石田三成の実像1020 「歴史街道 5月号」のコラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」2 舞兵庫

 「歴史街道 5月号」のコラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」において、「三成は切腹した豊臣秀次の家臣も多く抱えている」こと、舞兵庫もその一人であることが記されています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「舞兵庫」の章でこの点に触れています。秀次事件は三成が仕組んだものでなく、逆に「三成は秀次を助けるのが無理な事態になっているのがわかってからも、後見役の前野長康や木村常陸介の命を助けるべく奔走している」と記しました。また「三成伝説」の「紀伊・高野山」の章では、「三成は秀吉・淀殿周辺と秀次の間で苦慮していたのではないか」「三成は、秀次自身は救えないとしても、秀次の家臣を救おうと最後まで努力し、舞兵庫・大場土佐たち若江八人衆などの家臣を多く召し抱えているだけでなく、秀次の娘の命を救ってもいる」とも書きました。これらの点は、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)ですでに指摘されています。
 コラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」では、秀次事件の際、「長康の娘婿である兵庫にも累が及んだが、三成は兵庫を匿い、秀吉の許しを得て五千石で家臣に迎えた」と記されていますが、同様のことを「三成伝説」に書いています。
 コラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」では、兵庫がこの時、「舞」に姓を替えたことについて、「前野姓を憚ったとともに、生まれ変わったつもりで三成の恩義に報いる覚悟の表われでもあったろう」と指摘されています。
 「三成伝説」の「舞兵庫」では、舞兵庫が「秀次の黄母衣(きほろ)十三人衆の一人として活躍した」こと、「『若江八人衆』の『若江』については河内の若江という地名から来ており、それは秀次が一時、三好康長の養子となっていたことと関係があ」り、「三好康長の家臣団を秀次がそのまま受け継いだ形である」ということ、兵庫は関ヶ原の戦いの前の合渡川の戦いで「健闘するものの、多勢に無勢で敗北し」たこと、「関ヶ原の戦いで石田隊の先鋒として活躍したが、討ち死にしたといわれる」こと、「舞兵庫の子の左馬助(さまのすけ)は、関ヶ原の戦いの後」、「藤堂高虎の斡旋によって」「生駒家に仕え」たこと、「兵庫の子の小助は戦後、高虎の娘を娶って、阿波の蜂須賀家の家臣になっている」こと、「三成と高虎の関係は悪くなかったかもしれない」ことなども書きました。
 同じく若江八人衆の大山伯耆と高野越中が伏見城攻めで活躍したことも、コラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」に記されていますが、この点については「三成伝説」のコラム「『若江八人衆』の行く末」の中で書きました。「九州攻めの際、勝山城で相撲大会が催され」、「石田家から選ばれたのが伯耆だった」という逸話についても触れました。伯耆が「秀次切腹事件の後、三成に仕えたとするなら、時期的に合わない話」だが、「それだけ名高い剛力の持ち主だったことを語るエピソードではある」と記しました。この話もコラム「三成に尽くす!精鋭石田家臣団」で取り上げられ、「伯耆が三成に信頼され、家臣団の中で重きを成す存在であったからこそ残る話だろう」と記されています。

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