京都探訪106 桂小五郎・幾松寓居址碑 大河ドラマ探訪171「八重の桜」27 彦根への動座計画

 
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 写真は桂小五郎・幾松寓居址碑を撮ったものです。桂小五郎幾松寓居址碑は佐久間象山遭難之碑・大村益次郎遭難之碑と、高瀬川をはさんで反対側(木屋町通沿い)に建っています。すなわち、佐久間象山遭難之碑と大村益次郎遭難之碑の写真を撮って、ぐるっと180度回ったあたりに、この桂小五郎幾松寓居址碑が建っているというわけです。桂小五郎・幾松寓居址碑が建っている地は、現在、料亭の幾松になっています。
 「京都時代マップ 幕末・維新編」によれば、佐久間象山遭難之碑・大村益次郎遭難之碑が建っているところは、幕末の時代は長州藩邸があった東端に当たります。桂小五郎・幾松の寓居は長州藩邸のすぐそばにありました。ちなみに、長州藩邸のすぐ南に加賀藩邸、その南が対馬藩邸があり、さらにその少し南に池田屋がありました。長州藩邸の北側は角倉屋敷です。
 高瀬川沿いあるいはその付近には、二条から三条、四条にかけて幕末維新関連の史跡が数多くあります。繁華街の隅に建っていますから、ともすれば、見逃してしまいますが。じっくり歩いて距離感を確かめ、激動の幕末史に思いを馳せてみることをお勧めします。
 さて、大河ドラマ「八重の桜」第10回「池田屋事件」の冒頭、佐久間象山が会津藩洋学所の覚馬のもとを訪ねて二人が再開する場面を設けていました。ドラマでは、半月前に幕命を受けて上洛したと言っていました。
 その象山と覚馬の関係について、安藤優一郎氏の「山本覚馬」(PHP文庫)の中で、「元治元年(1864)3月17日、象山は松代を発し、同29日に京都に入った。4月12日、象山は慶喜に拝謁し、その諮問にあずかることになった」とあり、「覚馬は、象山のもとをしばしば訪れて」おり、「その息子恪次郎たちが記録した象山の『公務日記』には、覚馬のほか会津藩公用方広沢安任の名前がよく登場する」と記されています。
 「歴史人 2013年 4月号 幕末維新の暗殺史」(KKベストセラーズ)の中の伊東成郎氏の「尊攘派の刃に倒れた佐久間象山の無念」で、「着京直前、大津で象山一行を長州人の品川弥次郎と杉山松助らが目撃し」、「開国派の象山を暗殺しようとしたが」、「象山は松下村塾出身である彼らの師・吉田松陰の先生だと誰かが言い出し、暗殺をとどまったという」「品川の回想」が紹介されています。
 大河ドラマでは、池田屋事件の前に、象山が天皇を守るために都から彦根城に移すために会津の力を借りたいと、覚馬たちに言っていましたが、このことについて、安藤氏の「山本覚馬」では、「象山は覚馬たち会津藩士や彦根藩士と密談を重ねていた。京都の長州藩邸が尊攘派志士の秘密アジトと化していたような不穏な情勢を踏まえ、天皇の彦根への動座を計画したのである」と記されています。
 この動座計画について、伊東氏の「尊攘派の刃に倒れた佐久間象山の無念」で、「文久2年(1862)に彦根藩士の長野主膳が藩主側役に上申したことがあ」ること、「彦根藩士の北川徳之允(とくのすけ)が、6月24日に藩上司に、京都守護職の会津藩の協力を見据えての動座を説いた書状もあ」ること、「品川弥次郎の回想によれば、7月10日(象山暗殺の前日)、同志たちが象山を訪ね、彦根動座が彼の真意であることを確認したという」ことが記されています。
 
 
 

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