大河ドラマ探訪65 石田三成の実像679 「江」第28回「秀忠に嫁げ」3 第29回「最悪の夫」1

 大河ドラマ「江」では第29回「最悪の夫」が放送され、江が秀忠に嫁ぐ経緯(これについては後述)が描かれていましたが、結婚した当初も今までと同様2人はもめるという流れであり、これまでもたびたび史実を無視した、必要以上に2人の絡みが用意されており、作為が目につきます。
 そもそも、江と秀忠は出会いの時から最悪であり、互いに言い合い、それが回を追っても繰り返されていますが、恋愛ドラマで最悪の出会いが用意されるのは定番です。大河ドラマでの江と秀忠との絡みは、最初の出会いから創作の疑いが濃厚です。
 ドラマでは2人が会ったのは旭姫の臨終の席でしたが、福田千鶴氏の「徳川秀忠」によれば、秀忠が旭姫を訪ねた形跡はなく、秀忠は旭姫の死の喪に服した様子(旭姫が秀忠祖の継母であったという事実が確認できません)もなく、旭姫の死は秘せられたまま、秀忠は最初の上洛(旭姫の見舞いも兼ねてとドラマでは言っていましたが、その事実は確認できないわけです)で小姫との婚約式(天正18年1月21日)を挙げました。旭姫の臨終の場面に秀忠がいたはずはないことが分かりますし、すでにこの時江は秀勝と結婚(天正13年10月18日)していましたから、この出会いは全くの作り事だったと云えます。秀忠は北条家に嫁がせた家康の娘を離縁させ、自分を人質に差し出して秀吉に媚びている父親の家康を批判していますし、秀吉が旭姫の死の翌日に大政所まで担ぎ出してまで元服の儀を執り行った(福田氏は秀忠の元服は翌年の二度目の上洛の時のことであり、最初の上洛の時秀忠の髪を整えたのは大政所ではなく北政所であり、髪と衣服を都風に整えただけだと指摘しておられます)のは徳川家に恩を売りたかったからだとも批判しており、それらの秀忠の皮肉っぽい言葉は江をあきれさせ、江は秀忠を小賢しい奴だと言っていました。もう2人は会うことはないだろうと言いながら、それからたびたび会うようにドラマでは持っていっているのですから、架空の人物の話なら、あるいはフィクションということわり書きがあるなら差し支えありませんが、史実をねじ曲げてしまっているところに、問題性を感じます。
 ところで、第28回「秀忠に嫁げ」で描かれていた秀次切腹事件に関してですが、オンライン三成会編「三成伝説」では、三成が秀次は救えないとしても、秀次の家臣を救おうと最期まで尽力し、舞兵庫・大場土佐など若江八人衆など多くの家臣を召し抱え、秀次の娘の命を救ったことを書かせていただきました。命を救われたのは秀次と妻の一の台の間に生まれた娘であり、彼女は後に真田幸村の側室になっており、この助命は三成抜きには考えられないと白川享氏は「石田三成の生涯」で指摘しておられます。幸村と秀次の娘との間には、「おたあ」という娘が生まれ、後に佐竹義宣の弟の多賀谷宣家に嫁ぎ、宣家はやがて岩城宣隆と名を改め、「おたあ」は岩城家の世継ぎを生んでいます。三成、真田家、佐竹家が協力して秀次の血筋を守ったことが分かるわけです。
 大河ドラマ「江」では、秀次は毅然として切腹していました。以前に拙ブログで秀次が切腹したのは、謀反が無実であることを主張して切腹したとする説を矢部健太郎氏がとなえられ、堀越祐一氏も賛同されていると述べましたが、その説の根拠は朝廷に仕える女官が書いた「御湯殿の上の日記」の記載です。
  第28回「秀忠に嫁げ」の最初の方で、昼間から酔っ払う秀次の姿が示されており、以前の姿に戻ったのかと少し気になりましたが、その場面だけであり、秀忠に物語を勧めるなど文化人としての面はよく出ていました。むろん、秀忠に近づくことで、秀次は家康の助けを期待していたというドラマでの描き方でしたが。もっとも、秀次のところには江が先に来ており、執拗とも云える江と秀忠の絡みが用意されていました。
   

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