、三成の屋敷で三成が加藤清正に会うため退座した後、信繁と吉継が二人きりになり、三成について話を交わす場面がありました。まず信繁が三成のことを「不思議な方ですねえ。これまでは私に対してしごくそっけなかったのに、今宵は打って変わって随分親しげなのです。」と言うと、吉継は「曲がったことが嫌いな男だ。だから私は好きなのだが、理が立ちすぎるところがあって、人を立場ではかってしまうところがある。そっけなかったのは、恐らくそなたを低く見ていたから。嘘をついたのもそれほど話したくはなか... ...続きを見る

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2016/04/19 11:15
石田三成の実像1603  大河ドラマ探訪355「真田丸」20 三成の描き方5 大谷吉継との親密さ1
  「真田丸」第15回に、片岡愛之助さん演ずる大谷吉継が初登場しました。三成の屋敷に吉継が訪ねてきて、滞在していた信繁を三成が吉継に引き合わせるという展開でした。大河ドラマでは、吉継と云えば、関ヶ原の戦いの直前に登場することが大半で、天正14年段階の吉継が描かれるのは珍しいことです(初めてかもしれません)。  三成と吉継の親密さがうかがえ、二人が信頼しきっており、吉継も三成の性格をよく理解しているという内容でした。  「真田丸」では、吉継は昌幸のことを知っていると信繁に述べると、三成が「わず... ...続きを見る

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2016/04/18 15:17
大河ドラマ探訪354「真田丸」19 天正大地震で窮地を脱した家康・実際に地震が起こったのは深夜
 熊本地震で被災された方々に対して心からお見舞い申し上げます。何より余震が早く収まり、人々が今までの生活を少しでも早く取り戻すことができて、復興が着実に進むことを願っています。  日本は地震列島であり、関西に住んでいる当方は、南海トラフの大地震がいつ起こるか戦々恐々としていますが、今回のことで、どこで地震が起こっても不思議はないと痛感しました。熊本の象徴的な存在である熊本城の悲惨な状況にも心が痛みます。  昨年、オンライン三成会の有志の人々と名護屋城跡へ行きましたが、その後熊本城まで足を伸ば... ...続きを見る

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2016/04/17 15:07
石田三成の実像1602 「ちちんぷいぷい」での三成CM特集4 滋賀県の創生をはかってゆくのが狙い
 毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」の三成CM特集では、三成の子孫が残っているということについて、西靖アナウンサーが、家康は温情を示して、本人は殺したものの、一族の命は助けたと説明されていました。しかし、これは家康に対して、好意的な見方であって、命が助かったのは、遠く逃れた人や出家した者に限られました。第一、三成の一族の多くは佐和山落城の時に亡くなりました。父の正継や兄の正澄や一族郎党もそうでした。長男の重家は出家することによって命が助かりましたから、それは家康の温情と言えなくはありません。次男の... ...続きを見る

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2016/04/15 18:24
石田三成の実像1601 大河ドラマ探訪353「真田丸」18 三成の描き方4 経済面に明るかった清正
 「真田丸」では、三成の屋敷に清正がよく訪れているという設定になっていました。しかし、これはありえた話かもしれません。清正も三成も秀吉子飼いの武将であり、若い頃から交流があったのではないかと思われるからです。清正・福島正則=北政所派=家康、三成ら吏僚派=淀殿派という図式が当然のことのように長らく信じられてきたために、清正・正則と三成は若い時から仲が悪かったというふうに捉え方がされていますが、確執や誤解が生じたのは、かなり後年のことになってからのことではないと私は見ています。二人の関係が、今後、ど... ...続きを見る

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2016/04/14 11:16
石田三成の実像1600 大河ドラマ探訪352「真田丸」17 三成の描き方3 三成夫人登場・清正の愚痴
 「真田丸」では、真田信繁ときりは大坂で三成の屋敷に泊まっていました。三成の屋敷があったのは備前島ですが、三成の屋敷があった現在の網島町あたりが「真田丸紀行」で紹介されていました。そのあたりの写真は以前の拙ブログ記事にも貼付しました。  「真田丸」では、珍しく三成の夫人(名前はうた)が登場していました。三成夫人が登場するのは、2000年に放送された「葵 徳川三代」以来です。兼続の親友として、三成が好意的に描かれた「天地人」でも、初音という女性は登場する(幸村の姉という設定。「真田丸」のきり役の... ...続きを見る

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2016/04/13 11:59
石田三成の実像1599 大河ドラマ探訪351「真田丸」16 三成の描き方2 景勝ら初上洛時の饗応
 大河ドラマ「真田丸」の中で、三成は天正14年、加賀の倶利伽羅峠付近で上杉景勝と直江兼続を出迎えた時、「本日はここに御一泊いただき、明日出立。京の宿所は百万遍に用意してございます。しばしご滞在ののち、大坂へとご案内致します。今宵は加賀の名産を集めました。うまい酒でも飲んで、旅の疲れをいやしてくだされ」などと言っていました。  このあたりのことについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、次のように記されています。  「5月28日... ...続きを見る

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2016/04/12 11:51
石田三成の実像1598 大河ドラマ探訪350「真田丸」15 三成の描き方1 景勝上洛で信繁と出会う?
 大河ドラマ「真田丸」は昨日から大坂編に移り、待望の山本耕史さん演じる石田三成が登場し、真田信繁との出会いも果たしていました。  「真田丸」では、天正14年(1586)、上杉景勝と直江兼続が初上洛する時に、信繁ときりが同行し、倶利伽羅峠付近まで出迎えに来た三成と出会うという設定でした。出会いが最悪だというのはドラマでよく用いられる方法ですが、「真田丸」でもそうであり、三成が上杉景勝と直江兼続には挨拶するものの、信繁のことは無視して何も言わないという展開でした。  一行が京に着いた時、三成は支... ...続きを見る

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2016/04/11 11:25
石田三成の実像1597 「ちちんぷいぷい」での三成CM特集3 賛否両論・石田秀雄氏のコメント
 毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」で3月28日に放送された、滋賀県が作った三成CMについての特集で、三成CMの映像を西アナウンサーが大津市内で見せて、どう思うか訊いていましたが、賛否が半々でした。「『年貢のCM』はすごくおもしろかった」、「いいですね、このコマーシャル最高ですね」という好意的な感想を述べた人がいる一方で、「もう一つピインとこないです。三成が滋賀県の生まれというのはみなさん知ってると思いますけどね」、「ゆるキャラでいった方がいいんじゃないですかね」、「僕は失敗だと思います。マイナー... ...続きを見る

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2016/04/10 11:25
石田三成の実像1596 「ちちんぷいぷい」での三成CM特集2 キラーコンテンツ・3700万円の予算
 毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」で3月28日に放送された、滋賀県が作った三成CMについての特集で、「ひこにゃん」の敵である三成を選んだ理由について、滋賀県広報課課長補佐は次のように説明していました。  「石田三成公はキラーコンテンツになるべきだとずっと思ってまして、なかなかタイミングが無かったんですけども、今回いろんなタイミングが重なって、今は『石田三成』で『とんがった』事業で中途半端なものじゃなくて、そこで出していこうと思いました」と。  こういう取り組みに対して、ハイヒール・リンゴさん... ...続きを見る

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2016/04/09 12:31
自作短歌の周辺36 石田三成の実像1595 三成CMをテーマに・「ちちんぷいぷい」で特集1
 誤解されし三成の姿正さむと滋賀県果敢にCM作る ...続きを見る

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2016/04/08 20:54
石田三成の実像1594「三成フェス」12 パネルディスカッション3 三成と滋賀県の観光促進
 3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の「パネルディスカッション」の中で、小日向えり氏は、三成の墓がある大徳寺三玄院を訪ねた時のことも触れておられました。墓に参った時には、心にぐっと来たこと、もとは三成の墓は古田織部の墓に横にあったこと、普通の人は寺の中に入れないので、門前の「石田三成公墓所」の石碑の前に、花を供える人が絶えないことなども述べられていました。私はいまだに三成の墓に参ったことはないのですが、機会があれば是非ともお参りしたいと思っています。  また小日向氏は、三成の屋敷... ...続きを見る

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2016/04/07 19:00
石田三成の実像1593「三成フェス」11 パネルディスカッション2 政策はきちんと描く・人気の背景
 3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の「パネルディスカッション」の中で、拙ブログでも前述したように、屋敷陽太郎氏が大河ドラマ「真田丸」において三成のいい面も悪い面も描くと語っておられましたが、それは真田家も同様であって、負の部分も描いているとの言及がありました。確かに、「真田丸」のこれまでのところでも、昌幸は弟の信尹に命じて海津城代の春日信建を謀略で殺していました(これは三谷幸喜氏の新解釈だいうことは前述しました)し、室賀正武を信繁の婚礼の席で返り討ちにしていました(婚礼の日ではな... ...続きを見る

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2016/04/06 11:41
石田三成の実像1592「三成フェス」10  パネルディスカッション1 三成に出会ったのはいつ?
「三成フェス」のパネルディスカッションでは、まず三成との出会いはいつだったかについて、コーディネーターの中井均氏が尋ねていました。松平定知氏は「その時歴史が動いた」という番組においてであり、三成のことが好きだと述べておられました。松平氏もいろいろと忙しく、前日は真田昌幸・信繁が流された九度山を訪ね、翌日は大阪に行くとのことでした。ちなみに、「その時歴史が動いた」の中で、三成の立場で描いたものとしては、2005年に放送された「家康が最も恐れた男〜敗者石田三成の関ヶ原」があります。  「真田丸... ...続きを見る

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2016/04/05 18:06
石田三成の実像1591「三成フェス」9 小和田哲男氏の基調講演7 三成が秀吉の不祥事の尻ぬぐい
  写真は3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」のロビーで撮ったものです。石田三成に扮した人が持っているのは、先月27日付の拙ブログ記事にも添付した、大河ドラマ「真田丸」で三成を演じる山本耕史さんが「出陣式」のイベントで書いた「大一大万大吉」の旗印です。その横に写っているのは三成をモデルにした猫キャラクター「いしだみつにゃん」と大谷吉継をモデルにした敦賀市公認キャラクターの「よっしー」です。「三成フェス」には滋賀県だけでなく、敦賀市や大垣市の関係者も出席し、大きなイベントになっていまし... ...続きを見る

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2016/04/04 14:30
石田三成の実像1590「三成フェス」8 小和田哲男氏の基調講演6 家康の根まわしに負けた三成
 3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、前述したように「関ヶ原の戦いと三成」という項目で、「『負けるとわかって突っ込んだ』はまちがい」だという点について言及されていましたが、よくある捉え方として、大谷吉継が負けるとわかっていた戦に、三成への友情に殉じて加わったとされることが少なくありません。しかし、これについては、拙ブログでも以前にも触れたように、吉継も勝算があったからこそ、三成の挙兵に加わったものと私は考えています。戦いに加... ...続きを見る

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2016/04/03 13:58
石田三成の実像1589「三成フェス」7 小和田哲男氏の基調講演5 武功派との軋轢2 
 3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、前述したように「関ヶ原の戦いと三成」という項目で「武功派との軋轢はなぜ生まれたか」という点について言及され、朝鮮の役が直接の原因だったと説明されていました。  この点について、慶長の役での軋轢が決定的なものであったという笠谷和比古の見解があり、私はそれが妥当な見方だと思っています。現地の武将たちが蔚山城の戦いの際、追撃しなかったことや戦線縮小を唱えたことを、三成派とされる福原長嵩ら奉行... ...続きを見る

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2016/04/02 18:08
石田三成の実像1588「三成フェス」6 小和田哲男氏の基調講演4 直訴を認める掟書・武功派との軋轢
 26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、「三成の人となり」として4点目に挙げられていた「領主として誠実な百姓との接し方」ですが、三成が領内に出した村掟の条文が取り上げられていました。その条文は三成への直訴が認められた画期的な部分であり、講演会の資料では原文で記されていましたが、今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)の口語訳でそれを記すと次のようになります。  「何事によらず、百姓が迷惑することがあれば、用捨なく目安をもって訴え... ...続きを見る

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2016/04/01 16:49
石田三成の実像1587「三成フェス」5 小和田哲男氏の講演「今、石田三成を再評価する」3 人となり
 26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、「三成の人となり」として「清廉潔白な人がら」、「島左近を高禄で召し抱える」、「三成の危機管理能力」、「領主として誠実な百姓との接し方」の4点が挙げられていました。  「清廉潔白な人がら」を示すこととして、三成の居城であった佐和山城の質素さが取り上げられていました。東軍が佐和山城を落城させた後、城内の様子を見ると、豊臣政権で権勢を誇った者の城としては非常に質素で、びっくりしたという話です。 ... ...続きを見る

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2016/03/31 16:47
石田三成の実像1586 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見3 天守と土橋の位置も確認  
 写真は京都市考古資料館の「聚楽第跡の表面波探査」速報展で展示されていた、「聚楽第図屏風」(三井記念美術館所蔵)と「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)を3月23日に撮ったものです。  これらの図には、本丸北西部に天守が描かれていますが、それが今回の表面波探査によって確かめられたことが、「聚楽第跡の表面波探査」の資料に記されています。  すなわち、本丸西濠に当たる裏門通一条から南への「25〜75m地点でマウンド状の高まりを検出」し、「この高まりは削られた天守台(天守を立てた台)が残存し... ...続きを見る

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2016/03/30 21:37
石田三成の実像1585 「三成フェス」4 小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」2
 26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、三成の功績として4点挙げられていました。  1点目は豊臣政権諸政策を牽引してきたことで、その例として太閤検地が取り上げられていました。それまで検地自身は実施されてきたものの、全国規模で行ったのは三成が最初であり、今で言う日本のGNPをはじき出し、全国の石高が1800万石であることがわかったと述べられていました。鹿児島の尚古集成館に残る三成の署名入りの検地尺のことも紹介されていました。  ... ...続きを見る

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2016/03/29 10:13
石田三成の実像1584 「三成フェス」3 小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」1
 「三成フェス」は滋賀県知事の挨拶から始まりましたが、それだけで滋賀県全体の取り組みだということが端的に感じられました。知事は最後まで会場にいて、最後に「今までで一番楽しい公務でした」と述べられていました。  参加者も北は東北から南は九州まで全国にわたっていること、抽選に漏れた人がいることを司会者は明かしていました。5日に東京で行われた「石田三成出陣式」も盛況であり、東京でも思いのほか三成人気は高かったことも語られていました。  小和田哲男氏の基調講演は「今、石田三成を再評価する」と題するも... ...続きを見る

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2016/03/28 11:06
大河ドラマ探訪349「真田丸」14三成の実像1583「三成フェス」2 10日登場・旗印解釈をめぐって
 写真は「三成フェス」の会場のロビーに展示されていた、「真田丸」で三成を演じる山本耕史さんが5日の「石田三成出陣式」の際に自分で書いた三成旗印を撮ったものです。「出陣式」の時の写真も合わせて展示されていました。  「三成フェス」のパネルディスカッションの際に、屋敷陽太郎氏は「真田丸」で三成が登場するのは4月10日の放送分からだと明かされていました。真田信繁が大坂城に人質として送られた時から、三成との交流が始まること、目下撮影が行われているが、堺雅人さんと山本耕史さんとの絡みの場面は、芸達者な二... ...続きを見る

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2016/03/27 15:09
石田三成の実像1582 彦根での「三成フェス」1 「MEET三成展」もプレゼンテーションで紹介
 「MEET三成展」の案内チラシが彦根のいろいろなところに置いてありましたし、今日滋賀県立大学で行われた「三成フェス」でも配布されました。さらに、「三成フェス」の最後の長浜・米原・彦根の市長によるプレゼンテーションの中でも、「MEET三成展」の内容について具体的な話がされていました。この展覧会は、5月14日から11月30日にわたって三市の会場で同時に行われます。  彦根は「開国記念館」において開かれ、「真田丸にみる石田三成と激動の佐和山城展」と題されています。そのうち、「真田丸関連コーナー」は... ...続きを見る

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2016/03/26 23:31
石田三成の実像1581 彦根での「三成フェス」前日・ようやくたどり着いた少林禅寺の幸村の娘の墓  
 写真は彦根市笹尾町の少林禅寺を今日撮ったものです。明日は滋賀県立大学で「三成フェス」のイベントが開かれるので、一日前に彦根入りしました。三成の居城であった佐和山に登ることも考えましたが、まず前から積み残して行きたいと思っていた、真田幸村の娘(彦根藩士に嫁ぎました)の墓がある少林禅寺を訪ねることにしました。彦根にそういうところがあることを知ったのは昨年のこと(「MEET三成」の新装版を見て)であり、前回は違うところから行こうとして大回りしたため大変な時間がかかることがわかり(道に迷ったこともあり... ...続きを見る

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2016/03/25 22:42
石田三成の実像1580 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見2 「聚楽第復元図」
  写真は京都市考古資料館に展示されている「表面波探査による聚楽第復元図」を昨日撮ったものです。昨日は地下鉄北山駅近くの古田織部美術館(内容については後述します)を見て、近くのレストラン「ブリアン」で、「聚楽第跡の表面波探査」魚がメインのランチセットを食べた後、地下鉄で今出川駅に出て、西に向かって考古資料館まで歩きました(徒歩で15分程)。考古資料館では、常設展の他に、「聚楽第跡の表面波探査」速報展も開かれており、「聚楽第復元図」もその一つとして展示されていました。この図は、新聞にも掲載されてい... ...続きを見る

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2016/03/24 11:42
石田三成の実像1579 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見・秀次時代のもの
 3月11日付の朝日新聞に「聚楽第に複雑な外堀か」と題する記事が掲載されました。京大防災研究所などのグループが、「地面をたたいて発生させた地震波を検知する『表面波探査』を国内の考古学調査で初めて本格実施」しました。「その結果、本丸などの外側の東、西、北の三方に五つの外堀があるとみられることが判明。深さ8メートル以上、幅30〜40メートルで、何カ所も折れ曲がる複雑な形をしていた。城の範囲は東西約760メートル、南北約800メートルと従来の約1・6倍に広がるという」ことが分かりました。  「秀吉が... ...続きを見る

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2016/03/22 10:27
石田三成の実像1578 滋賀県の三成CMの「正しい理念で、すてきな治世」・太閤検地の不徹底さ
 滋賀県が三成のCMを作ったのは画期的なことであり、時期的にも「真田丸」の三成登場に合わせてのことですから、効果的だと思われます。  CMでは、三成を評価して、「武将といえば石田三成」、「配下にするなら石田三成」、「忠義心ナンバーワン宣言」、「正しい理念で、すてきな治世」などという言葉が出てきています。「忠義心ナンバーワン宣言」については、拙ブログでも触れましたが、CMで面白いのは秀吉が「さすがじゃ」とほめるものの、 「故人の感想です」というテロップが入っていることです。さらに次の画面で「武将... ...続きを見る

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2016/03/20 15:27
石田三成の実像1577 「三成フェス」に参加・滋賀県のCM・「歴史秘話」の好きな武将で4位
 26日に滋賀県立大学交流センターに行われる「三成フェス 〜今こそ再発見!近江の武将石田三成〜」の参加証がメールで届きました。抽選なので、どうかなと思っていたのですが、選ばれたので、安堵しています。  「三成フェス」の内容は拙ブログでも少し触れましたが、小和田哲男氏による基調講演、松平定知氏・ 屋敷陽太郎氏・小日向えり氏によるパネルディスカッション(コーディネーターは中井均氏)、三成ゆかりの地である長浜市・米原市・彦根市によるプレゼンテーションなどです。  三成関係のイベントに参加するの... ...続きを見る

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2016/03/17 23:23
大河ドラマ探訪348 「真田丸」13 石田三成の実像1576 上田城築城をめぐって・三成と上杉の接触
 大河ドラマ「真田丸」では、上田城築城について、真田が徳川に作らせたものの、それは徳川に対する備えの城だという捉え方がされていました。  上田城築城について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には次のように記されています。  「勘違いされがちだが、上田城はあくまで徳川氏直属の城郭として築かれたものであった。真田家のような国衆は、敵国の脅威にさらされた際、領国内に従属先の戦国大名の軍勢の駐屯を仰ぎ、保護を求めることがある。この場合、上杉家の脅威に対処するため、真田領内に徳川方の城郭を... ...続きを見る

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2016/03/15 11:14
大河ドラマ探訪347「真田丸」12 三成の実像1575「浜村淳です」のクイズ・嘘の虚空蔵山城の戦い?
:今朝の毎日放送ラジオの番組「ありがとう 浜村淳です」(40年以上続く長寿番組で、学生の時から聴いています。むろん、仕事を持っている時は休みの時しか聴けませんでしたが)で、三成のことが取り上げられ、9時のクイズにもなっていました。  三成は江戸時代は淀殿同様、悪人として捉えられてきたが、それは事実ではなく、その名誉回復をはかるべく、滋賀県が三成のCM番組を作ったことが紹介されていました。  クイズは、関ヶ原の戦いで敗れた三成が処刑される前に、差し出されたものの体に悪いと断ったものは何だった... ...続きを見る

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2016/03/14 15:44
大河ドラマ探訪346「真田丸」11 石田三成の実像1574 「石田三成 出陣式」・第9回の描き方
 東京で行われた「石田三成 出陣式」には行けませんでしたが、ネットニュースなどでその様子がうかがえました。三成演じる山本耕史さんが、三成の家紋である「大一大万大吉」をその場で筆で書き、披露していました。「真田丸」に三成が登場するのは4月からということですから、もう少し先ですが、今から登場が楽しみです。  さて、大河ドラマ第9回では、北条が南下して家康と戦う隙に乗じて、信濃を国衆で団結して治めようとするものの、それを翻し劣勢に立つ家康の味方をして、その見返りに諏訪、甲斐における2000貫文の所領... ...続きを見る

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2016/03/12 12:25
京都探訪280 石田三成の実像1573 芳春院の特別公開2 「呑湖閣」に春屋宗圓像・近衛文麿も下宿
 写真は大徳寺の芳春院の山門の横に建っていた特別公開の案内看板を撮ったものです。看板の上部には「呑湖閣(どんこかく)」の写真が掲載されています。「呑湖閣」も撮影禁止だったので、この看板で代用しました。  趣きのある建物であり、「飽雲池(ほううんち)」と呼ばれる池のそばに建っており、「呑湖閣」とは「打月橋(だげつきょう)」という橋でつながっています。それら全体が独特の雰囲気を作り上げていますが、池は本来もっと広かったものの、書院が建てられたために、池の一部が削られてしまったというガイドさんの説... ...続きを見る

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2016/03/08 10:57
京都探訪279 石田三成の実像1572  芳春院の特別公開1 前田家の菩提寺・家康暗殺事件をめぐって
  写真は大徳寺の芳春院の山門を一昨日撮ったものです。「京の冬の旅」特集で特別公開されており、妻と見に行って来ました。  まず地下鉄で烏丸御池駅に出て、新風館のカフェレストランでランチを食べ、再び地下鉄に乗り北大路駅へ出て、そこから西へ大徳寺まで15分余り歩きました。大徳寺へ行くには、いつもこのコースです。  本堂や庭園は撮影禁止だったので、山門の写真を撮りました。  芳春院は慶長13年(1608)、前田利家の正室であったまつが、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として創建した前田家の京... ...続きを見る

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2016/03/06 12:47
石田三成の実像1571 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」5 大谷吉継は伊勢方面から転進?
 敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」の「大谷吉継関連年表」の「大谷吉継の動向」の「慶長5年(1600)」の項には、次のようなことが記されています。  「7月、上杉征討軍に加わるため美濃垂井に進軍。石田三成と佐和山に会し、家康打倒の挙兵に合意。       前田利長軍の南下を知り、越前に移動(8月、利長軍を撤退させる)。   8月、大聖寺まで進軍し、ついで兵をまとめ美濃へ向かう。   9月、関ヶ原合戦(戦死)」と。  吉継が関ヶ原の戦いの前に北陸方面に進出し、利長軍を撤退さ... ...続きを見る

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2016/03/04 18:55
大河ドラマ探訪345「真田丸」10 石田三成の実像1570 三成イベントへの期待・春日信達の裏切り
 大河ドラマ「真田丸」の中で、三成が信繁に影響を与える重要な役割を果たす人物として描かれるとあって、三成関係のいろいろなイベントが行われるようで、今から楽しみにしています。  まず5日に東京で「近江の将 石田三成出陣式」が開かれますが、今回は行けないのが残念です。三成を演じる山本耕史さんのトークショーもあって、大いに興味は惹かれますが。  これに関連して26日には彦根の滋賀大学で「三成フェス」が行われ、小和田哲男氏の講演や松平定知氏・屋敷陽太郎氏・小日向えり氏によるパネルディスカッションな... ...続きを見る

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2016/03/02 17:31
石田三成の実像1569 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」4 慶長5年9月12日付三成書状
 高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、慶長5年9月12日付の増田長盛宛の三成書状が分析されていますが、その内容が9月12日付の吉川広家書状によって裏付けられていると指摘されています。  その二通の書状の一致点として次のようなことが挙げられています。  「東軍の陣地は垂井・赤坂であること」、「毛利軍は南宮山の上にいること」、「戦況は膠着状態であること」、「西軍は統率の取れていない状態であること」、「徳川家康の西上を石田三成は知らないこと」。  前にも述べたように、私自身はこの三... ...続きを見る

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2016/02/29 10:56
石田三成の実像1568 真田昌幸と三成の相婿説は成り立つのか? 「表裏比興の者」をめぐって
 三成夫人と真田昌幸夫人とは姉妹であり、共に宇多頼忠の娘だったという説が、従来信じられてきましたが、最近は否定的な見解が多くなっています。それは特に真田氏を研究している人々によって唱えられています。前にも拙ブログ記事で触れたように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、昌幸夫人は京の公家の侍女であるという見解が示されています。  三成研究家の白川亨氏は、三成と昌幸が相婿であるとの説を展開されていましたが、「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、年齢的な面から、昌幸夫人は宇多... ...続きを見る

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2016/02/26 15:06
大河ドラマ探訪344「真田丸」9 石田三成の実像1567 滝川の人質だった信繁4 昌幸の変わり身
  写真は心眼寺の墓地の北側及び東側の崖を6日に撮ったものです。この崖は「歴史秘話ヒストリアスぺシャル 徹底解明 これが真田丸だ」でも取り上げられていました。浅野家に伝わる絵図にも、真田丸の東側に崖が記されており、このあたりが真田丸の東の端あたりだったと思われます。  さて、大河ドラマ「真田丸」では、滝川一益の人質となっていた昌幸の母を、信繁が助けに行くものの、失敗し人質になる展開になっていました。信繁が一益の人質になっていたという丸島和洋氏の見解が、「真田丸」で取り入れていないと拙ブログ記... ...続きを見る

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2016/02/24 11:36
石田三成の実像1566 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成6 三成挙兵は家康の想定外 
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、慶長5年、家康が上杉攻めに向かったのは三成の挙兵を誘うためだったという見方には、否定的な見解が示されています。  その根拠として、三成の石高が19万4千石と少ない上、「蟄居の身であるのだから、家康に立ち向かえるはずがない」という点、「家康が動かしたのは豊臣正規軍」であり、「家康にとっては、正規軍の指揮を執るだけで、十分な政治的な意味がある」点などが挙げられています。  「したがって家康にとって、以後の経緯は想定外と考えたほうがよいのではな... ...続きを見る

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2016/02/22 10:43
石田三成の実像1564 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成5 三成襲撃事件をめぐって
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件のことにも触れられています。  まず小説やドラマでよく描かれているように、三成がこの時、家康の屋敷に逃げ込んだのは事実ではないことが指摘されています。  「笠谷和比古氏が明らかにされたように、三成が逃れたのは伏見城内の治部少輔丸(治部少輔は三成の官位)であり、ようするに自身の屋敷に逃げ込んだとするのが正しい」と。  この見解は、笠谷氏と黒田慶一氏の共著「秀吉の野望と誤算」(文英堂)でも示されていますし、中... ...続きを見る

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2016/02/17 10:34
石田三成の実像1563 秀吉が亡くなった10日後の毛利輝元起請文 三成の加筆訂正
 堀越祐一氏の「五大老・五奉行は実際に機能していたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【歴史新書y】所収)の中で、秀吉が亡くなった10日後の8月28日に、三成が「毛利輝元の取り込みに成功している」ことが記されています。  「すなわちこの日、輝元は浅野長政を除く四人の奉行宛の起請文を書いているが、そこには『今回定められた五大老のうち、四奉行と心違いをする者が現れたならば、自分はあなたたちに協力する』とある(『毛利家文書』)。実はこの起請文は輝元が自発的に書いたものではなく、三成の要求に... ...続きを見る

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2016/02/15 10:34
石田三成の実像1562 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成4 秀吉生前は五奉行による政権運営
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、五大老・五奉行制について、次のような見解が示されています。  「一般に、秀吉生前から五大老が政権運営に参加したとされることが多いが、これは事実ではない」、「外様が政権運営に関与することはない。したがって秀吉生前は、五奉行を含む豊臣直臣団によって政権運営がなされていた」と。  むろん、三成は五奉行の一人でしたが、五大老・五奉行制は、「秀吉が没する直前の慶長3年(1598)7月または8月上旬に成立した」と、堀越祐一氏の「五大老・五奉行は、実際... ...続きを見る

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2016/02/13 10:53
石田三成の実像1561 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成3 真田信幸宛の三成書状をめぐって
 石田三成が真田信之に送った書状が、十数通残っていることが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「真田信之」の章に記されていますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」の中でも、「立場を超えた友情」と題して、その書状の数通について、その内容が紹介されています。  中井氏の同書で冒頭に取り上げられている書状について、「信長の嫡孫の岐阜城主・織田秀信の湯治の世話を頼んだものだが、公的な書状というより、私信に近く、三成の態度も己を飾ることなく、感情を素直に表し、謙虚である」と解説されて... ...続きを見る

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2016/02/09 11:06
大阪探訪123 大坂の陣49 新たに発掘された大坂城 詰ノ丸の南東石垣・隅櫓跡・夏の陣の焼け土層
  写真は新たに発掘された豊臣期大坂城詰の丸の地表面や石垣などを2月6日に撮ったものです。写真の中央より少し下のところに「豊臣期地表面」の表示板がありますが、写真に向かってその左側のところが肉眼ではあちらこちらオレンジ色になっているのが分かりました(写真ではわかりにくいですが)。それが大坂夏の陣の時に焼けた跡です。  今回の現地公開は、土日の二日間にわたって、しかも10時から午後4時まで行われたので、それほど混んではいませんでした。ある程度人が集まった時点で、学芸員さんが10分程、説明を行って... ...続きを見る

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2016/02/08 15:58
石田三成の実像1560高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」3 白峰氏の見解との相違点・脇坂不在?
高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」では、従来、小早川秀秋の裏切りに続いて西軍を裏切ったとされる脇坂安治が関ヶ原の戦いに参陣していなかったという見解が示されています。その根拠として西洞院時慶の「時慶記」の記述が挙げられています。すなわち、「脇坂安治らは京極高次に同心し、9月3日に大津城から中国衆を追い出して、籠城戦をしていました」と。  また高橋氏の同書では、「西軍について西軍側として参陣しているいくつかの部隊が合戦の途中、あるいは合戦がはじまると同時に寝返って東軍側となって戦うという... ...続きを見る

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2016/02/06 22:05
石田三成の実像1559 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」3 白峰氏の見解との共通点、相違点
 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、戦場が「山中」であることを示すものとして、9月15日付の徳川家康書状、17日付の毛利輝元宛吉川広家書状が取り上げられていますが、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)では、それらの書状のほかに、19日付の松沢喜右衛門尉他二名宛保科正光書状写が挙げられています。  決戦の場所が、山中だったということをうかがわせるものとして、前にも触れたことですが、山田喜庵が書いた「佐和山落城記」があります。その中で、関ヶ原の戦いの後、佐和山城から脱出した山... ...続きを見る

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2016/02/05 11:14
石田三成の実像1558 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」2 秀秋と西軍の戦いに東軍が攻撃?
  1月31日付拙ブログ記事で触れたように、高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、関ヶ原の戦い当日である9月15日付の徳川家康書状が取り上げられ、「家康は戦場を『関ヶ原』とは言わず『濃州山中』であったと言ってい」ることが記されています。  戦場が「山中」であることは、17日付の毛利輝元宛吉川広家書状でも記されており、その部分は次のように意訳されています。  「山中への先鋒は福島正則、黒田長政、そのほかに加藤嘉明、藤堂高虎、そのほか上杉征伐に加わった諸将たちで、小早川秀秋の手引きであ... ...続きを見る

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2016/02/03 10:53
受贈御礼 石田三成の実像1557 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」1 正午頃に西軍は敗北
  「毛利吉成・勝永父子座談会 実行委員会会長」の有川淳一氏より、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」(自費出版されたもの)をいただきました。有川氏からは以前にも、福本日南氏の「大阪城の七将星」から「毛利勝永」を有川氏が抜き刷りして冊子にしたものを賜りました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。  「大阪城の七将星」の「毛利勝永」は、大坂の陣での活躍を中心として述べたもので、勝永のすさまじい奮戦ぶりにスポットが当てられています。福本氏の同書の内容については、大坂の陣を取り上げる際に、改... ...続きを見る

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2016/01/31 15:43
石田三成の実像1556 天正14年8月3日付の上杉景勝宛ての増田長盛・石田三成連署状
 笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で、天正14年8月3日付の上杉景勝宛ての増田長盛・石田三成連署状が取り上げられています。  その書状の解説として、「昌幸を討とうとして上杉景勝に昌幸の支援を禁じた」ものであり、「秀吉が昌幸を外面と内面が異なる表裏のある者で、卑怯者だと評していることが記されています」とあります。  原文には「表裏比興の者」と書かれており、昌幸を評する言葉として、あまりにも有名です。  この時点で、三成も昌幸に対して秀吉と同様の思いを持っていたかは判然としませ... ...続きを見る

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2016/01/28 21:47
石田三成の実像1555 天正13年10月17日付と11月19日付の昌幸宛ての秀吉書状をめぐって
 拙ブログ記事で前述したように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、「天正13年10月、昌幸は秀吉から支援の確約を得ることに成功した。取次役は石田三成」などど記されています。  この点について、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、10月17日付の昌幸宛ての秀吉書状が掲載されています。その書状について、次のように解説されています。  「昌幸は秀吉家臣の道茂に書状を送り、現状を説明し、秀吉と結びつきたいとの意志を伝えていたのである。これに応じた秀吉は、昌幸の進退につ... ...続きを見る

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2016/01/27 14:41
石田三成の実像1554 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成2 秀次娘と信繁の間の娘・昌幸の取次
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、豊臣秀次の継室である一の台の娘が、真田信繁に嫁いだことが記されていることを拙ブログ記事て前述しましたが、この一の台の娘は、「慶長9年、九度山で信繁の娘御田(おでん)を産んだという。御田は亀田藩主岩城宣隆(いわきのぶたか)【佐竹義重三男】に嫁ぎ、寛永6年(1629)に妙慶寺(秋田県由利本庄市)を建立して信繁を弔ったという。信繁の娘が宣隆に嫁いだことは『岩城家譜』で確認がとれる」と書かれています。  信繁の娘が岩城宣隆(多賀谷宣家に名乗っていた... ...続きを見る

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2016/01/25 11:07
石田三成の実像1553 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成1 忍城攻め・秀次事件の名誉回復
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、もちろん三成のことにも言及されていますが、先行研究の成果がいろいろと取り入れられ、三成の名誉回復に結びついているところがあります。  まず忍城の水攻めについて、次のように記されています。  「忍城を攻撃していた石田三成は、秀吉の指示で『水攻め』を行うこととなった。すでに城内から助命嘆願が出ており、水攻めの衝撃で城中の議論を速やかに開城でまとめさせることを意図してのことであった。20日、真田昌幸は秀吉の命により鉢形を離れ、浅野長政に従って忍城... ...続きを見る

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2016/01/24 11:24
石田三成の実像1552 太田浩司氏の講演11 史料に取り上げられていた「武功夜話」・偽書か?
 昨年12月に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」の中で、「武功夜話」にある「天正5年10月19日、羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」の記述が取り上げられていました。  もっとも、「武功夜話」については、偽書だという見解があり、それを史料として使うと学界では集中砲火を浴びるということも述べられていました。確かに、後世の加筆などはあるものの、もともと書かれたものには、史料的な価値があるのではないか、その点を今後よく吟味していかねばならないというのが太田氏の見解でした。... ...続きを見る

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2016/01/21 21:53
石田三成の実像1551  青春18切符で太田城跡、和歌山城へ6 大立寺・高野山に刀狩令・三成と木食
写真は和歌山の大立寺の山門を1月8日に撮ったものです。この山門は太田城の大門を移築されたものだといわれています。  大立寺は、JR和歌山駅の南西方向にあり、けやき通りを西に進み、柳通りを南下していきましたが、15分余りかかったでしょうか。このあたりも完全な町中です。この後、西に10分余り歩き、和歌山城に行きました。  さて、秀吉が紀州攻めをした際、「原刀狩令」を発しましたが、高野山にも発せられました。  この点について、桑田忠親氏の「太閤の手紙」には次のように記されています。  すな... ...続きを見る

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2016/01/19 11:10
石田三成の実像1550 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ5 小山塚・秀吉の「原刀狩令」
 写真は和歌山の小山塚を1月8日に撮ったものです。太田城の犠牲者を葬った塚の一つです。もっとも、この塚の位置は元ある場所から移っていることが、そばの説明碑に次のように記されています。  「当小山塚は昭和27年和歌山市太田538番地の塚跡に建立されましたが、昭和60年東和歌山第一地区区画整理事業により現地に移転したものである 昭和60年7月26日 太田城史跡顕彰保存会」と。  今の小山塚が建っているのは、来迎寺のすぐ東にあり、本丸があったとされる場所です。  太田城が開城したのは天正13年4... ...続きを見る

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2016/01/17 11:34
大河ドラマ探訪338「真田丸」3 昌幸夫人は公家出身? 石田三成の実像1550 丸島和洋氏の見解
 大河ドラマ「真田丸」では、真田昌幸の夫人は公家の出身という設定になっており、演じる高畑淳子さんの衣装は、公家らしいものになっていました。真田昌幸の夫人と石田三成の夫人は、姉妹であり、共に宇多頼忠の娘であるとの説があり、2009年に出版したオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」の章では、その説に従いました。しかし、その相婿説には複数の歴史学者から疑義が出されており、2012年に発行した「新装版 三成伝説」では、「三成夫人と昌幸夫人は姉妹であり、宇多頼忠が父親とされるが... ...続きを見る

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2016/01/16 12:40
石田三成の実像1549 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ4 秀吉の水攻め4 太田左近像
写真はJR和歌山駅東口に建つ、太田城主の太田左近像を1月Tがっ撮ったものです。太田城は秀吉によって落城しましたが、敗軍の将ながら地元の英雄をこういう形で顕彰しているのはいいことですし、今後顕彰が進んでいくことを願っています。この時、三成は攻撃軍の中にいましたが、関ヶ原の戦いでは逆に敗軍の将になり、悲劇的な最期を遂げました。三成の地元での顕彰活動はますます盛んになってきていますし、佐和山城跡の発掘調査、「三成会議」の開催や「三成の戦」のイベントもその表れです。  太田左近像のそばに建っている... ...続きを見る

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2016/01/15 17:37
石田三成の実像1548 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ3 秀吉の水攻め3 本丸跡・堅牢な城
  写真は和歌山市の来迎寺の山門を1月8日に撮ったものです。ここに太田城の本丸がありました。かつてはここに城があったとは思われないほど、今は遺構はほとんどなく、このあたりは完全に町中になっています。この城の規模について、寺の横に建っている太田城の説明掲示板に次のように記されています。  「城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる」と。   松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳ルイス・フロイスの日本史4」(... ...続きを見る

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2016/01/13 18:09
石田三成の実像1547 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ2 秀吉の水攻め2 堤跡・行長の活躍?
  写真は秀吉が太田城を水攻めにするために城の周りに築いた堤の、わずかに残る跡を1月8日に撮ったものです。昨日付の拙ブログ記事に貼付した写真に、その堤の推定位置も記載されていますが、残っている堤の位置は城の本丸の北北東の方向に当たります。その説明掲示板には、築いた堤の長さは6〜7キロと記されています。  これも前述したように、三成がこの太田城攻めに従軍していることは、「宇野主水日記」によってわかりますが、どういう役目を果たしているかは定かではありません。  松田毅一氏・川崎桃太氏訳の「完訳フ... ...続きを見る

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2016/01/11 11:21
石田三成の実像1546 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ1 秀吉の太田城水攻め1 三成も従軍
 写真は和歌山で見つけた、秀吉の太田城水攻め跡の説明掲示板を一昨日撮ったものです。JR和歌山駅の東口と西口をつなぐ地下道の壁に掲示されていました。  一昨日は青春18切符(最後の1枚)を利用して、和歌山へ行き太田城跡や関連史跡、和歌山城をめぐってきました。まず、東口の駅前にある太田城主であった太田左近の像を見、秀吉が水攻めのために築いた堤跡(駅の西北東の方向にあるところにわずかに残っています)、本丸があった来迎寺、すぐそばの太田一族の供養のために小山塚(堤のところから南下しました)、再び東口に... ...続きを見る

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2016/01/10 11:08
石田三成の実像1545 太田浩司氏の講演10 惣奉行としての吉継・三成 秀吉没後、家康寄りの吉継 
 昨年12月23日に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」では、前述しているように、吉継と三成が若い頃からいかに行動を共にしていたかを、数々の史料をもとに明らかにされていましたが、文禄の役の際にも共に奉行として渡海しています。小瀬甫庵の「太閤記」(新人物往来社)の「朝鮮陣人数賦之事」も取り上げられおり、「惣奉行は、増田右衛門尉、石田治部少輔、大谷刑部少輔なり」という記述が紹介されていました。  「惣奉行」という言い方が一次史料に見られるかどうかは確認していませんが、三人... ...続きを見る

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2016/01/08 22:00
石田三成の実像1544旅行記68 名護屋・福岡旅行28 筥崎宮 太田浩司氏の講演9 大陸侵攻の困難さ
  写真は博多の筥崎宮を昨年の9月21日に撮ったものです。秀吉は九州攻めの際、本陣を置いたところです。   三成と博多の関わりについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)の「天正15年(1587)」の項には、次のようなことが記されています。  4月「23日付で大谷吉継・安国寺恵瓊と連署状を発して、博多商人の還住を勧める(『原文書』)」、島津攻めの後、「筑前箱崎に凱旋。長束正家・小西行長らとともに博多復興を期した町割りの奉行に就いたとさ... ...続きを見る

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2016/01/06 15:12
石田三成の実像1543旅行記67名護屋・福岡旅行27太宰府天満宮楼門 太田浩司氏の講演8 吉継奉納鏡
 昨年はオンライン三成会有志の人々と名護屋・福岡を訪ねましたが、今年は津軽を訪れたいと思っています。三成の次男の重成が関ヶ原の戦いの後逃れたのは津軽でしたし、三成の三女の辰姫が嫁いだのも津軽藩でした。   写真は大宰府天満宮の楼門を昨年の9月21日に撮ったものです。楼門を再建したのは石田三成だということが、太宰府天満宮発行の図録「天神絵巻 太宰府天満宮の至宝」に記されています。同図録には、本殿は小早川秀秋が再建し、土地は秀吉が、鰐口は筑紫広門が寄進したこと、黒田家が如水以来代々天満宮を篤く信... ...続きを見る

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2016/01/04 10:40
石田三成の実像1542 法要のニュースにうつる 太田浩司氏の講演8 文禄の役の吉継・三成
 大河ドラマ「真田丸」で山本耕史さん演じる三成がどのような活躍するのか、楽しみにしています。少なくとも悪いようには描かれないのではないかと、大いに期待しています。  去年は2回、ちらっとテレビのニュースに自分の姿がうつりましたが、1度目は11月1日に長浜市石田町で行われた石田三成の法要の際でした。山本耕史さんが列席し私はその2列後ろに座っていたので、うつったようです。このニュースは残念ながら私は見ていないのですが、後日奈良に住む知人がうつっていたと教えてくれました。関西のローカルニュースで流れ... ...続きを見る

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2016/01/02 13:17

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