日本文学探訪96  正岡子規の俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」 授業では通説通り・分かれる評価

  正岡子規の俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」を授業で取り上げたことがあります。「坂の上の雲」がまだドラマ化されていない時です。もっとも、子規の短歌や俳句は中学校の教科書でも取り上げられていますから、その時の生徒にとっては全く名前を知らない文学者ではなかったはずです。当時からこの俳句をめぐってはさまざまな解釈がされており、評価も分かれるところですが、通説に従って解釈しました。最後の「ぬべし」の部分のうち、「ぬ」は強意の助動詞、「べし」は推量の助動詞ということを押さえました。
 全体で「鶏頭の花がきっと十四、五本も咲いているだろう」という意味です。これは庭に咲いている花だと断わった上で、この俳句はどこかおかしくないかと生徒に尋ねたところ、作者が寝たきりで庭まで見に行けないということをすぐに答えてくれた生徒がいましたし、脊椎カリエスという子規の病名まで知っている者もいました。
 寝たきりの状態で、短歌や俳句を作り、文章を書き、絵のスケッチまでしていたという子規の生命力を私は強調しました。この俳句の場合、鶏頭も生命力あるものとして描かれています。
 近代短歌や近代俳句における子規の存在の大きさについても、触れました。彼がいなかったら、現代における短歌や俳句の隆盛はなかったと言いました。また、子規が「野球」をはじめ、さまざまな野球用語を考えだし、野球の普及に大いに貢献したということ、及び、松山で夏目漱石に俳句を教授したことにも触れました。
 ところで、先に述べたようにこの俳句については評価が分かれていますが、その時の授業では敢えてそういうことには触れませんでした。時間的な余裕がなかったということもありますが、かえってややこしくなるということもありました。しかし、今から思えば、文学は多義的なものだということを示すいい機会だったのにという反省も持っています。
 この句には、写生の精神からすれば、確かに曖昧な表現を含んでおり、高濱虚子はこの句を良句としては扱わず、句会席上でも、子規句集編集にあたっても入選させていません。一方、この句を最初に名句として取り上げたのは長塚節であり、次に斎藤茂吉によって絶賛されました。
 松井利彦氏の「俳句シリーズ人と作品 正岡子規」の中に、この句(明治33年9月9日作)に対するそういう評価が書かれており、またこの句はその前年に作られた「鶏頭の十本ばかり百姓家」の句が、子規の中で下敷きになっていたのではないかという指摘がされています。「鶏頭の十本ばかり百姓家」の句は「道を歩んでいくと、農家の庭が見え、鶏頭が咲いており、あの赤の見え方では十本ぐらいあるのだろうか」という意です。「鶏頭の十四五本もありぬべし」が農家の景だとする解釈もあり、農家の影を感じさせる何物かがあるとすればという前提の上ですが。

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