石田三成の実像116 三成と秀吉との関係 秀吉による三成の伯父の殺害

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 写真は大阪城の中にある豊国神社の境内に建っている豊臣秀吉像です。
 世間では石田三成は秀吉の腰巾着(こしぎんちゃく)的な存在であり、秀吉の意向にすべて従ってきたというふうに見られています。竹中直人が主演していた大河ドラマ「秀吉」でも真田広之演じる三成が秀吉の言うことにいちいち「ごもっとも」と答えていました。
 しかし、実際は三成は思ったことをずばりという直情径行型の人物であり、秀吉の政策に異を唱えたり、そのかげでいろいろな救済策を講じたりしています。豊臣秀次切腹事件でも、家臣を数多く召抱えていますし、蒲生秀行が大幅減封された時も同様でした。文禄の役の際に朝鮮半島に渡ったとき、日本軍の悲惨な状況を見てこのままでは日本軍はひとりもいなくなってしまうだろうという趣旨の書状を書き送り、朝鮮侵略を暗に批判しています。
 1590年の北条攻めの際には、三成夫人の父親の兄である尾藤甚右衛門が秀吉によって切腹させられています。甚右衛門は九州攻めの際、救援に行かなかったことで秀吉によって領地を没収されていたのを、徳川家の家臣となっていた小笠原家を頼り、北条攻めの際も小田原に出陣していたのですが、そのことが秀吉に見咎められ、斬殺されました。三成にとっては伯父に当たる人物が処刑されたわけですが、この点に関して、白川亨氏は「石田三成とその子孫」の中で、三成の秀吉に対する諫言状への秀吉の不快感の表明が、そういう形になってあらわれたのではないかと推測されています。すなわち、北条側の忍城(おしじょう)攻撃に対して、秀吉は皆殺しを命じましたが、三成は無血開城すべきだという書状を送ったのです。三成はその後、秀吉の側近から遠ざけられたとも言っておられますが、三成と秀吉との関係を見る上で、押さえておかねばならない点です。
 三成は奥州仕置をした後、大崎・葛西の乱が起こったため再び奥州に赴き、帰京したと思ったら、九戸政実の反乱が起こり、三度奥州に向かいます。その翌年には文禄の役が起こり、総奉行として朝鮮半島に渡ります。日本に戻ってきたのは、さらにその翌年、1593年の5月ですから、その間、三成が秀吉のそばにいたのはわずかの期間でした。

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