三成の実像2139 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」4

 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、立花宗茂発給の感状と、大津城攻めについての他の武将が発給された感状との比較が行われています。
 9月15日付で毛利元康が家臣の堀江善右衛門尉に出した感状が史料として取り上げられていますが、「9月13日の大津城攻めの時に、堀江善右衛門尉が大津城への一番乗りをおこなったことと敵の首を一つ討ち取ったことを賞した内容」です。
 白峰氏の同書では、「立花宗茂が出した感状では、毛利元康が出した感状のように、大津城への一番乗りを賞したものはなかったので、毛利元康が大津城攻めの先手であり、立花宗茂は先手ではなかったのかもしれない」と指摘されています。
 感状の書止文言の違いにも着目されています。すなわち、毛利元康の方は「仍感状如件」であり、立花宗茂は「恐々謹言」で、「立花宗茂が出した感状は書状形式であり、毛利元康が出した感状は直状(ちょくじょう)形式である。ただし、直状は年月日を書くのが書状と異なる点であるが、毛利元康が出した感状では月日のみの記載であり、年次の記載はない」と記されています。
白峰氏の同書には、大津城攻めが終わって和睦が整った日について、9月12日説、13日説、14日説があるものの、「毛利元康が出した感状には9月13日に大津城攻めをおこなったと記されているので」、「9月12日和睦説は否定できる」と指摘されています。
 この点について、中野等氏「立花宗茂」(吉川弘文館)には、次のように記されています。
 9月13日、「責め手は毛利元康らの軍勢が三井寺口、尾花川口に、小早川秀包らが京町口へ、宗茂と筑紫広門は浜町へ殺到した。このほか湖上から攻め入る軍勢もあって三の丸が落ち、日暮れには二の丸も落ちた。14日には本丸の攻防戦が続く」と記されています。14日には本丸の攻防戦が続くが、そのさなか西軍は高野山の木食応其(もくじきおうご)をたてて開城を要求する。高次自身は徹底抗戦の構えをみせるが、周囲の説得をうけて降伏する」と記されており、9月14日和睦説が採られていることがわかります。
 大津城の開城交渉には、北政所と淀殿の連携があったという跡部信氏の見解があります。北政所は孝蔵主を、淀殿は木食応其上人と饗庭局を交渉の使者に送りました。北政所も淀殿も毛利・三成ら豊臣公儀側として動いていたことがわかります。
 木食上人は三成と関わりの深い人物でした。秀吉が高野山を攻撃しようとした時、三成が木食上人らのために秀吉の説得工作に努め、それがきっかけになったと白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)で指摘されています。九州攻めの時も木食上人は三成と行動を共にしていますし、関ヶ原の戦いの後、三成の三男の左吉が出家することができたのは木食上人の尽力があったからでした。
 

この記事へのコメント

2017年12月31日 23:43
今年も何とか無事に大晦日を迎えることができました。年明け早々、1月3日PM10時からNHK総合で三成公の子孫様が歴史番組に出演されるようですよ。楽しみです。私も体を整えて1月中には長浜の温泉に出かける予定です。石田様もお風邪など召されませんようにご自愛くださいませ。それでは良いお年をお迎えください。ありがとうございました。
2018年01月02日 00:10
tokebi さん
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 情報提供、まことにありがとうごさいます。三成公のご子孫の出演番組、気づかずにやり過ごしていたかもしれません。どなたが出演され、どのようなお話をされるのか、興味津々です。
 長浜の温泉で、ゆっくりお体を休ませてください。その折に、石田町などにも立ち寄られるのでしょうか。くれぐれも無理はなさいませんように。

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