旅行記93  姫路・赤穂旅行7「忠臣蔵」4 赤穂城跡2 枡形石垣・討ち入り決定の円山会議

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  写真は赤穂城の大手門を中側から2月12日に撮ったものです。
 大手門をくぐったところに、枡形(ますがた)の石垣がありますが、こういう形になっているのは、攻め込む敵をこの狭い場所に閉じ込めて逆に攻撃したり、味方の兵をここで待機させて外に打ち出すためでした。
 そこを通ると、目の前に番所跡があり、さらに進むと、大石邸長屋門があります。
 大石内蔵助は、浅野内匠頭の刃傷事件の後、結局、籠城や切腹をやめて城を明け渡しますが、拙ブログで前述したように、内匠頭の弟の大学による浅野家再興を願ってのことでした。この考えはずっと変わらず、吉良邸の討ち入りまで1年9ヶ月かかったのも、お家再興問題があったからでした。むろん、浅野家再興が実現しておれば、討ち入りすることもありませんでした。堀部安兵衛など江戸急進派は一刻も早い討ち入りを望んでおり、内蔵助は彼らをなだめるのに苦労しました。
 山本博文氏の「これが本当の『忠臣蔵』」(小学館101新書)には、元禄15年「7月18日、浅野大学に対する処分が決定され」、「大学は、閉門こそ許されたが、妻子ともども本家の広島藩浅野家に引き取られることにな」り、「浅野家再興の望みは、完全に打ち砕かれた」と記されています。
 さらに「この知らせは、7月24日、江戸の吉田忠左衛門から山科の大石に報ぜられ」、「同月28日、大石は同志の面々に呼びかけて、京都の円山で会議を開い」て、「大石は、この席で、10月を期して同志の面々が江戸に上り、吉良邸に討ち入りをかけることを正式に表明した」と。
 大石がすごいと思うのは、「大石が浅野家再興のための運動費の収支を全部書き留めていた」ことであり、そのため、この円山会議は「秘密の会議だったが、出席者の数までわかる」と指摘されています。
 ここから討ち入りまで一気に進みますが、大石の統率力、実行力があってこそのことです。それでいて、こういうきめの細やかさも持ち合わせており、清廉潔白さに同志たちも信頼を寄せていたのでしょう。
 この「運動資金となったのは、浅野内匠頭の正室瑶泉院(ようぜいいん)の化粧料691両ほどで、その管理を大石がしていた」が、大石は「京都の祇園や島原で豪遊したといわれていたが、預かった金はそんなことには一銭も使っていない」と山本氏の同書に記されており、大石の清廉潔白さを裏付けています。
 運動費の収支が記されている「金銀請払帳」の内訳も、山本氏の同書に円グラフにして掲載されていますが、「江戸と上方を往復する旅費」、「江戸借宅の家賃」、「浅野内匠頭仏事費」、「浅野家再興工作費」、「飛脚費・同志活動費等」の順になっています。
 

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