美術探訪8 「海北友松展」10 「八条宮智仁親王との出会い」 金碧屏風

 「海北友松展」の「第六章 八条宮智仁親王との出会いー大和絵金碧屏風を描くー」の会場に入ると、それまでの水墨画中心のモノトーンがちの世界とは、全く違った金色がまぶしいほどの華麗な世界が広がっていました。
 展示されていた「浜松図屏風」と「網干(あぼし)図屏風」は、八条宮の依頼によって制作されたものですが、友松と八条宮との出会いについて、図録には次のように記されています。
 「慶長7年(1602)、友松は細川幽斎や公家の中院通勝の推挙によって、八条宮智仁親王(後陽成天皇の実弟で桂離宮の創設者)のもとに出入りするようになる」と。
 友松と幽斎とは親しい交流をしていたわけですが、三成との仲も親しいということからして、その接点は島津家との取次を幽斎も三成も天正15年からしていたことに遡るのではないかと個人的には考えています。むろん、そこを示す証拠は今のところ、何もないのですが。むろん、幽斎と三成は関ヶ原の戦いで敵味方に分かれてしまい、戦後三成は処刑されてしまいますが、友松はそういう展開に心を痛めていたはずです。
 秀吉は後陽成天皇の聚楽第行幸を果たし、後陽成天皇と秀吉との関係は深いものがあり、また秀吉は一時、智仁親王を猶子にしますが、それを止め八条宮を創設します。その背景には、秀吉の子の鶴松が生まれたということが挙げられます。後陽成天皇は智仁親王に天皇の位を継がせようとしますが、家康などの反対にあって実現しませんでした。その理由として、智仁親王が秀吉の猶子になったことがあると云われています。
 「網干図屏風」は、干し網が何本も突っ立っているというユニークなもので、浜や海の華やかな景色の中にあって、生活感さえ漂わせています。 
 「扇面貼付屏風」は、八条宮と関係がありませんが、同じ会場に展示されており、これも目を惹きました。扇が波間を流れてゆくという趣向で、王朝的な雰囲気が漂っていました。
 「第七章 横溢する個性ー妙心寺の金碧屏風ー」にも、鮮やかな金碧屏風が展示されていましたが、中でも「花卉図屏風」の右隻の牡丹の花はそれぞれきめ細かく描かれており、写実的です。図録には「まるで天に向かって伸び上がるような勢いを見せており、牡丹の生命感を見事に表出する」と記されています。
 妙心寺と友松の関係については、妙心寺の塔頭の寿聖院の僧侶となっていた、三成の長男の重家(出家して宗亨)の存在もあったではないでしょうか。三成の嫡男が、関ヶ原の戦いの後、寿聖院に入ったということは友松は当然知っていたはずですし、友松が妙心寺の絵を描くのに通う際に、宗亨と交流したこともあったのではないかと私は考えています。

 

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