京都探訪107 古高俊太郎邸跡碑 大河ドラマ探訪172「八重の桜」28 秋月解任は池田屋事件の前

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 写真は古高俊太郎邸跡碑を3月15日に撮ったものです。この日の幕末・維新関連史跡巡りの最初に訪れた場所であり、京阪祇園四条駅から歩いて5分程で行くことができます。大河ドラマ「八重の桜」で放送直後ということもあってか、この前で写真を撮っている若い女性たちのグループを見かけました。四条通の一つ北側の細い路地の中に建っており、普段は立ち止まって見る人はあまりありません。
 説明掲示板には、古高の略歴などに加えて、古高邸が「多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていた」こと、新選組に捕縛された古高俊太郎が「過酷な拷問を受けたと言われる」ことも記されていますが、「倒幕活動」「過酷な拷問」の記述が誤りであることは、中村武生氏の「池田屋事件の研究」(講談社現代新書)に記されており、拙ブログでも触れました。
 中村氏の「池田屋事件の研究」では、「古高とその邸宅は、いわば情報センターとしての役割を担っていた」と指摘され、古高と「皇族・堂上・長州毛利家との交流の深さ」が明らかにされています。
 大河ドラマでは、山本覚馬が佐久間象山のところを訪ねて池田屋事件のことを報告する場面があり、象山が「愚かなことをしたものだ。おぬしたちは火薬蔵に火をつけたのだぞ。長州が今に牙を向いて襲ってくる」と言っていましたが、この点について、安藤優一郎氏の「山本覚馬」(PHP文庫)の中で、「池田屋事件が起きた翌日の6月6日の午後にも、覚馬は象山を訪ね、長州藩士や浪士の捕縛について語っている」と記されています。
 また大河ドラマでは、会津藩士の秋月悌次郎が池田屋事件の責任を問われて公用方の役目を解かれていましたが、秋月が帰国させられたのは池田屋事件の前だということが、星亮一氏の「幕末の会津藩」(中公新書)に書かれています、すなわち、「元治元年2月、京都を去った秋山は、会津で悶々として暮らすことになる」と。池田屋事件が起こったのは、元治元年6月5日のことです。
 「幕末の会津藩」では、「薩摩・会津同盟の立役者」「八月一八日政変の立役者」である秋月が帰国させられた理由について、「京都で実権を握った慶喜に、薩摩と親しい秋月の存在」は気に入らないものとして映り、「会津藩内にも慶喜派が登場し、秋月帰国が一気に決定したのではないか」と推定されています。大河ドラマでは、秋月が慶喜批判をする場面が一度ならずありましたが、これは秋月と慶喜の関係というより、秋月が会津藩の思いを代弁しているような描き方であり、ドラマでは田中土佐も慶喜の言動を批判していました。
 また大河ドラマでは、病気で帰国する横山主税が、容保に秋月のことを頼まれる場面がありましたが、池田屋事件、佐久間象山暗殺の後のこととして描かれていました。「幕末の会津藩」では、「秋月をかばい通していた京都詰めの重臣横山主税も病に臥し、秋月をかばう者も少なくなった」と記されていますが、むろん、これは池田屋事件の前のことです。大河ドラマでは、佐久間象山暗殺の後も、秋月は京におり、覚馬たちと語り合っていました。
 

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