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zoom RSS 石田三成の実像1362 伏見大地震時 阪神・淡路大震災から20年 当時の1月23日の日記 入試日変更

<<   作成日時 : 2015/01/23 11:39   >>

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 石田三成は24歳の時に天正大地震を体験していますが、その13年後の文禄5年(1596)閏7月13日に伏見大地震に遭っています。この地震によって、指月伏見城は倒壊し、秀吉は木幡山に新たな伏見城を築きました。地震が起こった時、秀吉は伏見城にいましたが、三成が地震の際、伏見にいたかどうかについてははっきりしないところがあります。中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、「神屋文書」に、三成が伏見城の復旧にあたったという記述がありますが、一方、「相良家文書」には、「閏7月には講和交渉を進めるため明・朝鮮の使節が堺に到着。三成もその接待に従ったようである」とあることも記されています。地震が起こった時には、三成は堺におり、地震直後に伏見に駆けつけた可能性もあります。
 寒川旭氏の「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)では、江戸時代に書かれた「清正記」にある記述が紹介されています。すなわち、「清正の家臣数名が城の中門を守り、遅れて登城した石田三成が門を通るのを拒んだが、秀吉がとりなして三成を城に入れている」と。ここに記載されているのは、謹慎中の加藤清正が家臣を引き連れて伏見城に駆け付け、秀吉の気に入られ、謹慎も解かれたという有名な逸話「地震加藤」に関連したことですが、前に拙ブログで触れたように、「地震加藤」の話は「史実として疑わしく、そのまま鵜呑みにはできない」という西山昭仁氏の見解(「伏見城を襲った歴史に残る大地震」『週刊新発見!日本の歴史04 豊臣政権と朝鮮出兵の真相』所収)がありますから、三成が伏見にいたことについても疑問が生じます。この時の三成の居所については、今後の研究課題でしょう。
 秀吉が何の地震対策もしていなかったと言えばそうではなく、西山氏の同書には、天正20年の伏見の隠居屋敷建設に関して、前田玄以に宛てた書状の一部が紹介され、「天正地震を経験していた秀吉が、鯰=地震に用心して伏見の屋敷を建設したように指示したものと考えられる」と記されています。
 さて、20年前の1月23日(月)の日記に次のようなことを書いています。
「(前略) M(私が担任していた大阪府立住吉高校の国際教養科の卒業生)が上智の奨学金の推薦書を持って現れ、甲南や松蔭の入試日が地震の影響で変更になったため、東京の入試と重なると嘆く。電話で問い合わせても、どちらかにしぼるより仕方ないとつっけんどんな返事だったという。確かに不慮の災害による変更だから止むをえないとはいえ、変更したのは大学側だから、かち合う受験者には何らかの対応をしてしかるべきだろう。(後略)」と。
 大震災で被災地の大学も混乱し、入試日の変更を余儀なくされ、そのため受験生も影響を受けたわけです。

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