石田三成の実像148 「明智光秀と三成」2 大河ドラマ「功名が辻」では共に三角関係的な描かれ方

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  写真は天王山の中腹にある展望台から下の景色を撮ったものですが、羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の合戦はこの下のあたりを中心として行われました。目下、中間考査の最中ですが、日本史のテストの範囲が、信長、秀吉、家康あたりであり、テストでは明智光秀や石田三成の名前を問う問題も出題されていました。むろん、山崎の合戦も出されており、これらは日本史の必須事項です。
 前にも述べたように、山崎の合戦における三成の活躍はよく分かっていませんが、彼が18歳の時から秀吉の中国攻めに常に従い、上月城を取り囲んでいますし、19歳の時には三木城攻め、21歳の時には因幡・伯耆攻めに加わり、鹿野城に入っています。22歳の時には鳥取城攻めに加わり、ついで秀吉の命令で仙石秀久と共に淡路島に渡り、洲本城を攻めました。その際、三成が秀久の家臣の功績を秀吉に取り次いで、秀久は大いに面目が立ちました。
 そして、三成が23歳の時に本能寺の変が起こるわけですが、むろん、本能寺の変が起こったとき、三成は秀吉の備中高松城攻めに加わっていました。その際の、猛烈な速さで畿内に戻って来た中国大返しは黒田官兵衛の功績が大きかったと言われていますが、この時、三成がすでに兵站奉行的な活躍をしていたことも考えられます。翌年の賤ヶ岳の戦いの歳の大垣からの大返しも三成の働きがあったとも言われていますから、似たようなことをしていた可能性はあります。
 ところで、大河ドラマの「功名が辻」では、明智光秀と信長夫人の濃姫との淡い恋、三成に対する秀吉の側室である淀殿の特別な思いが描かれていました。いずれもフィクションの域を出ていない話ですが、ドラマとしては面白く仕上がっていました。常識人としての明智光秀の律儀さがよく出ていましたし、三成にしても義の武将として悪くない描き方でした。
 もっとも、三成と淀殿との関係は、江戸時代から連綿と続く、豊臣家を滅ぼしたのは奸臣三成と悪女淀殿のせいであり、二人が男女としても結びついていたとする捉え方の一環です。実際には三成イコール淀殿派、反北政所派という図式そのものが問題なのだと言え、北政所が家康派などと言うに至っては、徳川幕府に都合のいい解釈に過ぎません。
 濃姫と光秀との関係は司馬遼太郎の説に基づくものであり、信長との三角関係も本能寺の変の要因になったとされていますが、あくまで推測でしかありません。光秀と濃姫がいとこ同士だったということはありえますが。

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