石田三成の実像124 三成がつながれていた和田神社のイチョウの木
写真は滋賀県大津市にある和田神社のイチョウの木を撮ったものです。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が古橋で田中吉政に捕縛され、大津の家康の本陣に護送される時にこのイチョウの木につながれていたという言い伝えがあり、木の横に立っている説明掲示板にもそのことが書かれていました。その説明板には、木の高さが24メートルあり、これほどの巨木は滋賀でも例を見ないこと、樹齢は約600年を経ており、多数の気根が垂れて、均斉が取れて美しい姿を保っていること、神社の神木であることなども書かれていました。
その木の存在は石田多加幸氏の「石田三成写真集」に掲載されていたので、かねてから知っていましたが、実際に足を運んだのは今回が初めてでした。京阪電車の膳所本町駅から歩いて十分程の距離です。石山寺の梅を見に行く途中に立ち寄りました。
石田三成が大津城の門外につながれていて、福島正則・黒田長政・小早川秀秋と出合ったという話は以前ブログでも述べましたが、三人の個性をよく表しているものの、実際には彼らと三成とのやりとりはなかった可能性が高いように思われます。しかし、三成がつながれていたのは、家康の見せしめ的なやり方として充分ありえたことであり、それが大津城の門外だったか、和田神社のイチョウの木だったかは分かりません。
家康が三成を引見したのは関ヶ原の戦いの日の十日後の二十五日でした。三成が捕縛されたのは二十一日でしたが、田中吉政は腹をこわして体が弱っていた三成を三日間静養させましたが、そのようなところにも三成の同郷人で仲も悪くなかった田中吉政の配慮が現れています。それだからこそ、三成は最後まで所持していた愛刀の脇差であった「貞宗」を田中吉政に与えているのです。「貞宗」は刃の長さが31センチ余りあり、現在は東京国立博物館が所有しています。
見せしめ的であるのは、三成が大坂に護送される時も処刑された時も同様であり、安国寺恵瓊・小西行長と共に罪人さながらに首に輪をはめられ、車に乗せられました。大坂、堺、ついで京都の町を引き回され、六条河原で公開処刑されたのです。首を三条大橋のたもとにさらされたのも同じ扱いです。
その木の存在は石田多加幸氏の「石田三成写真集」に掲載されていたので、かねてから知っていましたが、実際に足を運んだのは今回が初めてでした。京阪電車の膳所本町駅から歩いて十分程の距離です。石山寺の梅を見に行く途中に立ち寄りました。
石田三成が大津城の門外につながれていて、福島正則・黒田長政・小早川秀秋と出合ったという話は以前ブログでも述べましたが、三人の個性をよく表しているものの、実際には彼らと三成とのやりとりはなかった可能性が高いように思われます。しかし、三成がつながれていたのは、家康の見せしめ的なやり方として充分ありえたことであり、それが大津城の門外だったか、和田神社のイチョウの木だったかは分かりません。
家康が三成を引見したのは関ヶ原の戦いの日の十日後の二十五日でした。三成が捕縛されたのは二十一日でしたが、田中吉政は腹をこわして体が弱っていた三成を三日間静養させましたが、そのようなところにも三成の同郷人で仲も悪くなかった田中吉政の配慮が現れています。それだからこそ、三成は最後まで所持していた愛刀の脇差であった「貞宗」を田中吉政に与えているのです。「貞宗」は刃の長さが31センチ余りあり、現在は東京国立博物館が所有しています。
見せしめ的であるのは、三成が大坂に護送される時も処刑された時も同様であり、安国寺恵瓊・小西行長と共に罪人さながらに首に輪をはめられ、車に乗せられました。大坂、堺、ついで京都の町を引き回され、六条河原で公開処刑されたのです。首を三条大橋のたもとにさらされたのも同じ扱いです。
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