石田三成の実像907 奈良探訪1 今井町散策 文禄検地

画像
 写真は橿原市今井町の今西家を10月28日に撮ったものです。今井町を訪ねるのは初めてです。私は目下、宇治に住んでいますが、移り住んだのは6年前であり、それまで19年間、奈良県生駒郡安堵町に住んでおり、今でも奈良にも強い愛着を持っていますし、居住していた時に、奈良の寺社や観光名所はよく回りました。しかし、今井町には行きたいと思いながらも、足を運ぶ機会がありませんでした。今回、大和八木のビジネスホテルに一泊し、江戸時代の雰囲気を伝える今井の町並みをゆっくり散策してその趣きを堪能しました。
 橿原市教育委員会発行の「今井町 歴史的町並み」には、「室町時代の後期には、この付近に一向宗(浄土真宗)の道場(後の称念寺)ができ始め、旧勢力に何回か焼き払われますが、天文年間(1532~55)頃には、寺内が誕生したと考えられる」と記されています。
 関ヶ原の戦いの後、石田三成の弟の光重の子の光吉が逃げ込んだ石田善能寺も寺内であり、子孫である石田明浄氏が寺内町の研究をされています。
 橿原市教育委員会発行の「今井町 歴史的町並み」には、「寺内町今井は、中世の環濠集落を母胎とし、天文年間には東西南北の四町ができ、その後、新町、今町が整い、文禄検地の頃には、六町が成立していました」と記されています。この太閤検地は、文禄4年のことであり、今井村と記され、寺内町の性格を残すと年表にあります。
 寺内町についても、この小冊子で説明が加えられています。「寺内町とは、中世の終わり頃、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内地にきずかれた集落で、寺院の四周に堀をめぐらせ、土居を築いているのが特徴です。当時は、裁判や諸公事などで独自に町を経営していました。税制面などの経済的特権が認められて、多くの庶民が移り住みました」と。
 元亀元年(1570)石山合戦が始まり、今井も本願寺派に同調しますが、天正3年(1575)に信長に降伏しています。この時期、三成が秀吉に仕えていたか微妙です。15歳仕官説に従えば、秀吉家臣になっていましたが、18歳仕官説を採れば、まだ仕えていないということになります。
 今西家は江戸時代、「惣年寄の筆頭を務めていた家で」あり、「慶安3年(1560)に建てられた民家ですが、城郭のような構造で『八つ棟造り』と呼ばれている豪壮な建物です」と書かれています。もっとも、ここは見学するには事前連絡が必要なところであり、私は中に入れませんでした。団体客が入っていく姿も見ましたが、ツアーであらかじめここの見学も組み込まれていたのでしょう。
 今中まちなか交流センター「華甍」に、慶長5年9月19日付けの禁制が展示されていましたが、その時、三成は関ヶ原の戦いに負けて逃亡中だったのだという感慨を覚えました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 4

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック