追悼 京都アニメーション火災

14日に母方の祖母の三十七回忌、叔父の三回忌が、岐阜大野町の母の実家で営まれたので、妹と一緒に前日から泊りました。今度は1日置いて16日から3泊4日で一人、小倉へ行ってきました。1日は小倉市内散策、もう1日は門司、下関と廻ってきましたが、その時のことは改めて拙ブログで述べたいと思います。フェイスブックの方では、一部写真入りで紹介…
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石田三成の実像2694  白峰旬氏「慶長4年閏3月の反三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解…

白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の毛利輝元書状のうち、D文書と光成氏が名付けている書状について、詳細に解説されていますが、その続き…
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受贈御礼 白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」…

白峰旬氏より最近の玉稿をご恵贈賜わりました。この場を借りてお礼申し上げます。 このうち、「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)は、いろいろと興味深い内容が含まれており、自分自身、考えを改める必要性を感じました。  「反石田三…
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石田三成の実像2692  大河ドラマ「葵 徳川三代」11  従来通りの小山会議の描き方

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、家康方軍勢が西に反転することを決めたとされる小山会議は、通説通りの描き方がされていました。会議の席上、福島正則が「正則の身上、内府殿にお預け申し上げなん」と言うと、諸将も次々にそれに賛同し、山内一豊が居城の掛川城を家康に預けると言うと、これにも諸将は次々に同じ申し出をするという展開でした。  小山会議に…
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石田三成の実像2691 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」42

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑯「慶長3年12月11日、小西行長ら西目衆が博多に到着した」の中で、同日付の島津忠恒宛の小西行長・寺沢正成書状が取り上げられ、次のように解説されています。  「小西行長は加藤清正より9日遅れて、12月11日、寺沢正成とと…
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石田三成の実像2690 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」41

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑮「慶長3年12月7日、島津義弘は朝鮮からの撤退の様子を照高院道澄にしらせた」の中で、同日付の近衛家家臣・伊勢貞知宛島津義弘書状が取り上げられ、現代語訳されていますが、次のように解説されています。  「島津義弘は加藤清…
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石田三成の実像2689  大河ドラマ「葵 徳川三代」10 ガラシャ夫人の自刃を聞いて三成が中止命令?

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、三成は挙兵後すぐに大坂城に乗り込んだという描き方がされているために、家康方の武将たちの人質を大坂城に移すことを指示し、7月17日に細川ガラシャ夫人が人質を拒んで自刃したため、人質作戦の中止を命じていました。  しかし、実際の三成が大坂城に入ったのは7月末と思われますから、ガラシャ夫人が自刃した時には、…
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石田三成の実像2688  大河ドラマ「葵 徳川三代」9 家康弾劾状を発する前に大坂入城?

 大河ドラマ「葵 徳川三大」では、反家康の挙兵を決意した三成が大坂城に乗り込み、三奉行を説得し、手順を説明していました。三奉行の名で毛利輝元に書状を出し、総大将として大坂城に迎えることを要請すること、やはり三奉行の名で家康弾劾状を書くこと、その前に家康に書状を送り「三成挙兵の兆しあり」と記し、家康に内通するふりをし、大坂城の体制がまとま…
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石田三成の実像2687  大河ドラマ「葵 徳川三代」8 家康の策に乗せられ挙兵?

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、徳川家康が上杉攻めのため大坂城から出陣した後の7月1日、三成からの家康を討つとの密書が片桐且元に届き、淀殿と対応を協議しますが、片桐は家康が三成の蜂起を見越しているとわかっていると述べたため、それを聞いた淀殿が恐怖を覚えるという描き方になっていました。  このドラマでは、前述したように、三成を義に生き…
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石田三成の実像2686 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」40

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑭「慶長3年12月6日、島津龍伯は伏見において徳川家康の私邸を訪問した」の中で、秀吉の死後の島津龍伯の訪問先について具体的に述べられていますが、その続きです。  「12月1日、徳川家康は近衛信尹・山岡道阿弥をつうじて、島…
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石田三成の実像2685 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」39

高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑭「慶長3年12月6日、島津龍伯は伏見において徳川家康の私邸を訪問した」の中で、秀吉の死後の島津龍伯の訪問先について具体的に述べられていますが、「9月13日以前に、島津龍伯は石田三成のもとを訪問しました。このとき石田三成は…
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石田三成の実像2684  大河ドラマ「葵 徳川三代」7 北政所が大坂城西の丸を家康に譲った?

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、慶長4年9月、徳川家康が大坂城に入城した際、北政所が家康に西の丸を譲ったという描き方がされ、その理由として、大名たちが淀殿になびいてひれ伏すのが面白くない、京都で静かに暮らしたい、家康が西の丸でにらみをきかせれば、淀殿の増上慢も、少しは収まるからと言っていました。  ここにも、北政所=家康VS三成=淀…
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石田三成の実像2683 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」38

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑬「慶長3年12月2日、加藤清正ら東目衆が博多に到着した」の中で、姜沆の「看羊録」の記述が史料として取り上げられ、「加藤清正・黒田長政らは、12月15日すぎに伏見に到着し、豊臣秀頼のもとへ伺候し、徳川家康へ戦果報告した」…
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石田三成の実像2682 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」37

  高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑬「慶長3年12月2日、加藤清正ら東目衆が博多に到着した」の中で、11月27日付の加藤家家臣の加藤喜左衛門尉・下川又左衛門尉宛加藤清正書状が取り上げられ、同日に、清正は「壱岐勝本に着岸し」、「領国肥後の内政について細か…
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石田三成の実像2681「歴史通」8 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」8

  「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「『家康を討つ!』西軍戦略の要衝にある上田城・真田を誘った熱意溢れる書状」」という題で、三成が挙兵した後の慶長5年7月30付で真田昌幸宛三成書状が取り上げられ、次のように解説されています。  東の…
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石田三成の実像2680  大河ドラマ「葵 徳川三代」6 家康暗殺計画

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、慶長4年9月、徳川家康が大坂城に入城した時、家康暗殺計画があったとして、前田利長や大野治長に疑いをかけるものの、それは家康自身が仕組んだ謀略であったという捉え方がされていました。利長が計画者とされたのは、利長と三成と通じていると考えられたからで、大野治長は淀殿と密通しているとの噂があったからだという描き…
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三成の実像2679「歴史道」7 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」7

「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「徳川の天下になっても三成の手紙を捨てなかった信幸」という題で、真田信幸宛三成書状が取り上げられ、「織田秀信の湯治の案内役を信幸の家臣に依頼したとする内容」だと説明されています。  中井氏の同書には、…
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石田三成の実像2677 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」36

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑫「慶長3年11月30日、石田三成は撤退の様子を島津龍伯にしらせた」の中で、その三成書状の内容について次のように記されています。  「明との和平交渉は、島津義弘主導によって成立しました。朝鮮在陣の諸将は、10月30日、…
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石田三成の実像2676  大河ドラマ「葵 徳川三代」5 五奉行の剃髪・三成の失脚後

 大河ドラマ「葵 徳川三代」では、徳川家康の婚姻問題の決着として、三成ら五奉行は剃髪して謹慎、家康は誓紙を五大老に提出したというふうに描かれていました。もっとも、五奉行の剃髪については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、謹慎という意味合いではなく、次のような見解が示されています。  「秀吉の遺言に従ったものとされるが、こう…
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三成の実像2675 「歴史道」6 中井俊一郎氏「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」6 

 「週刊朝日ムック 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実」の中に、中井俊一郎氏の「五通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」の中で、「鷹狩についての愛情とこだわり、そして三成の意外な諧謔精神も垣間見える手紙」という題で、中納言宛三成書状が取り上げられ、その内容について次のように解説されています。  「進上する鷹の素晴らしさをこと…
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