古典文学探訪59 「鬼〈幽霊〉を売る」1 幽霊に自分も幽霊だと信じ込ませてしまう人間

 これも「織女」と同じく「捜神記」に載っている話ですが、幽霊をだまして売ってしまうというおかしな話です。中国では「鬼」は幽霊のことであり、死ぬという意味で「鬼籍に入る」という言葉が今でも使われます。この話では幽霊が羊に化けるという展開になりますが、お化けと幽霊とは違いますし、幽霊が化けるというのはあまり聞いたことがありません。もっとも、お化けも怨念を持った者が死んで化けると言われていますから、幽霊と全く無関係ではありません。
 宋定伯という人物が主人公ですが、「織女」の董永と同じく実在の人物かどうかは分かりません。夜歩いていて幽霊と出くわしますが、幽霊が何者かと訊ねられて、自ら幽霊だと名乗ってしまうところからして、そもそも馬鹿げており、言わば落語のような筋の展開です。定伯も幽霊だと嘘をつきますが、それを信じてしまう相手の幽霊も幽霊です。幽霊と人間の区別がつかないのも妙ですが、夜の話ですから、騙されてしまうのもあり得ないことではないかもしれません。
 映画などでは幽霊は透き通った姿で描かれており、壁も通り抜けてしまいますが、中国では人間と見た目は変わりないのかもしれません。日本の「雨月物語」でも、久しぶりに故郷の家に戻って来た夫が妻と再会して一晩を過ごしますが、翌朝夫が目を覚ますと、妻も家も消えており、昨晩再会した妻は幽霊だったと気づく「浅茅が宿」という話があります。しかし、「雨月物語」の話の出典の多くは中国であり、作者も中国的な感覚で幽霊を描いているのだとも言えます。日本の幽霊に足がないのは、江戸時代の丸山応挙の絵からだと言われており、古来からそうだったわけではありません。
 定伯と幽霊は同行して町に向かいますが、面白いのは幽霊が途中で背負い合いっこをしようと提案するところです。歩くのが遅いので、背負い合っていけば速くなるというわけですが、ここも変と言えば言えます。背負っていけばなお時間がかかると常識的には思いますが、幽霊は重さがありませんので、背負っても負担に感じませんし、幽霊と定伯がしゃべりながら歩いていたとすれば、歩くペースが遅くなるのもうなずけます。
 定伯が幽霊を背負うとほとんど重さがありませんでしたが、幽霊が定伯を背負うと重たかったので、ここで初めて幽霊は定伯が幽霊ではないのではないかという疑いを持ち、それを口に出しますが、定伯は自分は幽霊になったばかりなので、まだ重さが残っていると言い逃れ、幽霊もそれを信じてしまいます。死んだ途端、魂は幽体離脱してしまうはずですから、定伯の言い分はおかしいのですが。もっとも、私自身は死後の魂の存在を信じてはいません。死後の魂や幽霊の存在云々はともかくとして、関西人なら「定伯の言うことを真に受けるような、そんなアホな幽霊はおらんやろ」と突っ込みを入れたくなります。

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