石田三成の実像1918 「海北友松」展2 「兼如筑紫道中記」1 政務の一方風雅な旅

  「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」では、友松の長男である友雪が描いた「海北友松夫妻像」や、友松の出自などを記した、孫である友竹の手になる「海北家由緒記」、友松との交流を語る史料などが展示されていましたが、一番興味が惹かれたのは、「兼如筑紫道中記」です。石田三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されている、初公開のもの(このことについては後述します)であり、図録の解説では、次のように記述されています。
 「慶長3年(1598)夏、石田三成は秀吉の命を受け、小早川秀秋の旧領地を管理すべく博多に向かった。一行は6月1日に大坂を船で出立したが、途中、明石や須磨、厳島神社などの名所旧跡を巡り、厳島神社では平家納経も拝見している。博多に着いたのは15日、公務の傍ら志賀島や海の中道、香椎宮などを見物し、大宰府にも足を伸ばしている。そして7月5日に博多を発ち、15日に帰京しているので、およそ1月半に及ぶ風雅な旅であった」と。
 この三成の九州下向に関して、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、次のような具体的なことが記されています。
 すなわち、「『22日』と日付のみの書状で、在近江の家臣に九州下向を報じている」こと、「5月23日には、嶋井宗室に充てて、博多での宿所を嶋井邸とすることを告げている」こと、「三成は5月29日に京を発し、筑前に下向する。6月17日博多入りした三成は、26日までここに留ま」り、「博多で小早川旧領に対する支配政策の基本を定め」、「6月22日付で、全九ヵ条にわたる『条々』を発」したこと、「ここで三成は、さまざまな陳情を受けたようである」こと、「三成は6月26日頃から、筑前と北筑後を巡」り、「域内巡検に先立っては」、「規定を公にし、領民の負担明瞭化につとめている」こと、「7月3日付で島津又八郎忠恒に充てた書状から、7月2日までに三成が博多に戻っていたことがわかる」こと、「三成は大宰府での竹木伐採を禁じ、博多湾岸に拡がる『箱崎松原』での枯れ木・枝木の採取を認めない『禁制』を下し」、「博多に戻って4、5日後すなわち7月10日以前には筑前を発って」いること、「三成が急いで帰洛せざるをえなかったのは、秀吉の深刻な病状によるもの」であり、「6月中旬に体調を崩した秀吉は、回復もおぼつかない状況になっていた」こと、三成は「7月中旬には京にいたことが確認される」ことなど。
 こういう記述(「兼如筑紫道中記」とは微妙に日が違っているところもあります)から、九州では三成は旧小早川領を預かる代官として精力的に政務に取り組んでいたことがわかりますが、九州に行くまでは、海北友松らと気楽に旅を楽しんでいることがわかります。これは秀吉が比較的元気だったからではないでしょうか。それが秀吉の病状悪化の報が三成にもたらされることによって、事態が大きく変わり、三成は早く用事を済ませて帰京せざるをえなかったのでしょう。司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」では、嶋左近が5月の段階で、秀吉の命はどれぐらい持つと医師の北庵に訊いている場面がありましたが、いかにも小説的な脚色だという気がします。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック