大河ドラマ探訪44 「江」第18回「恋しくて」3 秀勝の改易・秀吉の養女としての江の立場

 大河ドラマ「江」第18回「恋しくて」では、秀勝は天正15(1587)年の九州攻めでの論功行賞が少ないと秀吉に不満を述べたために、秀吉に所領を没収されるという話が出てきていました。この勘当されて改易になった件について、桐野作人氏が「江の生涯を歩く」の中で触れておられます。もっとも、福田千鶴氏の「江の生涯」では、この時点での改易の件は載っていません。
 天正17(1589)年8月、秀勝が秀吉の怒りを買い、高野山に追放になり、11日には切腹の噂が立ったほどだという「北野社家日記」の記述については、桐野氏も福田氏も触れておられます。
 桐野作人氏の「江の生涯を歩く」でも、小吉秀勝が江と祝言を挙げたのは天正13(1585)年10月だと書いておられます。この後、於次秀勝の死後、小吉秀勝が丹波亀山城の城主になるわけです。
 江が亀山城に住んだかどうかは不明と桐野氏はされながらも、大名夫人は人質として天下人のもとにいるのが普通なので、江は大坂城か聚楽第にいたのではないかと推定しておられます。秀勝はこの後、天正18年の北条攻めで戦功をあげたため、謹慎生活を解かれ甲府・信濃を与えられ甲府城主になり、天正19年には岐阜城に移りますが、この間もずっと江は在京していたと福田氏も桐野氏は推定しておられます。桐野氏の「江の生涯を歩く」の中で、秀勝屋敷も聚楽第の近くにあったはずだが、その地は特定されていないと書かれています。江は秀勝との夫婦時代、この聚楽屋敷に住んでいた可能性が高いと云います。大河ドラマ「江」では秀勝と江が結婚するのはいつのことだとして描かれるのでしょうか(史実からはかなり遅れています)。
 「江」では相変わらず江の養父である秀吉に対する言葉遣いや態度の悪さが気になってなりません。いくら自分の意思で秀吉の養女になったわけではなく、親の仇と思っていたからといっても、養女としての分は守らなければいけないでしょう。現代風に描かれ過ぎであり、礼儀などはほとんど無視されており、格調の高さがうかがえません。この後ドラマでは秀吉に対する江の態度の変化というものまで描かれるのでしょうか。あるいはこういう姿勢はずっと変わらないのでしょうか。
 福田千鶴氏は「徳川秀忠」の中では、信長の姪、秀吉の養女という江の立場が、決して形式的なものではなく、職豊系武将をつなぎとめる求心力を持っており、この江の強さがひいては秀忠の強さにもつながり、徳川二代将軍秀忠は正室の江に支えられていたと論じておられます。
 京都養源院にある江の肖像画(この春私も拝見しましたが)の衣装に木瓜と桐の紋が描かれていることについて、織田と豊臣を象徴する存在としてのメッセージを伝えているとも理解できると福田氏は書いておられます。もっとも、この肖像画が本当に江のものであるのかという疑問も出されていますが。江が秀忠より先に亡くなっているため、尼僧姿で過ごしたことはなく、江の肖像画が地味な茶色の法衣をまとった尼僧像として描かれているのがおかしいと云います。浅井家の紋が描かれていない点も挙げておられますが。

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