石田三成の実像1198 「磯田道史の備える歴史学」 秀吉は天正地震の直前まで家康討伐を考えていた

 2月15日付の朝日新聞土曜版に掲載された「磯田道史の備える歴史学」で、秀吉が天正地震の起こる直前まで、家康討伐を考えていたことが記されています。天正地震が起こったのは、天正13年(1585)11月29日深夜のことですが、その前日、「徳川家康は、岡崎城で、豊臣秀吉の使者と激しくやりあっていた。家康が『わしがなぜ秀吉に従い、京都に上る必要があるのか』といえば、使者は『ならば、秀吉は大軍をもって攻めて来ますぞ』と脅した」と。
 昨年の11月に豊田市に2泊した時、岡崎城まで足を運ぶことは考えたものの、1日は長久手古戦場巡り、もう1日は名古屋の中村公園、名古屋城、熱田神宮などを回っていたため、果たせませんでした。できれば今年、小牧・長久手の際、三成がいたと思われる楽田あたりや家康ゆかりの岡崎城などまで廻りたいと考えています。
 拙ブログで以前にも取り上げたことですが、愛知県長久手市発行の小冊子「長久手合戦史跡巡り」には、天正13年「11月になると、桑名から長島方面へ攻撃した秀吉と、長島城にこもる信雄が単独で和睦したため、大義名分を失った家康も兵を引き、約8か月間にわたった『小牧・長久手の戦い』は、幕を閉じた」と記されています。ここには、秀吉が家康討伐を考えていたというような記述はありません。「磯田道史の備える歴史学」には、「秀吉は徳川討伐の進発討伐の期日を『正月十五日』と決めていた」ことも記されています。
 11月28日前後の家康について、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、11月「27日西尾→岡崎」「12月1日岡崎在」とあって、その典拠はいずれも「家忠日記」です。
 この時の秀吉について、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、天正13年11月「29日坂本在」と記され、典拠として「宇野主水日記」の「二九日夜四半時過大地震(中略)秀吉今度地震ノ時、江州ニ御逗留」が取り上げられています。また「30日坂本より京都着」とあり、この典拠は「兼見卿記」です。
 「磯田道史の備える歴史学」には、地震が起こった直後の秀吉の様子を記したルイス・フロイスの文章が引用されています。すなわち、秀吉は「その時に手がけていたいっさいを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した」などと。
 この時の三成の居所ははっきりしていません。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)にも、この前後のことは記されていません。普通に考えれば、秀吉に近侍しており、地震の時は坂本にいたと思われるのですが。 

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