石田三成の実像1919 「海北友松」展3「兼如筑紫道中記」2 是斎重鑑は猪苗代兼如

「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」で展示されていた「兼如筑紫道中記」には、石
三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されていますが、その作者について、図録の解説では、次のように解説されています。
 三成の九州下向に「友松が同行したことは、『続々群書類従』所収の紀行文『九州下向記』や『阿保文書』所収の同『是斎重鑑覚書』(内容は同じ。末尾に是斎重鑑の署名がある)によって既に紹介されている有名な事績である。だが、その著者であり、三成や友松と旅をした是斎重鑑がいかなる素性の人物であるかについては、友松研究ではこれまで全く不明とされてきたといわざるをえない。しかし、歌道史の分野では、彼を猪苗代兼如(号は是斎 ?~1609)とすることが定説化している。兼如は兼載を祖とする連歌師の家柄である猪苗代家の5代目で、その師は、友松が和歌が学んだと『海北友松夫妻像』の賛に記される里村紹巴(1525~1602)である。また紹巴との縁で交流を持つことになったのが細川幽斎であって、幽斎からは古今伝授を受けたことが知られる」
 「『兼如筑紫道中記』は、先に触れた是斎重鑑の署名をもつ『九州下向記』『是斎重鑑覚書』と内容を等しくするもので、奥書には『慶長3年7月15日 是斎兼如(花押)』と記されている。おそらく自筆ではなく、江戸初期頃の写しであろう」などと。
 要するに「九州下向記」「是斎重鑑覚書」の作者の是斎重鑑は、猪苗代兼如であることが明らかにされているわけです。またこの解説には友松が細川幽斎と交流していたことも記されていましたが、展覧会では、友松の人間関係図も展示されており、友松と信頼関係で結ばれていた人物として、幽斎の他、三成、安国寺恵瓊、齋藤利三、(信長の重臣で、春日局の父親)、真如堂の東陽坊長盛などの名が挙がっていました。
 展覧会では、齋藤利三書状や春日局像も展示されていましたが、利三書状についての図録の解説の中で、本能寺の変の後、処刑され晒された利三の遺骸を、友松と東陽坊長盛が奪い取って、真如堂に手厚く葬ったという記述が「海北家由緒記」や「海北友松夫妻像」賛にあるものの、「そういう武勇伝が本当にあったかどうかは微妙だが、利三の墓は確かに真如堂にあり、しかもその隣りに友松の墓が立っていることからみて、三者が厚い絆で結ばれていたのは確かであろう」と記されています。
 友松は本能寺の変の後、利三を失い、それから18年後の関ヶ原の戦いでは、三成や安国寺恵瓊などを失い、失意にくれたと思われます。4月23日に放送されたEテレの「日曜美術館」の海北友松の特集で、関ヶ原の戦いで友を失った友松の悲しみに触れられていましたが、「友」の中には三成も含まれていたはずです。
 

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