日本文学探訪114 山川登美子記念館2 「白百合の君」と呼ばれた登美子・意に染まぬ結婚をする前の歌

 
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 写真は小浜の山川登美子記念館の庭園を昨年12月24日に撮ったものです。終焉の間の廊下から座敷の方を向いて撮っています。登美子が亡くなった終焉の間自体は撮影禁止でした。
  登美子は自ら「白百合」と署名し、他の仲間から「白百合の君」と呼ばれていました。登美子が「白百合」を詠んだ有名な歌があります。

 髪ながき少女(をとめ)とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ

 歌意は「黒髪のゆたかにながい少女と生れた私は、いま白百合の花に咲く額を伏せながら君のことを思っている」(木俣修氏『近代短歌の鑑賞と批評』【明治書院】による)というものであり、「君」は鉄幹のことだと考えられています。「黒髪」の歌は晶子も詠んでおり、当時、女性の象徴でした。
 登美子は明治12年生まれであり、晶子より一歳年下でした。登美子は明治28年に大阪に出てきて、梅花女学校に入学しています。明治33年、与謝野鉄幹が新詩社を結成すると同時に登美子も入社し、雑誌「明星」に第2号から作品を発表します。8月に晶子と共に初めて来阪した鉄幹に出会いますが、晶子も登美子も師の鉄幹に思いを寄せたに違いありません。
 8月4日、晶子・登美子は北浜旅館に泊まっていた鉄幹を訪ね、6日に浜寺寿命館での関西青年文学会堺支部主催での歌会に二人も参加しています。8日に再び二人は旅館の鉄幹を訪ね、9日には住吉神社付近を散策し、15日には浜寺歌会に参加し、三人の関係が急速に縮まっていたことがうかがえます。
 鉄幹も晶子にも登美子にも関心を持っていましたが、この三角関係は、翌年の10月、登美子の親が縁談を押し付けてきたことから、終止符が打たれます。親が登美子のことを心配してそういう手段に出たものと思われます。
 3人は11月に京都の永観堂の紅葉を観賞し、その夜は粟田山麓の辻野旅館に一泊します。それを最後に登美子は小浜に帰り、意に染まぬ結婚をします。 その時の思いを次のような歌に詠んでいます。

 それとなく紅き花みな友にゆずりそむきて泣きて忘れ草つむ

 「紅き花」は鉄幹のことであり、「友」は晶子のことです。いささかストレート過ぎる歌ですが、彼女の無念の思いがよく出ており、身につまされます。泣く泣く故郷に戻っていた彼女の姿が彷彿とします。
 
 

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