大河ドラマ探訪64 石田三成の実像678 「江」第28回「秀忠に嫁げ」2 秀次切腹事件の描き方2

 ドラマでは三成は江になぜ秀吉のためにここまで手を汚すのかと訊かれて、主君のためと答えていました。三成の忠義心から秀次を死にi追いこんだという捉え方ですが、この後の関ヶ原の戦いも三成が秀頼に対する忠義心から家康に対して無用ないくさを引き起こし、江はそれを問題視するというような描き方にならないかと案じています。
 三成が作りごとで相手を追い込んだという江の指摘に対して、三成は作りごととするなら、なぜ秀次は罰を受け入れることを承知したのかと言い返す場面もありますが、この反論はその後で秀次の思いが描かれているだけに、空しく響くようにドラマは作られています。秀次は秀吉の自分を排除したいという思いを知ってしまった以上、一生秀吉に怯えて暮らしていかねばならず、それより死を選んだ方がいい、冥界で秀勝にも会えてゆっくり話ができると言います(江と秀次との対面の場面において)。秀次もこの8日の時点で切腹の処分を知っていたことになり、7月15日に高野山で切腹を言い渡されたという史実とは違っています。
 ドラマで江が三成に秀次と会わせよと迫る場面では、江が三成の短刀を抜いて自分の首に向け、死ぬことも厭わないと言います。三成はそれに折れて秀次のところまで江を案内していくという展開であり、ここでも例によって江は死ぬ前の秀次に会うという場面が設けられ、史実を無視したありえない設定になっていました。史実ではこの日すでに秀次は伏見から移動させられて、高野山へ向けて出発しており、夜は玉水に泊まっています。
 次の9日付で秀次が奈良で書いた書状(大坂城天守閣蔵)が残っており、大阪城天守閣の図録「秀吉家臣団」に載っていますし、オンライン三成会編「三成伝説」の「紀伊・高野山」の章でも取り上げさせてもらいました。家臣たちが同行を願って付いてくるが、それは秀次のためにならない、これ以上秀次の立場を悪くするようなことはしてはならない、後に来た者にもこの書状を見せて追い返せと書き連ねています。秀次がいかに追い込まれていたか、いかに秀吉に気遣っていたかがわかる書状ですし、秀次が家臣たちに慕われていたこともうかがえますが、この書状から見る限りでは、秀次自身、切腹にまで至るとは考えていなかったのではないでしょうか。
 私自身、三成が秀次切腹事件を策謀したことについて常々疑問に思っているのは、秀次を追い落とせば、豊臣家の後継者はわすが3歳の幼い秀頼だけになり、もし秀頼が鶴松のように亡くなってしまえば、豊臣家の後継ぎがいなくなってしまうわけですから、三成がそういうリスクを冒そうとしたかということです。秀吉もいつまで存命か分かりませんし、実際、この事件の3年後に秀吉は亡くなり、豊臣家の未来に暗雲が立ち込めてしまい、秀次が存命であればその後の展開が違っていたのではないかとも考えられます。豊臣家の内紛が豊臣家のためにならないと分かっていたのが三成であって、この事件には心を痛めていたはずです。こういう意味合いのことも「三成伝説」で書かせていただきました。
  

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック