日本文学探訪115  山川登美子記念館3 辞世の歌碑 昭和50年の拙文「『明星』における白百合」1

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 写真は小浜にある山川登美子記念館にある山川登美子の辞世の歌碑を昨年12月24日に撮ったものです。「父君に召されていなむとこしへの夢あたたかき蓬莱のしま」と書かれていますが、前に拙ブログで紹介したものと、一部字句が違っています。
 今から40年前の昭和50年12月に、謄写版刷りして出した雑誌「巻雲短歌会文月会支部報第2号」に、「白百合と題して」なる文章を掲載しました。第1章は「『明星』における白百合」、第2章は「漱石と白百合」というものでしたが、大学生だったこの頃から、山川登美子には興味関心がありました。その当時から小浜には行きたいと思いながら、なかなか足を運べず、昨年ようやく望みを果たしました。
 その「『明星』における白百合」の文章を紹介したいと思います。登美子の人生、短歌についての入門書的な内容になっています。ちなみに、私自身、大阪府の教員採用試験に合格した後の時期であり、この数ヶ月後、実際に高校の国語の教員になりました。

 与謝野鉄幹が結成した新詩社の機関誌として明治33年4月に創刊された「明星」は、明治41年11月、丁度百号で終刊するまで、短歌界を文字通り牛耳っていた感がある。正岡子規が「歌よみに与ふる書」を発表し、リアリズム短歌理論を主張したのは明治31年のことであるが、それが実を結ぶのは雑誌「アララギ」においてであり、その創刊まで10年の歳月を待たねばならなかった。それまでは浪漫主義の時代であった。
 鉄幹の初期の歌風は虎剣調と言われ、ますらおぶり的な歌が多いが、「明星」時代に至って一転機をなし、ロマンティズムの歌風に変わったために星菫調と言われるようになった。鉄幹にこういう転機をなさしむるほど、新詩社内では与謝野晶子をはじめとする女流歌人の活躍が目立った。新詩社の女流歌人の間ではそれぞれの呼び名があり、晶子は白萩と呼ばれていたが、白百合の名があったのは山川登美子であった。
 山川登美子は明治12年福井県雲浜村(現小浜市)に生まれた。大阪梅花女学校を卒業し、「文庫」「新声」といった雑誌に短歌を発表していたが、「明星」創刊のころは同女学校研究科に再入学していた。「明星」2号の「中学時代」欄に彼女の歌が1首載った。
 
 鳥籠をしづ枝にかけて永き日を桃の花かずかぞへてぞ見る

 6月になって、新詩社社友として短歌4首が「明星」に載り、本格的な活動が始まる。浪華青年文学会の機関誌「よしあし草」のメンバーであった鳳晶子(のちの与謝野晶子)は5月に新詩社社友となったが、この二人ともに将来を嘱望されていたのである。この時(明治33年)晶子は21才、登美子は20才であった。

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