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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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三成の実像2432 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」6 秀吉の死の10日後の毛利輝元起請文前書案
 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、毛利輝元と家康の関係について論じられています。  まず、秀吉の死から10日後の慶長3年8月28日に書かれた「毛利輝元起請文前書案」が取り上げられおり、次のように解説されています。  「太閤秀吉の死後も豊臣秀頼を守り立て、異心なく同調することを輝元と四奉行が誓おうとした姿が見て取れる。特に『自然世上為何動乱之儀候』という表現は、すでに豊臣政権内に不穏な動... ...続きを見る

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2018/10/23 00:28
三成の実像2431 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」5 6月20日付兼続宛書状・7月15日付義弘書状
 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、前述したように、三成一人が企てたということに対して否定的見解が示され、その根拠の一つとして、6月20日付で三成が直江兼続に宛てた書状の内容が取り上げられています。  この書状については、かつて偽文書説があったことが、桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所載)に記されていますが、偽文書ではないことと... ...続きを見る

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2018/10/22 10:47
石田三成の実像2430 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」4 事前準備・「内府ちかひの条々」をめぐって
 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、三成の挙兵が事前に練られており、三成が裏で三奉行を指揮していたという小和田哲男氏の見解が紹介されています。  すなわち、「7月11日以降、三成方の動きがにわかに活発となったわけであるが、手紙一つで前田玄以・増田長盛・長束正家の三人がすぐ動いたところを見ると、三成とこの三奉行との間には、事前に何らかの相談があったと考えることもできる」と。   確かに、三... ...続きを見る

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2018/10/21 11:22
三成の実像2429 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」3 二大老・四奉行が中心
 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の「はじめに」で、西軍の組織について、「西軍の首謀者は三成とされているが、三成一人で約八万四千人もの軍勢を組織し得たのかという疑問」があり、「西軍の組織、特に挙兵に関わったと考えられる人物を見直すことで、関ヶ原合戦における西軍の形成を考察し直す」のが本稿であり、そのことが具体的に考察されています。  先に言ってしまえば、「むすびにかえて」で次のように結論づけられ... ...続きを見る

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2018/10/20 10:13
石田三成の実像2428 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」2 北政所が家康を支持していた説への疑問
 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)に、秀吉夫人の北政所と関ヶ原合戦に関して、次のように記されています。  「北政所の動向については家康を支持していたことが通説になりつつあるが、木下俊定など北政所関係者が多数西軍に属していることや三成の三女辰姫が北政所の養女となっていること、さらに家康との関係において象徴とされている高台寺の建立は、江戸幕府が開設された後の慶長10年(1605)であることなどからも... ...続きを見る

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2018/10/19 10:47
石田三成の実像2427 布谷陽子氏の『関ヶ原合戦の再検討』」1 現在の関ヶ原合戦研究
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)に、布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」が掲載されています。2005年に発表されたものですから、この十年余りの間に、さらに関ヶ原合戦の再検討は進んでいます。  布谷氏の同書では、「現在の関ヶ原合戦研究は、大きく分けて二つの方向がある。一方は、関ヶ原合戦における各武将の動向や東西両軍形成に関する、いわば関ヶ原合戦の過程そのものについての研究であり、他方は『幕藩体制』の成立過程から関ヶ原合戦を意義付けようと... ...続きを見る

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2018/10/18 10:40
三成の実像2426 大阪探訪137 大坂の寺町形成
義母の三回忌法要が、10月7日に妻の実家の菩提寺である大阪市天王寺区下寺町の金台寺で営まれましたが、生まれて4ヶ月余りの甥も義妹夫妻に伴われてアメリカから参列していました。その時のことはフェイスブックの方で記しています(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem)。  昨年11月に金台寺の仏像群が三日間だけ特別公開されましたが、その際のレジュメに、金台寺の寺歴も掲載されていますが、最初は安堂寺町堺筋に建立され、大坂の陣の後、現... ...続きを見る

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2018/10/17 10:52
三成の実像2425 京都探訪289 太閤堤跡歴史公園の事業計画
フェイスブック(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem)でも記しましたが、宇治市で、今、大きな問題となっているのは、「太閤堤跡歴史公園」の建設です。88億円という巨額な費用がかかり、2業者の応募の末、業者は決まったものの、審査も不透明で、批判を浴びています。  歴史公園を作ること自体については、私は意義深いことだと思っており反対ではありませんが、いろいろと問題点が多く、今のままでは素直に受け入れられません。  埼玉県には... ...続きを見る

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2018/10/16 10:27
三成の実像2424 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」9 義弘の助命と本領安堵
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、関ヶ原の戦いの半年後、井伊直政が島津義弘に書状を送り、自分が島津家との和睦のために力を尽くすと述べていることが取り上げられていました。  このことに関して、桐野作人は次のように解説されていました。  直政は関ヶ原の戦いで負傷することによって、島津家の強さを身に染みてわかっており、島津と戦うのは危険だというたこと、南九州まで進軍するのは距離的に大変だし、上杉や毛利とも和睦ができていなかったので、まだ何が起こる... ...続きを見る

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2018/10/15 10:20
三成の実像2423 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」8 島津豊久の死んだ場所
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の伊勢街道を南下して退却する時に、前述したように、家康の四天王の井伊直政や本多忠勝に追撃され、直政は銃弾を右肩に受け落馬したと説明されていました。  これも前述したように、直政が負傷したのは島津軍の陣であったとの見解が、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)で記されていますが、「退き口に移った義弘主従は組織だった追撃を受けていない可能性が高いことを示している」ことも指摘されています。  義弘の... ...続きを見る

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2018/10/14 10:26
三成の実像2422 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」7 井伊直政が銃撃された場所
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の伊勢街道を南下して退却する時のことは次のように説明されていました。  家康の四天王の井伊直政や本多忠勝たちに追撃されたこと、その時に島津軍が繰り出した戦法は捨てがまりといわれるものだったこと、井伊直政は銃弾を右肩に受け落馬して重傷を負ったこと、島津軍も島津豊久が31歳で命を落としたこと、島津軍は多くの犠牲を出しながらも、二十キロほど伊勢街道を逃げ、午後七時ごろ駒野坂に到着したこと、この時の島津軍の兵は... ...続きを見る

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2018/10/13 10:48
三成の実像2421 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」6 家康本隊と遭遇
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の退却の時に、島津軍は家康本隊と遭遇したものの、家康本隊は島津軍をやりすごし、その時に義弘は使者を家康に遣わせて、次のように口上を述べさせたと説明されていました。  すなわち、「島津兵庫入道義弘、こたびはからずも御敵となり、戦い利あらずしてただ今御陣頭を過ぎて、本国薩摩へと帰り申す。わが心事についてはら後日に改めて言上つかまつるべし」と。  番組では、家康の勝利が確定し、薩摩が生き延びるのは難しくなっ... ...続きを見る

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2018/10/12 10:05
三成の実像2420 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」5 敵の大軍にのみこまれるように戦う
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の退却の時に使った戦法について、戦国史研究家の小和田泰経氏は当時の史料には書かれていないものの、江戸時代後期に書かれた島津側の兵法書に、「穿(うがち)抜け」という戦法が使われたと記されていると説明されていました。キリで穴を開けるように島津隊が一丸となって、敵の一点を集中攻撃し、突破するという戦法で、かなりの至近距離での戦いだったと説明されていました。  島津隊の戦法については、桐野作人氏の「関ヶ原 島津... ...続きを見る

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2018/10/11 11:36
三成の実像2419 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」4 島津隊の布陣場所は従来通り
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊が退却したルートについて次のように説明されていました。  家康方軍勢に取り囲まれて絶対絶命の窮地にあった、伊吹山を背にした島津隊が退却するルートは四つあったが、東海道は国許の薩摩へ行くルートとは反対方なのでまず除外されたこと、残るは北国街道から北へ逃れるか、中山道から西に逃れるか、伊勢街道から南に逃れるかだったが、義弘は伊勢街道を逃れることを選んだこと、しかし、伊勢街道は家康直臣の軍勢が立ちふさがるもっ... ...続きを見る

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2018/10/10 10:35
三成の実像2418 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」3 関ヶ原は従来の捉え方・島津は二番備
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、関ヶ原の戦いについては、大半、従来の説通り説明されていました。すなわち、三成が陣を置いたのは笹尾山で、島津隊はそのそばに陣を置いていたこと、関ヶ原に西軍8万、東軍7万が集結したこと(各武将の布陣位置は通説通り)、午前八時に井伊隊が宇喜多隊に発砲し戦いが始まったこと、松尾山の小早川秀秋が裏切り、山中にいる大谷隊に襲いかかり西軍が劣勢となったこと、この間も島津隊は動かなかったこと、三成は島津隊の元に使者を送るものの... ...続きを見る

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2018/10/09 10:51
三成の実像2417 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」2 三成の大坂城入り・佐渡での一件
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、伏見城入りを拒否された義弘が西軍(三成ら豊臣公儀側)に就いたのは、周囲がすべて西軍であり、そうするのが生き残る道だったと説明されていました。  この点に関して、桐野氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、義弘が西軍に就いたのは、島津本宗家の家督を継いだ忠恒の夫人亀寿の存在が大きかったと指摘されています。亀寿は、三成方に人質として取られていました。  番組では、挙兵した三成が7月中旬頃に大坂城に入って打... ...続きを見る

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2018/10/08 10:48
三成の実像2416 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口”」1 三成の挙兵を家康は見越していた?
 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、明治維新で薩摩藩が活躍できたのは、関ヶ原の戦いで島津隊が逃げ延び、薩摩藩が存続できたからという見方が示されていましたが、これは一般的に広く認められた見解であると思われます。  番組では、家康が会津攻めに行く時、三成が挙兵することを見越していたという捉え方がされていました。その時に、伏見城が危なくなるので、留守居役の鳥居元忠だけでなく、家康は島津義弘に伏見城に入るよう頼んでいたが、実際、三成が挙兵した時、義弘は... ...続きを見る

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2018/10/07 00:39
三成の実像2415 「英雄たちの選択 大谷吉継」9 三成引退後、政権の調停役・宇喜多騒動
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、三成が七将による襲撃事件の責任を取らされる形で佐和山に隠居した後、吉継は政権内で調停役として活躍し、政権の屋台骨を支えていたと述べられていました。  宇喜多騒動に家康と共に仲介役を務めたことが挙げられ、政権の支えとして吉継は家康から厚い信頼を得るようになっていたと説明されていました。また上杉家の史料である「上杉家御年譜」にも、吉継は家康に近く、何でも頼るようにという記述があることが挙げられていました。  宇喜多騒動については、大... ...続きを見る

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2018/10/06 11:14
三成の実像2414 「英雄たちの選択 大谷吉継」9 空白期間・豊臣政権への忠誠心
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」では、吉継は文禄の役で奉行として渡海した後、重い病にかかり、5、6年間籠っていたと述べられていました。  この点について、「大谷吉継関連年表」(敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」所収)の中で、文禄2年(1593)5月、「小西、石田らとともに明使(偽使)を伴い帰国」と記された後は、文禄3年10月、「直江兼続あて書状で、草津湯治を続けることを伝え、眼を患い花押が据えられないことを詫びる(吉川金蔵氏所蔵文書)」とあり、その後、... ...続きを見る

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2018/10/05 10:28
三成の実像2413 「英雄たちの選択 大谷吉継」8 吉継の事績・敦賀の重要性
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」では、吉継の居城であった敦賀城の発掘調査が2010年に行われ、小学校の一部から城の建物と一部と見られる礎石が発見されたことで、それまで幻の城と呼ばれた城の実像が徐々に明らかになってきたことが述べられていました。  この発掘調査に関わってきた外岡慎一郎氏は、吉継は敦賀を港を中心とした経済・流通拠点としてこれから豊臣秀吉がはじめようとする政策に活用できるようにし、また秀吉も信頼を置ける家臣を敦賀に置いたと考えられると説明されていました。 ... ...続きを見る

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2018/10/04 10:40

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